悪霊のプロムナード
M県北部の湖畔公園一帯が魍魎により埋め尽くされてから一時間、すでに現着していた魍魎対策課の面々は息を飲んだ。
普段は閑静な散歩道でしかない場所が、地獄さながらの様相を呈していた。一体この場所で、何人の人間が魍魎へと変転してしまったのか、辺りを埋め尽くした臓物のような化け物は数キロもの距離に渡り、広がっていた。
「核は?」三上が夜風へと尋ねる。彼女だけがその正確な位置を目にできる、魍魎の唯一にして最大の弱点━━核。
「あります━━でも」夜風は目にしていた。髪膚に感じる異様な雰囲気と空気の中で、見たものだけをそのまま伝える。見えている、事実だけを。
「ひとつやふたつではありません」
それはつまり、魍魎化した人間の数を━━この臓物の海を形成している命の数を示していた。
「これほどの規模は前例がない。いったいなにがあったというんだ。ここまでの大人数が一斉に魍魎化したとでもいうのか……」
同時に━━同じ時、同じ場所で複数人が魍魎化したという事例はある。しかし、目の前の光景はその比ではない。ひとつやふたつではない━━そう語った夜風の言葉通り、一人や二人の人間ではあり得なかった。数キロにも及ぶ範囲で、少なくとも百人規模の人間が魍魎化していなくては説明がつかない。しかし━━
「当時、この場所では特にイベントの類いは開催されてないっスね。ただ、人通りのある散歩道なんで、この時間でも無人ということは少なかったみたいです」貝塚が手元のデータを確認しながら、説明する。
「だとしても、その全員が一斉に魍魎化するなどとは思えない」とは言うものの、三上にも原因の特定などはできなかった。そもそもが原因不明の現象だ。前例がないからといって、なにが起こるともしれないのだから。
「まあ、規模はでかいっスけど、幸運にも攻撃的な魍魎じゃなかったのが救いですね。片っ端から撃ちまくって━━」
「いや、それでは弾の無駄になる」三上は貝塚の提案を遮って却下した。「"力の付与"とて無限ではない。現場の無駄がしれたら反発する者も出てくるだろう。それは利口なやり方ではない」
「だったら、どう━━」
「わたしがやります」今度は夜風が、貝塚の言葉に被せるように進言した。もっとも効果的で無駄がなく、手っ取り早い。それが、夜風による魍魎の殲滅だった。
ただし、この規模では時間も体力も、それなりのものを要するだろう。
「いけるか?」三上が問う。他に夜風が赴くほどの魍魎化事件が発生していない限りは、時間はいくらでもある。ただし、さすがのデモーニッシュな夜風とて、無限の体力を有しているというわけではない。身体能力こそ人間離れしてはいるが、体力は有限なのだ。通常の人間よりは優れているとはいえ、その限界は必ず存在する。
「やります」いけるかどうかではない、ただ、やると決めて動き出す。
自分が存在する意味。たったひとつの役割。それなくして、生きている価値はなし。短く息を吸い込んだ夜風が、その名の通り、夜に吹く風のように走った。
煌めく愛刀・霞矩。臓物のごとき体細胞を切断し、その地肉とともに核を破壊する。地に落ちた臓物は暗い色の煙となって、血のような液体は土に染み込み消えていく。
硬いゴムのような手応えを残す魍魎の核。それを破壊すると同時に、その持ち主であった人間━━魍魎の分の細胞も死滅する。それを繰り返すことで、わずかずつでも魍魎の地平が減少してゆく。
「こりゃあ、朝までに終わりますかね?」どう見ても先の長そうな仕事に、貝塚は言葉を発する。
「終わるまで待つしかない。弾薬は無駄にできないからな、節約できるものは節約せざるを得ないだろう」これで戦いが終わるのなら使いもするが、先の見えない戦いだから。と、三上は独り言のように呟いた。
「そっスね……いざって時に弾切れじゃ、霊能さんらも浮かばれないか。がんばれ夜風ちん、オレはいつでもキミの味方だ」
*****
貝塚の声が聞こえたわけでもないだろうが、チッと舌打ちした夜風が刀を振った。逓減しているとはいえ、キリがない。上空から確認した規模から見ても、まだ十分の一にも到達していないと感じる。
朝までに終わるだろうか━━いや、その前に体力は持つだろうか……。
しかし、考える間もないほど、魍魎の核はたくさんあった。夜風の目にはうっすらと赤く輝いて映るそれが、見たこともないほど密集している。町一つが飲み込まれたのではないかという錯覚すら覚えた。
(多い━━どうしてこんなに)
『いやああああああっ!』まるで夜風の思いに反応したかのようなタイミングで、声ではない声が聞こえた。音ではない。鼓膜を震わせるそれではなく、頭の中に直接届く類いの声。
時に魍魎となった人間が絶え入る間際に、そのような叫びを聞くことがある。しかし、今度のそれはまだ生きている魍魎が発したものだった。
魍魎の叫び━━怨嗟か痛みか、わからずとも、なにかを伝えるその叫びを、夜風ははじめて聞いた。
これまで魍魎は魍魎でしかなく、ただ、人間ではなくなった細胞の塊に過ぎない。それが喋るだとか、他のいかなる方法でその意思を伝えるようなことも一切なかった。それなのに今、この場にいる魍魎たちは、なにかを叫んでいる。伝えようとしている。あるいはなにか、他の意味があるのか。
構わず斬り進む夜風に、さらなる叫びが届く。
『痛ぁい! 痛ぁぁぁいいィイ……助けてェえええっ! お前も死ねェえええええ!』
無数の意識が混ざりあったような叫びが、夜風の頭の中に響く。暴れまわるその言葉を防ぐ術はなく、顔を歪めて耐えるよりない。
あるイメージが湧いた。
それは突然に、フラッシュバックのような一瞬の映像として、夜風の脳裏に映し出される。
魍魎が生きた人間を取り込み、強制的に魍魎化させる。おぞましい映像。
(まさか━━そんなことができるの?)
前例はない。しかし、だからと言ってあり得ない話ではない。
魍魎は、人間を取り込むのか。
そのような芸当が可能ならば、何故、今まではそれをしなかったのか。疑問は尽きない。しかし答えも、自らで見つけるまで、与えられることはない。魍魎化は、人知を越えた未知の現象なのだから。
原因は不明だが、魍魎が辺り一帯の人間を巻き込んで、これだけの規模にまで成長したということは間違いがなさそうだった。
どうして急にそのような現象が発生したのか。また、夜風の脳裏に映像が映し出されたのか。なにもわからないが、今は動き続ける以外に選択肢もない。
目の前の核を、一つずつ確実に斬り捨てていくだけだ。
深い闇の中で、それでも夜目の利く夜風の行動に支障はない。投光器の光が届かない場所においても、問題なく任務を遂行していく。
半分は消しただろうか━━かなり目減りしてきた魍魎の海は、すでにスタート地点からは離れた地域に到達している。俯瞰した映像を思い出す。だいたいの位置を把握すると、確かに半分以上は片付いたのではないかと思えた。このペースならば、思ったよりもだいぶ早くに━━。
しゃりん……と、澄んだ鈴の音が響いた。
血肉を斬り捨てる音の中でも、それははっきりと空間に響き渡り、夜風の意識をそちらに向ける。
思わず立ち止まって辺りを見回すが、魍魎の姿以外に生きた何者かの姿は見えない。
(気のせい……?)そう思った矢先、再び鈴の音が聞こえた。気のせいではない。実際に空気を震わせて、耳に届いている音だ。
夜風は身構えた。
得体の知れない何かを感じて━━魍魎とは別の危険を探さずにはいられなかった。
魍魎化の後遺症で、細身ながら通常の人間を上回る筋力を持つ夜風だからこそ、本来このような少女には自在に扱えるはずもない重量のある霞矩をも振り回すことができる。すなわち、力においていかに屈強な者であろうと、それが人間である限り、夜風が負ける理由はない。
たとえ大勢の暴漢に囲まれようと、脅威にはなり得ないのだ。
そんな夜風が緊張するような気配が、闇の中から立ち現れる。
人影━━魍魎ではない。なぜならば、薄く輝く赤い核が見えなかったから。それは間違いない。では人間なのか。それも違う。ただの人間が、これほどの邪気を纏うものか。
夜風すら鳥肌の立つような気配を纏った人影が、闇の中から現れた。
わずかに届く光の下で、その姿がはっきりする。
薄紫の着物姿で、頭部には御高祖頭巾を被った女。目元は隠されているが、紅を引いた口元が笑みのかたちを見せている。
「あなたはどうしてこちらに来ないの」
笑うような、楽しそうな声音が恐ろしい。こちら、というのが魍魎の側だということを理解してから、夜風は返答した。
「行く理由がない」
「どうして。理由ならあるのに。だってあなたも魍魎でしょう。かたちが違うというだけで、核が生じていないというだけで、あなたもわたしも魍魎でしょう」
その言葉から、女もまた夜風と同じものなのだと理解する。まさか同じ境遇の人間が他にもいたなどとは、今の今まで考えもしなかったことだ。夜風は、自分だけが突然変異的に誕生した化け物だと自覚していた。しかし、自分一人ではなかったのだ。
魍魎となり、しかし人のかたちを失わなかった者は。
これは、夜風以外に知る者のない事実だろうと思われた。魍魎対策課は元より、誰もそのような情報を持つ者はなかった。誰もがみな、夜風のような存在は夜風だけだと決めつけていた。
事実、今まではいなかったのだから、当然だ。
「あなたは誰なの?」霞矩を構えた夜風は、いつでも動けるように腰を落としている。
女は動かない。手に巻き付けた紐付きの鈴だけが、時折、思い出したようにわずかに揺れる。
「わたしは時雨。あなたと同じ。あなたも同じ。こちらへいらっしゃい。そちらはいずれ無くなりますよ」ふふっ、と静かに笑う怪しい口元。
「意味がわからないわ」刀を構える。女━━時雨がどう動くのかもわからない。油断はしない。
「わからない? どうして? それがあなたの使命でしょうに。それがわたしの使命のように。ああ、忘れてしまったの。それがあなたの使命なのに。それがわたしの使命なのに。わたしたちの……では、お死になさい。こちらにこないというならば、忘れてしまったのならば、あなたはここで、お死になさい」
時雨が跳躍した。人間ではあり得ない跳躍力で中空を舞うと、その右手が伸びた。
魍魎化した、どこまでも伸びる体組織が夜風を飲み込もうとする。
すんでのところで横に飛び、かわす。同時に霞矩を振り、傷を負わせる。痛みすらないのか、時雨は叫ぶこともない。吹き出る黒い液体も、なんでもない事のように気にしていない。
化け物━━自分と同じ。夜風はその思いを強くしたが、しかし違うところがある。
痛覚。自分は痛みを感じる。傷を負えば痛み、たとえば腕を失ったのなら叫ぶだろう。だからこそ、傷を負うわけにも、腕を失うわけにもいかない。負けられない。
そんな夜風とは違い、痛みを感じないのであろう時雨に躊躇はない。体組織を傷つけられようがお構い無しに攻め立てる。
核がないという事実が問題だった。すなわち、弱点がない。わかりやすい魍魎としての弱点が、時雨にはない。しかしそれは夜風とて同じことで━━ならば、と夜風は首を狙う。
相手もまた人間の形をしている限り、頭部を落とせばそれで終わるだろうと考えた。自分だって、首を切り落とされれば命はない。それは、自分が一番わかっている。
巨大な鞭のようにしなる腕を蹴り、時雨の本体を襲う。しかし相手の身体能力も同等で、簡単に首を取れるはずもなかった。
夜風の一太刀は避けられて、時雨との距離が広がる。地に立ち、油断なく互いが互いを見据える。
「使命ってなんなの?」夜風が問うた。
時雨が口にした言葉━━その真意が知りたかった。おそらく自分が使命だとすら思っていたこの仕事と、時雨の口にするそれは違うのだろうと思いながら。
「本当に知らないのね。教えてもらえなかったのかしら……ふふ、おかしい。魍魎を増やすのよ。命令して、増やすの。それが使命。わたしの、あなたの。さあ、わかったのだから、増やしなさい。使命をまっとうしなさい。わたしと一緒に。あなたと一緒に」
(魍魎を増やす? 命令して?)そんなことができるはずもない━━夜風はそう思う。意思の疎通すらできないものを、どうやって動かすというのだ。
夜風には、その疑問しかなかった。
「わからないわ、あなたの言っていることが」
「どうして……あなたは魍魎なのに。わたしと同じなのに…………あら?」そこで時雨は気づく。痛みを感じないがために気づくのが遅れたが、流れ出る液体が止まらない。
これまでは多少傷ついたとしても、自己修復の機能が働き、たちどころに治っていた。治るはずの傷が治らない。
「あらあ、血が止まらない……あなたの刀、いやらしい。いけないわ。それは、いけないわね」言って、突然、自らの左腕を根元からもぎ取った。
うふふ、と気味の悪い笑みをこぼすと、その左腕を夜風目掛けて投げつける。
咄嗟に反応した夜風はその腕を斬った━━瞬間。
邪悪な怨念の籠められた液体が霞矩の刀身を包み込むように広がった。
その異様さとおぞましい気配に、思わず刀を離してしまった夜風。霞矩が地面に転がり、残るはずの液体が煙のようになり、徐々に薄くなってゆく。
しかし、そればかりに気を取られているわけにもいかず━━視線を向けた先には、すでに時雨の姿はなくなっていた。遠く、微かに鈴の音が聞こえたような気もするが、すでに距離はわからない。逃げられたのだろう。
再び地面に向けた視線の先では━━霞矩の刀身が侵食されたようにボロボロになっている、無残な姿があった。
これではもう、使い物にはならない。時雨はいなくなったが、残りの魍魎を消し去ることはできないと悟る。
銃弾を使うことになるだろう。そう思いながら、死んだ刀を拾い上げ、夜風は来た道を引き返して行った。




