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ティナの試練

 視界に広がっていたのは、一面の黒であった。


 前後左右上下、何処を見ても同じであり、試しに手を顔に近づけてみたところで、その輪郭すら見えることはない。

 一分の光すら入り込む余地のない、完全な闇だ。


 そこに恐怖を覚えなかったと言えば嘘になるだろう。

 もう二度とこの目は、何の景色も映さないのかもしれない、という思考は当たり前のように過った。


 だがそれでもティナの心が恐怖に支配される事がなかったのは、きっと心の準備をすることが出来ていたからだ。

 あるいは、もっと唐突にこの状況に陥っていればどうなっていたかは分からないが、これが試練の一部であると考えるのは難しいことでもない。

 足元の床が開いたというのは確かに唐突と言えば唐突ではあったものの、だからこそ余計に構える事が出来たのだ。

 これから試練が始まるのだと、冷静に考える事が出来たのである。


 それに、もしもこれが試練でなかったら、と考えたところで、何の心配もいらないと思えるのもまた、この状況で冷静でいられる理由だろう。

 これが試練でないのだとしたら、きっと彼がどうにかしてくれるはずだからだ。


 そんなことを自然と思えてしまうなど、少々頼りすぎな気もがするが、それも仕方のないことだと思う。

 むしろどうにかして頼らないでいられるというのならば、その方法を教えて欲しいぐらいだ。


 きっと彼であれば、こんな状況であっても恐怖一つ覚えないのだろう。

 というか、あっさりと乗り越えてしまい、まるで何でもないような顔をして、大したことなかった、などと言いそうだ。


 その場面を簡単に思い描く事が出来、つい口元が緩む。

 しかしすぐに引き締めたのは、頼ってしまうのは仕方ないが、甘えてばかりもいられないとも思ったからである。


 彼は色々と言ってくれるが、これが自分の都合であることには、やはり変わりはない。

 ならば――


「っ……!?」


 そう思った瞬間、不意に目に光が飛び込んできた。

 黒一色だった視界に、色が、形が、全てが戻る。


 もしかしたら、床が開き、そこに落ちたと思っていた時から、ずっと幻覚を見せられていたのかもしれない。

 ふとティナがそんなことを思ったのは、そこが見覚えのある広間だったからだ。

 床が開く前、彼に続いて足を踏み入れた場所であった。


 そして。


「よう、悪い。少し遅れた」


 そう言って片手を挙げ、少し申し訳なさそうな表情を浮かべている彼の姿があった。

 それでいて、そこにはある意味で不遜とも呼べそうな、自信をも纏っている。


 それは本当に、先ほどまでのものが、夢でも見させられていたのだろうと思えるような光景だ。

 いつも通りと呼べるものである。


 故に。

 ティナは、溜息を吐き出す。

 あまりに粗雑に過ぎる、呆れからの溜息であった。


「確かに、あの人は優しいです。わたしがどんな危機に陥っても、自業自得でも、仕方ないなと苦笑を浮かべながら助けてくれるでしょう」

「ん? ティナ、何を――」

「けれど同時に、決して甘くもありません。あの人はこれを試練だと知っている。必要なことだと理解しているからこそ、少なくともわたしが何もしないうちから助けに来るようなことは有り得ません」


 それは確信の言葉であった。

 彼との付き合いはまだ一月程度ではあるが、逆に言えば一月も共にあったのだ。

 その程度のことが把握できないわけがない。


 自分を、何よりも彼を、甘く見るな。

 そう告げるつもりでその顔を見つめれば、それは降参だとでも言わんばかりに肩をすくめた。


「やれやれ……こうもあっさり見極められると、さすがに多少はへこむな。しかも、連続だし。……ま、だが、ちゃんと絆を育めているようで何よりだ、とでも言っておこうかね。そうじゃなければ意味がないしな」

「……? 何の話ですか? いえ、それよりも――」

「分かってるっての。試練のことだろ。安心しろよ、今のはただのおまけっていうか、ついでだ。確認しなけりゃならないから、手っ取り早くこうしたってだけのことだしな」


 彼の顔で、声で喋られると、少し妙な気がするが、なるべく気にしないように努める。

 今までのは試練とは関係ないとは言われたものの、これが関係ないとは言っていないし、そもそも最初から嘘な可能性だってあるのだ。


 だから、いつ何が起こってもいいように、しっかり心構えをしておく。


「ま、それじゃあさて、そろそろ始めるとするか。あ、でもその前に一つだけ言っておく事がある。それは、この試練のテーマだ」

「テーマ……確か、心のあり方、でしたか?」

「お、あいつから聞いてたか? だが残念、不正解だ。それはあくまでも、表向きのもの。この試練で、本当に確かめなけりゃならないのは――『未来』だ」


 言った瞬間であった。

 それの……彼と同じであった顔が、弾け飛んだのだ。


 直後、まるで思い出したかのように、鮮血が吹き荒れる。

 首から噴き出したそれらが一斉に降り注ぎ、ティナの全員を赤黒く染め上げた。


「っ……なに、を……?」


 彼ではないと分かってはいても、まるっきり同じだった顔が吹き飛んだのである。

 確実にティナは動揺していたし、それを自覚してもいた。

 それでも何とか声を上げられたのは、これが試練なのだろうと、頭の中でほんの少しだけ冷静であった部分が判断出来たのと、何よりも意味が分からなかったからである。


 こちらの動揺を誘おうというのならば、分かる話だ。

 それは見事に成功している。


 だがそれでは、先の言葉との繋がりがない。

 『未来』を確かめるというのに、彼の頭を吹き飛ばして、こちらの動揺を誘って、一体何がしたいのか。


 いや、あるいは先ほどの台詞からして、ハッタリや嘘であった可能性もある。

 やはりとっくに試練は始まっていて――


「何をどう理解しようともあなたの勝手ではありますが、事実は覆りませんよ? ……ところでこれ、口調だけで判断しますと、割と被っている気がしますね、私達。まあ、性格も被っていますから、仕方ありませんね。などという戯言をカイル様に聞かれてしまったら、きついツッコミを受けそうですが」


 声は、後ろから聞こえた。


 それは聞き慣れているはずなのに、初めて聞くような声だ。

 そして視界に映ったのは、見知らぬ女性の姿であった。


 自分よりも少しだけ年上だろうか。

 翠色の髪の毛に翠色の瞳。

 髪の毛は頭の後ろで一つに纏められ、その瞳は楽しそうに、少し悪戯げに細められている。


 見たことはない。

 けれど誰なのかは、一目で分かった。


 しかしその名が頭に浮かぶよりも先に、今度もその顔が吹き飛んだ。

 噴き出した鮮血が、再びティナの全身にぶちまけられる。


「っ……ですから、一体何なんですか……!?」


 その光景を前に、ティナは思わず叫んでいた。


 何がしたいのかが分からない。

 試練だとしても、こんなことをして何を試そうというのか。


「だから未来を確かめると言ったでしょう? まあ確かに、今のだけで分かれという方が無理があるのでしょうけれど」

「っ……!?」


 再び後ろから声が聞こえ、慌てて振り返る。

 だが直後に眉を潜めたのは、今度は知っている顔ではなかったからだ。

 もっとも、考えてみればティナが知っていると思える人など、二人しかいないのだけれど。


 それは女性であった。

 黒髪黒瞳。

 腰まで伸びた髪をなびかせている姿は、どことなく大人で落ち着いた女性を思わせる。


 見覚えはない。

 はずだ。

 断言出来ないのは、その髪と瞳の色が彼を思い起こさせてしまうからかもしれない。


 しかしそんなことを思いそうになってしまう自分に気合を入れるようにして、その女性を睨みつける。

 結局どういうことなのか、何をしたいのか、まるで分からないままなのだ。


「そうね……まあ、私も長々と説明するつもりはないから、単刀直入に言うけれど。先ほどあなたに見せたものが、つまりは未来よ。このままであれば、確実に起こること……彼らは無残な死を迎えるということね」


 その言葉は、不思議なほど自然にティナの頭の中へと染み込んできた。

 先ほどまで覚えていた苛立ちが消え、代わりとばかりに納得がくる。


 理屈ではなく、本能でもなく……おそらくは、知識。

 自分では認識することの出来ない自らの知識が、それを肯定したのだ。


「そんな、ことは……」


 だから、否定するような言葉を口にしたのは、きっと信じたくなかったからである。

 それを正しいと知っているけれど、認めたくなかったのだ。


「ええ、認めたくはないでしょうね。それは当然のことよ。けれど、知っているからこそあなたにも分かっているのでしょう? あなたがしようとしていることは、あなたが負った役目は、そういうことなのだもの。人類を滅亡から救う。そんな偉業を成すのに、犠牲が出ないわけがないのよ」


 それは道理であった。

 ティナ達が千年の時を超えたぐらいで完全無欠のハッピーエンドを迎えられるほど、人類滅亡というものが軽いわけがないのだ。


 そもそも、少なくともティナは――


「けれど、あくまでも彼らの死は、このままであれば、の話よ。あなたと共に歩まなければ、避けることも出来るでしょう。でもね、絶対に避け得ない未来が、一つだけある」


 その先の言葉を、ティナは言われる前から理解していた。


 それは推測ではなく、確信だ。

 あるいは……知識である。


 そして。


「それは、あなたの死よ。あなただけは、何をどうしても、それほど遠くない未来に確実な死を迎える。いえ……そもそもの話、それこそがあなたが負った役目なのだから、当然なのだけれど」


 その通りの言葉が、彼女の口から放たれたのであった。

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