降り注いだ光
「…………え?」
自身へと降り注ぐ鮮血を眺めながら、セシリアは呆然とした声を上げた。
そして声を上げる事が出来るという事実に、今度は意識して驚きを覚える。
何故まだ死んでいないのかと、喜びよりも困惑が先に立ち、その声が聞こえたのはその時のことであった。
「ふぅ……危機一髪ってところだったな。大丈夫か?」
声に、視線を向ける……いや、その必要はなかった。
完全に死んだと思っていたからか、あるいは鮮血によって視界が遮られていたからかは分からないが、気が付けばマッドベアーだったものの後ろに声の主は立っていたのだ。
そうしてその瞬間、連想するようにマッドベアーそのもののことも思い出すも……その様子は、今無意識に思った通りになっていた。
即ち、マッドベアーだったもの、としか言えないような状態になっていたのである。
五メートルはあっただろう身体は、見る影もない。
というか、それだけを目にしたら、一体元はどんな形だったのか想像も付かないだろう。
頭部や上半身どころか、胴体と呼ぶべき場所すらもそのほとんどが消し飛んでいた。
精々が、両足を繋げるための部分がギリギリで残っている、と言える程度だ。
身体の半分以上が跡形もなくなっているということであり、どんなことをすればこんなことが出来るのかとしか思えない。
そこに恐怖を覚える事がなかったのは、助けられたという事実以上に、きっと未だに現実感が希薄だからだ。
どこか夢でも見ているような感覚というか、おそらく実は既に死んでいるのだと言われたところで、セシリアはその言葉をそのまま信じてしまうことだろう。
そのぐらいに、助かったということも、あのマッドベアーがこんな姿になってしまったということも、信じられないことだったのである。
しかも、それを成した人物が、自分と大して歳も変わらないだろう少年だとなれば尚更だ。
そんなことを頭の片隅で考えながらも、セシリアの視線は自然とその少年のことを追っていた。
観察するように、その隅々までを眺める。
黒髪黒瞳というのは、本来この国では珍しいものではあったが、今はそうでもない。
魔王軍との最前線であるこの国には、様々な人種の人間が訪れるからだ。
ただ、そのほとんどは前線基地と化している港町の方へと向かうので、王都近くで見かけるのは相変わらず珍しいかもしれない。
顔付きは、十分整っていると言える方だろう。
少なくとも、王宮に居ても文句は言われない程度ではある……などと言ってしまうと、少し贔屓目が過ぎるか。
しかし命を救われた形になるのだ。
ならばある程度贔屓をするのは当然……と、そこまで思考が及んだところで、ようやく気付く。
そうだ、命の恩人を相手に、礼を言わないどころか不躾に全身を嘗め回すように眺めるなど、失礼にも程がある。
どう考えてもこの少年が不審人物であったとしても、だ。
「ありっ――~~~~~っ!?」
だがそれらのことに対して、言い訳のためにも何かを口にしようとした瞬間、セシリアは思いっきり悶えた。
全身を走り抜けた激痛に、だ。
まるで今頃痛みを思い出したかの如く、一気に全身へとそれが襲い掛かってきたのである。
おかげで現実感が云々などという戯言は頭の中から吹き飛んだものの、同時に別のものまで吹き飛んでしまいそうであった。
というか、文字通りの意味で死ぬほど痛い。
むしろこれで死ねないのは新手の嫌がらせなのではないか、などと思ってしまうほどだ。
それぐらいの痛みであった。
「あー、んー……とりあえず、話をする前に治療が必要そうだな」
その言葉と声の調子に、何を暢気な!? とセシリアは頭の中で叫んだ。
頭の中だけなのは、単純に痛みで声が出せなかったからである。
喋れたら間違いなく実際に叫んでもいただろう。
それでもせめてもの抵抗とばかりに、涙目で少年のことを睨みつける。
それは完全にただの八つ当たりであったが、どうやら少年にはいまいち通じなかったようだ。
首を傾げながら、こちらへと近付き膝立ちとなった少年の手がおもむろに伸ばされる。
ところでその段階になってようやく思考が追いついてきたが、治療とは一体何をするつもりなのだろうか。
ポーション等を持っている様子はなく、実際伸ばされた手にもそういったものは存在していない。
というかそもそもの疑問として、ポーションでこの怪我が治るのかというものがある。
セシリアは立場上あまりおおっぴらに訓練等は出来ないが、今回のように冒険者の真似事を出来る程度には鍛えられているのだ。
その際の訓練は割と本格的なものではあったし、生傷も絶えないほどのものではあった。
だがさすがに傷を残すのはまずいということで、ポーションを使ってまで癒していたのだが、アレにこれほどの傷を癒すほどの力はなかったはずである。
まさか治療と称してよからぬことを考えているのでは、と思ったものの、今のセシリアに出来ることは痛みに悶えることだけだ。
一体何をするつもりなのかと訝しみながらも、ただそれを眺め――
「――癒しの光よ、我が意に応え、汝の本分を示せ」
身体に触れるか否か、というところで手が止まった瞬間、そんな少年の呟きと共にその手が光りだした。
いや、より正確に言うならば、手の周辺が光り始めたと言うべきか。
さらにはその光が広がるように、あるいは移るようにして、セシリアの全身もまた光り始める。
その光景を、セシリアは呆然として眺めていた。
おそらくは、酷く間抜けな顔をしていたことだろう。
顔が見えるのならば、の話だが。
全身が痛むことなど忘れてしまったかのように、セシリアはただ光を眺める。
そして痛みを忘れたという表現は、ある意味で間違ってもいなかった。
実際に、身体がそれを忘れてしまったかの如く、痛みを感じなくなっていたからだ。
試しに指先を少しだけ動かしてみるも、何の問題もなく動く。
痛みは感じず、それは手のひらを開閉してみたところで同じであった。
痛みが消えた、というよりは、多分傷が癒えたのだろう。
当たり前ではあるが、普通ならば有り得ないことである。
手をかざしただけで傷が治るのならば、ポーション等を扱っている商店などはとっくに廃業してしまっていたはずだ。
しかしそういった現象のことを、セシリアは知っていた。
傷を治す、というものを見るのは初めてだが、分からないわけがない。
呆然としたまま、その名を呟く。
「……魔、術?」
「お、無事成功したみたいだな。いや、実のところ他人に使うのは初めてでな。ちょっと不安があったんだが、問題ないようで何よりだ」
気楽な様子でそんなことを言いながら立ち上がった少年の姿を、呆然としたままでセシリアは眺めていた。
その胸中では先ほど覚えた感情が少しずつ強く、明確な形を作り始めていっている。
即ち、不審と疑惑であった。
少年は身につけているものなどから考えるに、傭兵や冒険者といったところに見える。
だが先に述べたように、今それらの需要は王都にはほぼない。
ただでさえこの場にいる理由は薄いというのに、少年は魔術まで使えるというのだ。
明らかに怪しかった。
とはいえ、それをここで問いただしたところで無意味であろう。
怪しい人物に怪しいと言ったところで素直に白状するかという話である。
下手をすれば、そのままいなかったことにされかねない。
この少年にはそれを可能にするだけの実力があるのだ。
それに今のセシリアは、一応冒険者のリアということになっている。
ならばある程度のことは流す……せめてフリぐらいはしておくべきだ。
詳しいことを調べるのは、王都に帰ってからでも出来るし、今は得られた情報を確実に持って帰ることを優先とすべきである。
ヨーゼフあたりにはまず自分の身を最優先としろなどと言われそうだが、それはそれだ。
自分の身ももちろん大事だが、この身は何よりもこの国の民を優先をすることを義務付けられて、セシリアはそれを受け入れたのだから。
とりあえず、さしあたっては――
「えっと……一先ず、助けてくれてありがとう、でいいのかな? ボクはリア。見て分かる……かは分からないけど、一応冒険者をやってるよ」
そうして自己紹介と共に、目の前の少年へと手を差し出すのであった。




