魍魎の少女
新月の闇の中、人家の屋根から屋根へと飛び移る影があった。
影の主はまだ十代の少女で、この闇の中でさえ視界を失わず、人間離れした脚力でもって目的地へとひた走っている。
警察車両による封鎖線を見下ろしながら、その先へ━━目的の民家は、そこからさらに距離があった。警察といえど危険があり、近づいたところでなにもできない。これが現状だった。
目的の家はすぐにわかった。
二階の部屋の窓から、太い木のようなものが天に向かって伸びている。しかもそれは、うねうねと気持ち悪く脈動していた。
生きているのだ。
少女はその家の屋根から跳躍すると、鞘から抜き放った真剣を振りかぶり、落下の勢いそのままに太い幹ほどもある生体組織を叩き斬る。
ベランダの手すりを蹴り、ガラス戸を突き破って室内に侵入した。捨て鉢の行動ではなく、そうしても大丈夫だという自負がある。なぜなら自分も━━。
部屋の中は、蠢く大蛇のようなもので埋め尽くされていた。
たった今、切断したものが一番太い枝だったようで、中心に位置する本体であろう肉塊が、苦しそうに鳴動している。
顔がひとつ、ふたつ、みっつ。
おそらく一家全員を取り込んだ本体は、その激しく蠢く躰に反して、攻撃の意志がなかった。危険度の低い魍魎が相手ならば、事は簡単だ。
仲良く並んだみっつの顔を目掛けて、少女は横薙ぎに刀を振る。それであっけなく活動を停止した魍魎は、もはや動く気配もなかった。
魂は帰らないが、どこか、ここではない世界へと還ってゆくのだろうか。
ふと、そんなことを思いながら、住む者のなくなった民家の、玄関から外へと出る。
少女の目前に、自動小銃を片手にした、ガラの悪い男が立ち塞がった。
「あっれー、もう終わったのかよ? さすがだなぁ夜風ちん。職掌柄、こうして自動小銃片手にわざわざ駆けつけたオレの意味━━」
「じゃあね」
夜風と呼ばれた少女はにべもなく、まるで男になど興味がないようにして行ってしまう。
「あ、ちょっとぉ……こんなひでぇ仕事を薄給でがんばってるオレにさぁ、もちょっと優しく構ってくれたっていいじゃな~い」
━━そんな安月給でもないはずだが。
そのことを知っている夜風は、さらに無視を徹底すると、足早に、徒歩で帰路を行くのだった。
*****
M県S市。全国的にもけして知名度の低い都市ではないだろう。
その葉御風山の麓にある葉御風神社には、近代的なオフィス然とした社務所がある。
が、ここの社務所は通常の神社のそれとはまったく異質なものだった。神社としての役割や、そのための人間もいるにはいるが、もっと重要な仕事と、それに携わる人間が大勢いた。
社務所の地下階にあたる部分に、それらの施設や人材が揃っている。
日本政府直属の対魍魎部署である、通称<夜露>。隠語のようなもので、夜間、その任務において血に濡れることから、そう呼ばれているのだが━━実際に働いている人間たちが自らをそう呼称することはあまりなかった。
社務所の地下に広がる施設は広く、中には居住区すらも存在する。一応、男女で区別されてはいるのだが、ほとんどの施設は共用である。
朝食のため食堂を訪れた夜風のもとに、例のごとく近寄る人物がいる。
「夜風ち~ん、一緒に食べてもいいよねぇ?」
その性格もそうだが、目障りな金髪が、夜風は苦手であった。政府直属の部署という関係上、この男のような髪色や格好をした人間が他にはいない。
貝塚馬路造、年齢は二十六歳だったはずだ。
ふざけた言動はもとより、名前までどこか、ふざけている━━夜風は無視を決め込むと、プロの調理人が作った朝食を、もくもくと口に運んだ。
寧日と呼べる日なんてほとんどないが、それでもわずかばかりの平穏な時間が邪魔されることに苛立ちを覚える夜風。「あっち行って」と呟いてみたが、貝塚もそれを無視すると、勝手に対面の席へと腰を下ろした。
またなにか、愚にもつかない無駄話を聞かされる━━そう覚悟していた夜風であるが、反して貝塚は黙したままで、なにも言わない。
なんだろう━━不思議に思って上目遣いに覗いてみると、貝塚の視線はこちらを向いていて、目が合ってしまう。
「……なに?」口元に垂れた前髪を払いながら、夜風は問うた。
「いやぁ、夜風ちん、やっぱめちゃくちゃかわいいな~って思ってさ」
これは、からかわれているわけでもない。
貝塚が、夜風に好意を寄せていることは、知っている。その想いを隠さないことも。
普通の━━まともな少女であれば、顔を赤らめるところだろう。だが、感情の起伏に乏しい夜風は、心を動かすこともなく。
「食べたら?」と、貝塚の前に置かれた朝食に目をやると、ぶっきらぼうに告げたのだった。
「夜風ちんの心に突き刺せる言葉を、オレはまだ知らない……か。まあいいさ、戦いは始まったばかりだ。オレと、夜風ちんの鋼の要塞との心理戦━━いでっ」
貝塚の足にぶつかったのは、子供だった。床離れの悪い子供が空腹に耐えかねて、寝ぼけたままで歩いてきた。まさにそんな状態で、貝塚の足に衝突したのだ。
「そうか、天馬もオレのライバルだったな……しかし、夜風ちんとは歳が離れすぎているお前に、果たして勝ち目はあるのかな━━あいたっ!」
貝塚の頭をひっぱたいたのは、彼の上司にあたる巨体の壮年、三上春。本人のいないところでは「春ちゃん」と呼ぶこともある貝塚たが、本人を目の前にしてその呼び方をすることはない。彼とて、自らの命を危険に晒すほど、愚かではなかった。
「オレの息子が迷惑をかけたな」
「三上サンッ、で、なんではたくんスか!」
「詫びだ」
「どこの世界の!」
貝塚との会話を切り上げて、息子の天馬を抱き抱えた三上はそのまま向こうへ行ってしまう。要職を担う三上は、この部署でもトップに近い位置にいる。
「くそぅ、天馬からぶつかってきたのに、なんでオレがはたかれるんだよ……春ちゃんのアホ━━うおっ」声量と、距離から考えても絶対に声が届いたはずはないのだが、こちらを睨んだ三上の形相に驚き、慌てて顔を背ける貝塚。
夜風はそんな貝塚から興味を失うと、食器を片付けるため立ち上がった。食事は終わり、このあとしばしの休息を挟んで、検査がある。
通常の人間ではない夜風は、この検査を日課としていて、毎日必ず、受けなければいけなかった。ともあれ、毎日計測を行ったところで、変化はない。しかし、その変化がないということこそが最も重要であり、それを確認するための検査でもあるのだ。
検査を担当するのは草加部蜜という三十代の女性だった。夜風が全裸になって検査を受けなければいけないことに配慮して、同性に担当させているのだろうが、夜風本人はたとえ男性だったとしても別に気にはしなかったはずだ。
羞恥という感情すら乏しく、男性に裸を見られるのがどうしても嫌だ、という気持ちがなかった。だからといって自分から見せびらかすようなことは、もちろんない。たとえば貝塚に頼まれたとしても、見せはしないだろう。その必要性がないのだから。
「鹿守さん、今日の調子は?」草加部が、お決まりの質問を口にする。夜風の返答も、いつもと変わらぬものだった。
夜風の姓は鹿守という。鹿守夜風。
かつて一度魍魎化を経験し、そして助かった、唯一の少女。世界中で、ただひとり、彼女だけが魍魎化から生還したという、奇跡の存在。
だが、ただで助かったわけでは、もちろんなかった。
人間離れした身体能力と、それと引き換えにしたかのようにして失った、かつての感情たち。それにより、性格も変わった。元の場所では、生きづらくなった。だから、この場所は、この仕事は夜風にとっての救いでもあったのだ。
生きている実感。それが得られる、最後の居場所。
検査のための機械を躰に取り付けられながら、なんの感情もないままに━━無表情な夜風の両目は、目の前の空間を映しつづける。




