カイルの試練
カイルにとって五年という月日は、あっという間に過ぎていったものであった。
叶うかも分からないものに手を伸ばし続けていた、という意味ではそれ以前までと同じではあったが、何せ密度が違う。
文字通りの意味で一つのことだけをひたすらに繰り返していた日々は、本当に気が付いたら過ぎていた、といった感じなのだ。
だがそれでも、五年が経っているというのは事実でもある。
五年前の出来事はしっかりと記憶に刻まれているものの、細部まで思い出せるかと言えばそんなことはない。
曖昧になってしまっている部分も多く……正直に言ってしまえば、人の顔に関してもそうであった。
家族であった者達の顔、母代わりだった女性の顔を、しっかりと思い浮かべる事が出来なかったのである。
しかし、それも先ほどまでのことだ。
曖昧だった輪郭は、今や明確な形を取り戻している。
そしてそれは、間違いなく目の前に立っている人物と同じものであった。
「…………カイ、ル?」
時に穏やかな表情を見せ、時に怖い表情を見せ、大半の時を冷静そのものの表情を見せていたその顔に、今は見た事がない表情が浮かんでいる。
目を見開き口元を半開きにしているその顔は、心の底から驚愕を覚えていることを雄弁に語っていた。
五年ぶりの再会。
しかもおそらくは、死んでいたと考えていただろう相手とのそれだ。
その衝撃がどれほどのものであるのかは、カイルには想像も付かない。
しかしそれを体現するが如く、ふらふらと、その足が頼りない感じに動く。
一歩、二歩と、僅かながら、それでも確実にこちらへと近付いてくる。
カイルもそれに合わせるように、ゆっくりと歩を進めていった。
その顔から驚きが引くことはなく、少しずつ互いの距離が縮まり、やがてほぼゼロとなった。
見知らぬ表情を浮かべている見知った顔が、すぐそこ、手の届く距離にある。
そのままゆっくりと、その手が持ち上げられた。
少しだけ嬉しそうに口元を緩めながら、カイルの顔を確かめるように伸ばされ――瞬間、その首が、刎ね飛んだ。
音も何もなく、軽快さだけを感じるような動きで、身軽になった頭が空を舞う。
カイルは何とはなしにその軌跡を視線で追い……思い切り溜息を吐き出した。
「……はぁ。ったく」
それの首が宙を舞った理由は単純だ。
カイルがその手に握った剣で、刎ね飛ばしたからである。
少しの間を置き、思い出したように目の前にあった身体が崩れ落ちた。
そのすぐ傍に刎ね飛ばした頭部が落下し、偶然にか、こちらを向いた形で止まる。
それは笑みを浮かべたままの形で固まっており、カイルは再度の溜息を吐き出した。
声が聞こえてきたのは、直後のことだ。
「……一つ聞いてもいいかしら?」
驚くことがなかったのは、予測出来ていたことだからである。
もちろんと言うべきか、その声が首のみとなったその口から発されたことも含めて、だ。
故にカイルは視線をそのままに、肩をすくめた。
「ものによるな」
「そう、では試しに聞いてみるのだけれど……いつ私が偽物だと気付いたのかしら?」
「ふむ、それなら問題なく答えられるが……別に面白くも何ともない答えだぞ? 何せたった今だからな」
そこに嘘はない。
そう、カイルは別に、偽物だと思っていたから『それ』の首を刎ね飛ばしたわけではないのだ。
「なるほど……つまりこの顔の人物は、それほどまでに嫌われていた、ということのようね」
「あん……? まさか、そんなわけがないだろ?」
それもまた事実である。
確かにカイルはルイーズからあまり母親らしいことをされた記憶はないが、それは単に目に見える形では、というだけだ。
平凡ながらそれなりに経験は積んできているため、そこを見誤るようなことはない。
恥ずかしいから面と向かって言うことはないが、ちゃんと感謝も尊敬もしているし、親愛の情も抱いているのだ。
だが。
「それはそれ、これはこれ、だろ? 何といってもこれは、試練なんだからな」
むしろ、だからこそ、でもある。
あのルイーズが、試練などというものをやっているというのに、たかだか五年前に死んだと思っていた息子に再会しただけであそこまで我を失うということなど有り得まい。
ならばあれはこちらを動揺させるためだと考えるべきであり――
「だから首を刎ね飛ばした、と?」
「それが最も手っ取り早く確実だっただろうからな」
「……もしも私が本物だったらどうするつもりだったのかしら?」
「ん? 別にどうとも? 本物の母さんだったらその程度のことを想定してないわけがないからな」
実際あの時点でカイルは、五分五分程度にしか考えてはいなかった。
しかしどちらでも問題ないと考えてもいたからこそ、何の遠慮もなく首を刎ね飛ばせたのである。
当然気分は最悪だったが。
「……なるほど。要するに、最初から手を間違えていた、ということのようね。分かったわ、次からは気を付けることにしましょう」
「是非ともそうしてくれ。胸糞悪くて仕方ないしな」
「さあ、それに関してはどうかしらね。もっとも、次も似たようなことがあったところで、あなたはまた迷いなく同じことが出来るのでしょうけれど」
「ま、必要とあらば、やらざるを得ないからな。やりたくないからといって、泣き喚いてればどうにかなるほど、この世界は優しくないだろ?」
「ええ……さすが、と言ったところかしら」
そうは言われたものの、それはきっとあまり褒められたことではあるまい。
少なくともカイルはそう思うからこそ無言で肩をすくめたのだが、その結果は満足のいくものであったらしい。
「分かりました、あなたに資格があることを認めましょう」
その言葉を最後に、頭を失った身体も、地面に転がっていた頭も、最初からそうであったかのように消え失せた。
いや、実際に初めから存在してはいなかったのだ。
性質の悪い幻覚だった、ということである。
『さすがですね』
そうして溜息を吐き出していると、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
「生憎と褒められたところで、あまり嬉しくは――」
言葉を返しながら、振り返り、ピタリと止まった。
正直その時に覚えた驚きは、つい今しがた覚えたものよりも大きかったかもしれない。
てっきりそこには、いつも通りティナの姿もあると思っていたのだ。
だがそうではなかった。
そこにティナの姿はなく、その代わりとばかりにあったのは、ビー玉程度の大きさの翠色の球体だ。
地面に転がっているそれは、自己紹介の際に一度だけ目にした、ナナの本体であった。
「どうした、裸身を晒して。ついにそんな趣味にでも目覚めたのか?」
『……? 何を言っているのですか、カイル様?』
「俺の頭がおかしくなった体で話をするのをやめろ。以前目にした時にお前がそんなことを言ったんだろうが」
ナナ曰く、付喪神のようなものだとのことである。
何らかの魂がその球体に乗り移ったのか、その球体に魂が宿ったのかは本人にも不明らしいが、ともかくそれがナナの本体であることに変わりはない。
何せ世界は広いのだ。
龍がいて、かつては神もいて、千年の時を物理的に渡ってきた少女もいれば、異世界から転生してきたようなやつもいる。
ならば一人ぐらいそんな人物がいたところで、何の不思議もあるまい。
翠色の球体が本体な、普段はティナのローブの右ポケットが定住地である、千年来のティナの友人。
魔法を使うことも出来るらしい、カイルの友人。
それがナナという少女であり、それだけのことである。
「ま、で、ともかく、ティナはどうした?」
『カイル様と同じですよ。おそらく今頃は試練を受けているかと』
「ふむ……まあ、道理か」
一人ずつ受けさせることに意味はない。
ならばそこに疑問はなく、あるとすれば何処に行ったのか、ということだ。
カイルはこうして、何処にも移動していないわけであるし――
「考えられるのは、また転移したってところか? そうなると、何故俺はそうじゃないのかってことが気になるが……」
『カイル様とティナ様とでは、厳密には受けるべき試練が異なるからでしょう。ティナ様は別の場所に移動しなければならない理由があった、ということです』
「俺とティナとではって……じゃあお前は?」
『私はそもそも定員外です。私は最初から数に入っていませんから。ああそれと、ティナ様が移動したのは事実ですが、それは転移したからではありません』
「ふむ……? というと?」
その場をざっと見渡してみるも、何処かに移動出来そうな場所はない。
そもそもどうやらここは完全に突き当たりのようだ。
ここまで一本道であったことを考えても、あとは来た道を戻る以外になさそうだが――
『先には進めず、かといってティナ様は来た道を戻ったわけでもありません。と言いますか、そもそも前後左右だけで考えているのが間違いなのです』
「……おい、それってもしかして」
『はい。おそらくは、今カイル様が思い浮かべた通りでしょう。ティナ様は、落ちたのです。突然現れた落とし穴によって、真っ逆さまに』
その言葉に、反射的に地面を見つめる。
だが当然のように、そこに穴などは開いていない。
試しに踵で少し強めに踏みつけてみるも、地面はただ硬質な感触のみを伝えてくるのであった。




