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逃走

 激しく振動を繰り返す馬車に揺すられながら、セシリアはふと後方を振り向いた。

 目を細め、視界の彼方を眺め……そこに変わらずにある姿に、眉を潜める。

 これはいよいよ以てまずいかもしれない。


「アレの様子は如何ですか!?」


 と、聞こえた声に向き直ると、セシリアは小さく溜息を吐き出した。

 どう答えたものかを、一瞬迷ったからだ。


 ここからでは声の主――商人であり、この馬車の持ち主であり、またセシリアの護衛対象――ということになっている男の顔は見えない。

 だがその様子が必死であろうことは、今の馬車の速度と、聞こえた声の調子からしても明らかだ。


 ちらりと真横へと視線を向けれみれば、すぐそこに隣接している木々が、本来の馬車の速度から考えれば有り得ないほどの勢いで後方へと流れていく。

 こんな速度で走っていたらあっという間に馬が潰れてしまうだろうが、それも辞さない覚悟だということだ。

 先ほどの声が怒鳴るようなものではあったのも、この振動によって声が聞こえにくいというのと、必死であるあまりそれが声に出てしまったのだろう。


 そしてそれが分かるからこそ、セシリアは躊躇ってしまったのだ。

 素直に答えてしまったら、その心をへし折ることになってしまうかもしれないから。


 しかしその躊躇いこそが雄弁な答えとなってしまっていたことに、セシリアは直後に気付いた。

 続けて男――ヨーゼフから放たれた言葉と、そこに苦笑が混ざっていたからである。


「……なるほど、どうやら状況はかんばしくないようですな!」


 そうしてばれてしまったのであれば、これ以上隠しておく意味はない。

 まったく何をやっているんだと自らに自嘲の笑みを向けながら、セシリアもまたヨーゼフに負けないぐらいに声を張り上げた。


「うん、そうだね、正直に言えば悪いかな! だってアレとの距離は詰められてはいないけど、離せてもいないんだからね!」

「……確かにそれは、随分とまずそうですな……!」


 セシリアの言葉で、ヨーゼフは状況をより正確に把握したようであった。

 返ってきた声に、苦いものが含まれていたからである。


 だが正直に言ってしまえば、セシリアとしては少し意外であった。

 ヨーゼフの声には変わらず張りが、覇気があり、馬車の速度は微塵も緩んでいない。

 それは即ち、ヨーゼフの心は未だ折れてはおらず、生き残るつもりだということだからだ。


 しかしそこまで考え、いや、と自らの思考を否定する。

 意外だった、という部分をだ。


 そもそもその程度で心の折れるような人物であれば、今回のことに志願してきてくれたりはしなかっただろう。

 まったく自分の目もまだまだだなと思い、だが溜息を吐き出す代わりに口を開いた。


「ねえ、どう思うかな!?」

「そうですな……! 私の個人的な意見にはなりますが……まあ、こちらが弱るのを待っているのでしょうな……!」

「だよね……!」


 まったく以て同感であった。


 そうして同意を示しながら、セシリアは今一度後方へと視線を向ける。

 視界に映る光景は、先ほどから何一つ変わっていない。

 右手側には森が広がり、それ以外の大部分を草原が占めている。


 そして、百メートルほど離れた場所に、それは居た。


 全長は五メートルほど。

 その表面の色は黒に近い赤であり、それを目にした瞬間には逃走を選んでいた程度には有名な魔物だ。


 ――マッドベアー。


 体毛の色は殺した冒険者などの血によって染められたものであり、それを魔王によって認められたがために進化した存在。

 そんな与太話が流れ、ややもすると信じられてしまいかねない魔物であった。


 その脅威度は上級の魔物の中でもさらに上位であり、倒すのに確実を期すのであれば、上級の冒険者のパーティーを用意するよりは軍を用意すべき。

 そんなことまで言われ、そして事実とされる、こんな場所には決していていい存在ではなかった。


 だが何よりも問題なのは、その速度を以てすれば、自分達と同速ということは有り得ないということだ。

 潰れるのを厭わぬほどの速度で走っている馬が軍馬の中でも駿馬であろうとも、そんな魔物の速度には敵わない。

 それでも距離を詰められていないのは、このままの速度で走り続けるのは不可能だということを、向こうが知っているからだ。


 マッドベアーはあの外見に反し、かなり知能が高いとされている。

 無理をせずとも獲物が勝手に弱ってくれるならば、それを躊躇なく選ぶ程度のことはしてのけるだろう。


 とはいえ、それは自分達の生き死にという意味で言えば重大な問題ではあるが、現状の本質的な問題からは遠い。

 この場合真に問題なのは、先に述べた通りのこと……こんな場所には決していていい存在ではない、というところだ。


 生息範囲からは遠い、などという問題ではない。

 王都から程近いこんな場所に、そもそも魔物がいてはいけないのだ。


「それにしても、噂が本当だったなんてなぁ……さすがにもうちょい考えるべきだったかな……!?」

「それには正直同意を示したいのですが、まあ仕方ありますまい……! 誰も彼もが噂を軽視し、まともに取り合おうとした者すら、ひ……リア様一人だったのですからな……!」


 魔王の勢力圏内であり、死の大陸とも呼ばれるそこから、海を挟んだ向かい側に位置している、アルディア王国。

 人類の絶対戦線とも呼ばれ、最前線では魔王軍と日々戦っている我らが母国ではあるが、さすがに国中の全てが戦場になっているわけではない。

 特に前線から遠く離れた王都では、仮初の平和を享受することも出来……だが、そんな王都付近で魔物の姿が見られたという噂がまことしやかに囁かれるようになったのは、今から半年ほど前のことであった。


 当然ながら、最初は誰も取り合わなかった。

 それはセシリアも例外ではなく、そんなくだらない噂話が出来るほどに平和ボケをしているのかと、若干の苛立ちすら覚えたものだ。

 あるいは、それほどまでに今の王が気に食わぬのかと。


 しかしさすがに半年も消えずにいるとなれば、明らかに妙だ。

 そこでセシリアはその噂について調べるため、ヨーゼフの護衛という形で調査を始めたのである。


 まず最初は軽くということで、日帰りが可能な村への行商ついで、というはずだったのだが――


「まさか初日から当たりを引いちゃうなんてなぁ……!」

「やはりせめて冒険者も雇っておくべきでしたな……!」

「いやー、それはやっぱないって……! 王都で暇してるような冒険者だよ……!? 馬車の移動速度が遅くなるだけで、逆に今頃全滅しちゃってたんじゃないかな……!?」

「まあ確かに、王都に残っているような冒険者にアレの相手をしろとは無茶な話ですか……!」


 現王は、結界の効果範囲だけで言えば、歴代でも最高と呼ばれているほどだ。

 そんな結界がある以上、冒険者が王都でまともな仕事にありつけるわけがない。

 今でも王都にいる冒険者は、前線で傷付いたためにやむを得ず休養しているか、元よりやる気がないような連中なのだ。


 前者であればそもそも依頼を受けてくれないだろうし、後者であればまともに依頼をするかが怪しい。

 そういったわけで、セシリア本人がやるしかなかった、というわけであった。


「しかしそれならば、やはりしばらくは私一人で調査を行ってから、という形だった方が――」

「――ヨーゼフさん」


 それは声を張り上げたわけではない、静かな声であったが、そこに込めた意思を感じ取ったのだろうか。

 ヨーゼフはそれ以上言わず、口を噤んでくれた。


「ボクのことを考えてくれるのは正直ありがたいとは思ってるけど、ボクは恥知らずにはなりたくない。周囲の目とかは関係なく、ボク自身の誇りにかけて」

「……これは申し訳ありません。お節介を焼きすぎるのは年寄りの悪い癖ですな……!」

「まあ自分でもちょっと暴走気味かな、って思う時はあるから、そういう時とかは本当にありがたいんだけどね……!」


 妙になりかけた空気を戻すように、二人して再び声を張り上げる。

 そういうことを率先してやってくれるのは、本当にありがたかった。


 だがそんなやり取りをしている間にも馬車は先に進み、魔物が諦める気配はない。

 このままでは王都にまで運んでしまいそうだが……その心配は無用だろう。

 どう考えても、馬が潰れる方が早いからだ。


「……それにしても、やっぱりおかしいよなぁ。王都に近付くってことは、それだけ結界の効力が強まるってこと。どれだけ強力な魔物でも……ううん、強力な魔物ほど効力は高まるって話だし。まさか、あの話が本当だってことはないと思うけど……」


 その言葉に反応が返ってくる事がなかったのは、独り言だと判断したからか、単純に馬車の振動やら何やらで聞こえなかったのか……それとも、答える事が出来なかったのか。


 しかしそんなことをふと考えるも、それ以上思考を進めることは出来なかった。

 その瞬間、足元から伝わってくる振動の種類が僅かに変わったからだ。

 上下に加えて横のそれもが加わった振動が、セシリアの身体へと伝わってくる。


 思考は強制的に遮られ、一体何が、と思ったものの、その疑問は視線を真横に向けることで解決した。

 セシリア達が馬車で走っているのは、王都からそれほど離れていない場所にある森の真横である。

 その森がカーブを描いており、それに沿って馬車を移動させたためだったのだ。


「……あれ?」


 だがそうして進むことしばし、睨みつけるように後方を眺めていたセシリアは、そこで初めて違和感を覚え、首を傾げた。

 マッドベアーの姿が幾ら経っても見えなかったからである。


 途中で一度見えなくなったのは当然だ。

 森に沿って曲がっていたのだから、百メートルも離れていた姿が見えなくなるのは不思議でも何でもない。


 しかし何故、それが終わり再び直線になった今もその姿が見えないというのか。


「……向こうがこっちを見失った、とか?」


 多分に希望的観測を含んだその言葉を、即座に否定する。

 何か特別なことをしたわけではないのだ。

 そんなことが起こる道理がない。


 だが未だマッドベアーの姿が見えないというのは事実であり――


「ひ……リア様、どうかなさいましたかな……!?」

「あっ、うんっ! 実は、さっきからずっとマッドベアーの姿が見えないんだ! それで、おかしいなって思って!」

「何ですと……!? それは確かに妙ですな……!?」

「うん! それで、ヨーゼフさんは何か思い当たりそうなこととかあるかな!?」


 何かないかを考えているのか、すぐに返答はなかった。

 しばしその場には馬車が進む音だけが響き、そして結局はヨーゼフにも思い当たるものはなかったようである。


「……申し訳ありません、生憎と思い当たりそうな原因はありませんな!」

「ううん! ボクも全然思い浮かばないしね! 諦めたってことはないだろうし!」

「ですな! ありえるとすれば、他に何か興味の移るような対象でも発見したのか……あるいは、誰かが助けてくれた、とかですかな!?」

「……誰かが、助けてくれた?」


 その可能性は、まったく考えてはいなかった。

 しかしそれも当然で、少し考えてみるも、苦笑しか浮かんでこない。


 偶然森の中に誰かがいて、偶然こちらのことに気付いて、偶然その人がマッドベアーを倒せるぐらい強くて。

 そうしてタイミングよく、倒してくれた。


 そんなの――


「……さすがに、それは無理があるんじゃないかな!?」

「ですな!」


 直後、互いに仕方がないな言わんばかりの笑い声を上げ、セシリアは再度苦笑を浮かべる。


 ヨーゼフが本気で言っていたわけではないことぐらいは分かっていた。

 おそらくはこちらを励まそうとしての冗談だ。


 ほんの僅かに願望が含まれているかもしれないけれど、それが有り得ないことぐらい誰に言われるまでもなく理解しているだろう。

 それはもう希望的観測ですらなくて、ただの妄想だ。

 起こり得ないことが分かっている以上、希望ですらない。


 そんなことが起こってくれるのであれば、この国はきっともうとっくに――


「――っ!?」


 その瞬間のことであった。

 セシリアがそれに気付き、だがその時にはもう遅い。

 反射的に真横を向いたセシリアの視界に、まるでタイミングを合わせたように巨大な影が映った。


 否、それは影ではない。

 黒に近い赤だ。

 マッドベアーであった。


 まさか、とは思うも、それがきっと正解なのだということは瞬時に理解出来る。

 マッドベアーは、森に沿って追って来るのではなく、森の中を一直線に追って来たのだ。


 色々な思考が頭を巡るも、この状況で考えるべきことなど一つしかない。

 逃げるか、立ち向かうか。

 そのどちらを選択するかだ。


「こ、のっ……!」


 逡巡は一瞬。

 逃げろと叫ぶ本能をねじ伏せ、セシリアは馬車を飛び出した。


 そこに意味がないことなど分かっている。

 既にマッドベアーは目と鼻の先だ。

 逃げようとした方が、まだマシである。


 それでも、セシリアは立ち向かう方を選んだのだ。

 こんなところで意地を張っても意味がないと分かってはいても、セシリアは引くわけにはいかなかったのである。


 腰の剣を引き抜き、マッドベアーへと突き出し――呆気ないぐらい簡単に、吹き飛ばされた。


「ごっ……!?」


 しかもセシリアがそれに気付けたのは、背中に衝撃を感じたからであった。

 あまりの力の差に、攻撃されたということすら、セシリアでは認識することが出来なかったのである。

 そしてセシリアが叩きつけられたそれ――馬車が、その衝撃を受け止める事が出来ずに、そのまま横転していく。


 セシリアはその事実を、背中越しに感じることしか出来なかった。

 止めようとすることはおろか、その様子を眺めようにも、身体が動かなかったのである。

 両手が吹き飛ばされたと言われても、きっと信じてしまったことだろう。


 幸いにもそんなことはなかったものの……それに意味があったかはまた別の話だ。

 今この時に動かなければ意味はなく、そんなセシリアの顔に影が差す。

 唯一動く視線でその元を辿れば、それは自身の目の前に立っていたマッドベアーのものであった。


 ふと、そういえばヨーゼフはどうなっただろうかと思ったものの、それはきっとただの現実逃避だ。

 マッドベアーの腕が振り上げられるのを、何も出来ずに見守る。


 飽きたオモチャを壊すように、無造作にそれが振り下ろされ――


「……あ」


 呆然とした声が漏れたものの、そこに意味などはない。

 死神の刃が振り抜かれ、マッドベアーの体毛より色濃い鮮血が、その場に降り注いだ。

 いつもお読みいただきありがとうございます。

 第三章に入ったばかりですが、元々気分転換用に書いていた作品でもあるため、今後更新速度は大分ゆっくりめになるかと思います。

 具体的には今のところ週一更新ぐらいで考えています。

 申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

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