破壊の権化
その部屋に踏み入ったのと同時、壁に並んでいたロウソクの炎が一斉に灯った。
それによって、まったく見ることの叶わなかった部屋の全容が明らかになり――
「――っ」
――ああ、これは駄目だと、その姿を目にした瞬間に、ティナは悟っていた。
部屋の広さは大体五十メートル四方といったところか。
相当に広く、さらにそこには物が何一つないということが部屋をさらに広く見せている。
どこか寒々しいとすら思えるそこで言及すべきことは、あと三つだけだ。
天井もまた妙に高いということと、視界の先にこの部屋の出口らしい場所が見えること。
そして、その前に立ち塞がるようにして、ナニカがいるということである。
それは一見すると、巨大な岩のようであった。
だがそうではない。
岩のように見えるそれは、異様なまでに肥大化した筋肉だ。
いや……より正確に言うならば、それは岩のような筋肉を持った男だと言うべきなのかもしれない。
そう、それは男であった。
二メートルを優に越すであろう身長を持つそれが人間であるのかは定かではないが、少なくとも男であるのは確かである。
そう断言出来るのは、それは腰布のようなものしか身につけていなかったからだ。
五十メートルも離れているというのに不思議とその姿ははっきりと目に映り、その上半身は紛れもなく男のそれである。
故に男と断言したと、そういうことであった。
だがそれが男であろうと女であろうと、結局のところは些細なことだ。
では問題なのは、その男が両手に持っている、背の丈を超えるほどの巨大な剣だろうか。
それとも先に述べたようにその男が存分に暴れられるだろうこの部屋の広大さか。
はたまた、これまた先に述べたように、この部屋の先へと通じている道を塞ぐようにして男が立っているということか。
その全ては是であり、その全ては否だ。
問題なのは、ただの一点。
一目見ただけで別種の存在なのだと肌で感じ取れるほどに異常な、男の存在そのものである。
二メートルを越す身長も、筋肉の異常さも、結局は男の存在を補強するに過ぎないのだ。
肉体が凄いから男が凄いのではない。
男が凄いからこそ、あの肉体を有しているのだ。
そして岩という比喩も、あながち間違いではない。
あの場にどっしりと構えている姿は、まるで不動である巨大な岩か何かのようであったからだ。
しかし同時に、それは間違いでもある。
それはそこで待っているわけでもなければ、立ち塞がっているわけでもないのだ。
例えるならば、鎖に繋がれた番犬、あるいは、弓によって限界まで引き絞られた矢である。
楔が壊れたならば、ただ解き放たれるだけ。
一目見ただけで、それを理解させられた。
同時に、既に楔は壊れているのだということも。
楔とは、この部屋そのもののことであった。
この男がここにいた理由を、既にティナは正確に把握している。
男は侵入者から守るため、あるいは逃亡を防ぐためにここにいるのではない。
男は、ここに隔離されていたのだ。
あまりにも危険すぎるが故に、魔王達からすらも忌避され、封印されたのである。
何故ここに来るまでこんなものに気づけなかったのかと思うも、ふとこの部屋へと入る際に感じた妙な違和感を思い出す。
瞬間的に、それが原因だったのかとティナは思い至った。
『結界』、という言葉が思い浮かばずとも、そうだと分かったのである。
しかし分かったところで、既に遅い。
そう、既に遅いのだ。
何故ならば――
「……あ」
音が聞こえた。
それは轟音であり、振動だ。
部屋全体が震えたかの如きそれに遅れること、ほんの一瞬。
目の前に、剣を振り被ったソレがいた。
瞬間脳裏を過ったのは、死、という単純な言葉のみ。
他にも過った様々なものは、言語化されることなく砕け散った。
圧倒的な存在の前にはその全てが無意味と言わんばかりであり、それがまさに迫――
「――ったく」
言葉と共に、轟音。
唐突に男が目の前から消えたのが、蹴り飛ばされたからだと分かったのは、男がいた場所に横から伸びてきた足があったからである。
「こっちがやる気満々でいるってのに、そっちに反応すんなっての。まあ、男よりも美少女に相手してもらいたいって気持ちは理解出来るけどな」
そんな軽口を叩きながら、足を戻したカイルが、吹き飛ばした男の方へと歩き出す。
男は、軽く十メートルは吹き飛ばされていた。
それはカイルが放った今の蹴りにそれだけの威力が込められていたということだが、男が傷を負った様子はない。
ゆっくりと立ち上がると、まるで邪魔をされた苛立ちを発散するかの如く、吼えた。
「――――――!!!!!」
それは原始的な、感情のみが込められた叫びだ。
あるいは言葉を発せられないのかもしれないが……どちらでも同じことである。
そこには、間違いなく殺気がこめられていた。
まるでその感情を直接叩き込まれたかのように、ティナの全身が震える。
「やかましいっての。そんな叫ばなくても行ってやるよ。というか、先に無視したのはそっちだろうが」
しかしそれを向けられたのだろうカイルは、何処吹く風だ。
ティナの目の前を通り過ぎる時、そこでちょっと待っててくれ、とばかりに肩をすくめると、歩を進めていく。
それは、頼りになる姿だったのかもしれない。
だがその瞬間ティナの胸を占めたのは、まるで別の感情だ。
それは、悲哀であった。
あるいは、悲痛か。
しかし何にせよ、同じことである。
カイルではアレに勝てないと、そう感じてしまったのだから。
あの一瞬で男を蹴り飛ばすほどなのだから、確かにカイルも相当に強いのだろう。
だがこの光景を見てみるがいい。
悠然と立つ男と、そこに向かっていくカイルを。
肌で感じられる、双方の差を。
子供と大人の差どころではない。
その方がまだマシだ。
猛獣の前に無防備に近寄っていく赤ん坊。
その光景はまさに、そういった類のものであった。
戦闘において体格差というものが絶対ではないということは、ティナは何となくではあるが理解している。
しかしそれでも、そこには絶望的な差があるようにしかティナには感じられなかった。
双方から伝わってくる威圧感とでもいうものが、まるで違っていたのである。
男から伝わってくるのが、全てを破壊せんが如きものであるのに対し、カイルからはそんなものをまったく感じないのだ。
まるで男のそれに塗り潰されてしまっているかのように、何も感じる事が出来ない。
それを前にして楽観しろという方が無理だ。
正直に言えば、今すぐこの場から逃げ出したいし、逃げようとカイルに伝えたい。
それが出来ないのは、恐怖で喉が張り付いてしまったかのように、声が出ないからだ。
身体が動かないからだ。
そんなことは許さないとばかりに、男から伝わる威圧が、ティナの自由を奪っているのである。
だからティナには、絶望を抱きながらそれを眺めていることしか出来ない。
自分が感じているものが間違っているだけと信じ……いや、願いながら。
そんなティナの見守る先で、ゆっくりと歩いていたカイルが、ついに男の傍にまで近付いた。
そうして見比べてみると、やはり体格の差が激しい。
だがカイルはそれを関係ないとばかりに、最後の一歩を踏み込む。
――瞬間。
「――しっ!」
「――――――!!!!!」
動いたのは、おそらくほぼ同時。
激突による硬質な音が響き――勝ったのは、カイルだった。
カイルの振り抜きはそのままに、男の剣が弾かれたのだ。
しかし、男はそれを良しとしなかった。
即座に吼えると共に弾かれた剣を振り下ろし、カイルの振るった剣と激突する。
そして、今度も勝ったのはカイルだった。
男が僅かに態勢を崩し、そこを違わずカイルが狙う。
袈裟に払われた剣が男の胸元へと吸い込まれ――響いたのは、硬質な音。
男の迎撃が間に合ったのだ。
だがそれによってさらに男の体勢が崩れ、そこにカイルの連撃が叩き込まれる。
その全てを男は防ぐも、ついに決定的な場面が訪れた。
男が思わず片膝を着いた瞬間、宙を何かが舞ったのだ。
ティナの胴体にも等しい太さのそれは、男の左腕であった。
その光景を、ティナは信じられない思いで眺めていた。
威圧感など気のせいだった言わんばかりに、カイルが圧倒しているのだ。
確かにそう願ったとはいえ、さすがに都合のいい夢を見ているのではないかと思わざるを得ない。
しかしそれは、夢ではなかった。
威圧感は、やはり気のせいではなかったからだ。
「――――――ォォォオオオオオオオ!!!!!!!!!!」
それが何だったのかを、ティナが理解することは出来なかった。
男が今までで最大の叫びを放ったと思ったら、轟音と共にカイルの身体が数メートルほど吹き飛んでいたからだ。
男の放った斬撃のせいだ、ということが分かったのは、男が剣を振り抜いていたからに過ぎない。
両手で握り締めたそれを、だ。
「……え?」
思わず、呆然とした呟きが漏れる。
だがその時にはもう、男の姿は掻き消えていた。
体勢が不十分なカイルへと、暴虐の嵐が襲う。
「――――――!!!!!」
「――――――――――――!!!!!」
「――――――――――――ォォォオオオオオオオ!!!!!!!!!!」
今までのお返しだとばかりに、降りかかるのはティナの目では捉えられぬ無数の斬撃。
それだと分かるのは連続する音のおかげであり、そのせいもあって傍目にはどちらが優勢なのかも分からない。
……いや、それは嘘だ。
願望であった。
明らかにカイルが防戦一方となっていたのだから。
そして。
ついには決定的な一撃が放たれた。
「――――――――――ォォォォォォオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!!」
地面が陥没するほどの踏み込みと共に、凄まじいほどの轟音が響き渡る。
舞い上がった土煙が二人の姿を一瞬隠し、しかし男を恐れるかの如くすぐに霧散した。
土煙が二人の姿を隠していた時間は、秒にも満たない時間だろう。
だがその間に、そこにいるのは男一人になっていた。
カイルの姿は、ない。
そう思った直後、もう一度轟音が響いた。
ただしそれは遠くからのものであり、壁からだ。
遠い上に土煙が舞い上がったそこに何があったのかはティナからでは見えなかったが……見るまでもなく、分かる。
カイルがあそこへと、叩きつけられたのだ。
全ての音が消失したかのように静寂が、その場に満ちる。
どれだけ待っても、カイルが起き上がってくることはない。
その意味するところを理解した瞬間、ティナは知らずのうちにその場へとへたり込んでいた。




