白の少女
さてどうしたものかと、培養槽とでも呼ぶものに浸かっている少女を眺めながら、カイルは悩んでいた。
ざっと眺めたその中で、最も目を引いたのはやはり真っ白な髪だろうか。
光源が天井に開いた穴しかない現状、周囲は酷く薄暗いが、それでもその白ははっきりと目につく。
腰まで伸びたそれは液体の中にあっても存在感を主張しており、整ったその顔立ちをさらに映えさせている。
目を閉じているその姿は、一見死んでいるようにも見えるが、口元から時折上る泡から呼吸はしているようだ。
蒼い液体に、白い少女。
どことなく現実感の希薄なそこにあって、その泡だけが少女の生存を主張していた。
どう見ても普通でないのは確かであり、正直このまま見なかったことにするのが最も無難だ。
何せカイルは今、現在位置も定かではない状態なのである。
ここでこの少女の事情までを抱えようとするのは、間違いなく得策ではない。
だがそもそもの話、そんなことを気にする人間が、冒険だの何なのを口にするかという話である。
つまりカイルはそんなことを気にしてもいなかった。
カイルは少女の事情を抱えることを前提にした上で、別のことに悩んでいたのである。
それは、少女のことを助けてしまっても大丈夫か、ということであった。
例えば、あそこに満ちている液体が治療の為のものであった場合、助けようとした行為は、そのまま逆の意味を持ってしまう。
それでは本末転倒だ。
かといって、こうして眺めていたところで、そんなことが分かるわけもない。
となれば――
「ふむ……とりあえず壊してみるか」
駄目だったら、その時に考えてみればいいだろう。
なに、龍と唐突に戦うことに比べれば、大体のことは何とかなるはずだ。
そんなことを考えながら、剣を構え……その時であった。
『いえ、それはお勧めしません』
響いた声に、驚きはなかった。
状況を考えれば、そろそろどこかから何かしらかのリアクションがあってしかるべきだと考えていたからだ。
それに、こちらへと近づきつつある気配を感じ取っていたのもその一因である。
ただ、意外に思ったことがあるとすれば、それは声の主が女であったことだ。
あとは――
「精神感応……というよりは、単純に声を飛ばしてるだけか? 精神感応なら感情とかも一緒に伝わるはずだしな」
『おや、驚かないのですね? 声が突然聞こえたことにも、それが頭に直接届いたことにも』
これそのものに驚かなかったのは、単に慣れているからだ。
龍は人の言葉を理解出来るが、発音は不可能だということで、常にこうして話しかけてきていたのである。
今更驚くようなことでもなかった。
「で、そんなことよりも、壊すのをお勧めしないとはどういう意味だ? まさか自爆装置でもつけられてるわけじゃないだろうな?」
『それを私が説明してしまってもよろしいのですが、それよりも適任者から直接お聞きになった方がよろしいかと』
「適任者……?」
「それは私のことですかネー?」
前方から聞こえてきた声に、今度は少しだけ驚いた。
言葉と共にあらわになった姿が、明らかに男のものだったからだ。
相変わらず周囲が薄暗いためはっきりとは分からないものの、外見ぐらいは分かる。
年齢は壮年か、あるいはそれ以上といったところか。
髪は剃っているのか生えなくなってしまったのかは不明だが、頭部に存在しておらず、そのせいで余計歳を取っているようにも見えた。
白衣のようなものを羽織っており、顔にはモノクルをかけている。
正直に言ってしまえば、パッと見の印象は怪しいおっさんというところだ。
だが何にせよ、それが男であることは確かである。
というか、今聞こえた声も普通に男のものであったし――
「ふむ……なんだ、別人だったのか」
「生憎と私は声を相手の意識に飛ばすなんてことできないですしネー。しかも一人だけではなく複数同時に飛ばすなど……とても興味深いですネー。やはり是非とも解剖……いえ、解体してみたいですネー」
『お断りします』
「残念ですネー。ですが魔王様から無理強いが禁じられている以上諦めるしかないですネー。心底無念ですネー」
そのやり取りは大分興味深かったし、幾つか気になる言葉もあったものの、まず確認すべきことは一つだろう。
何となく違うのだろうな、とは思うものの――
「別人ってことは……まさかそこに浮いてる少女か?」
『いえ、それも違います。彼女とは友人ではありますが』
「ふむ……やっぱり違うのか。まあ、で、結局なんでアレを壊しちゃいけないんだ?」
「おっとそうでしたネー。正直今ちょっと興味深いごとが聞けたのですが、聞かれたことに答えるのは科学者の義務ですからネー」
見た目からそれっぽくは見えたものの、どうやら男は科学者であるらしい。
正直カイルとしては、科学者なんてこの世界にいたのか、というところではあるのだが、あくまでもカイルが知らなかっただけなのだろう。
カイルの知識はその大半が母代わりに聞かされた孤児院時代のものと、龍から与えられた書物からのものである。
抜けているどころか、偏っていたところで何の不思議もない。
しかしそれはともかくとして、本当にアレを壊してはならない理由とは何なのだろうか。
それとそもそも、あの男の言葉は信用出来るのか。
していいのか。
疑問は幾らでもあり……だがカイルは、その全てを溜息を吐き出すことで一旦脇に置いておいた。
何にせよ、情報はまったく足りていないのだ。
まずは男の話を聞いてから判断すればいいだろう。
そう考えると、カイルは男の言葉へと耳を傾けるのであった。
目の前の少年の姿を眺めながら、男――ウェズリー・レッドグレイヴは不意に自らの師のことを思い出していた。
ウェズリーが師と死別してから、既に十年以上の月日が流れている。
さすがに顔は覚えていないため、少年が師に似ているというわけではない。
それでもウェズリーが師のことを思い出すこととなったのは、少年の科学者という言葉に対する反応からであった。
ウェズリーは自分がどんな人間なのかということを理解しているし、傍目からどう見られるのかということも理解している。
理解しているからこそ、敢えてそうしているのだ。
煩わしいあれこれを回避するために。
科学者などと名乗っているのもそのためである。
大半の者達は、この聞き覚えのない言葉を耳にすれば、その時点で分かりやすい反応を示す。
こちらがまともに話す気がないと判断し聞き流すか、何とかこちらに取り入ろうと分かったフリをするかだ。
もちろん中にはそれを隠そうとする者もいるが、無駄というものである。
研究というものに最も必要なのは、観察だ。
世界を観察するのに比べれば、人間の表情を見極める程度どうということもない。
しかしだからこそ、ウェズリーは驚いたのだ。
目の前の彼が示した反応は、ほぼ無反応だったからである。
確かにあくまでもその二つは大半でしかないし、異なる反応を示す者もいるにはいた。
だがほぼ無反応だったのは、彼を除けば一人のみである。
現在の雇用主である、魔王その人だ。
しかし魔王と同じ反応を示したことも驚いたが、それ以上に彼は科学者という言葉の示す意味を理解しているような素振りを見せたことが何よりの驚きであった。
その意味は、当のウェズリーですらも理解してはいないからだ。
科学者という言葉は、ウェズリーの師が好んで用いていたものであった。
何度も意味を尋ねはしたのだが、結局教えてはくれず、殺されてしまった今となっては知りようのないものだったのである。
師は端的に言って天才であった。
理解することの出来ない言葉を常のように口にしていたし、その大半は未だにウェズリーも理解出来ていないものだ。
それなのにそれが出鱈目ではなかったと分かるのは、実際に師がよく分からない言葉を用いてよく分からないものを作り出していたからである。
あれが偶然の産物だというのならば、その方が余程恐ろしいだろう。
師は間違いなく、自分では及びもしない何かを知っていた。
師はそれらのことに対し、自分は異世界の知識を持っているからだ、などと言っていたが、それは本当のことだったのかもしれないと、ウェズリーは今になって思っている。
昔は信じられずに流してしまっていたのだが、本当に自分は馬鹿だったと思う。
あるいは、今自分が周囲に感じているようなことを、師は自分に対し感じていたのかもしれない。
それならば、何も教えてくれなかったのは納得だ。
自分もまた、周囲の間抜け共には何も教える気にはならないのだから。
そして科学者という言葉の意味を分かっている節のあるこの少年は、師の同類なのかもしれなかった。
だがそれを尋ねることは出来ない。
今言葉を尽くすべきなのは自分の方だからだ。
聞かれたことに答えるのは科学者の義務。
師が口にしていた言葉の中で、数少ない理解出来たものの一つであった。
だからこそ、それを蔑ろにすることは出来ない。
それによって、今度はどんな不利益が生じてしまうかも分からないのだから。
正直気になることならば、他にもある。
例えば、『彼女』が声をかけたことなどだ。
あの少女と共に発見した『彼女』ではあるが、結局未だに何なのかは分かっていない。
それどころか、こちらから話しかけてすらろくに反応してくれなかったというのに、彼に対しては自ら話しかけたのだ。
少女が関わっていることだから、と言ってしまえばそれまでかもしれないが……非常に気になるところである。
とはいえ、それら全ては、まずはこちらが答えてからだ。
そして最初に思っていたように適当に答えてしまったら、それらのことに有用なことを答えてはくれないだろう。
故に、ウェズリーにしては酷く珍しいことに、真面目に答えることにしたのであった。
「まあ、とりあえずそうですネー、一つ誤解があるようなのですが、別にあれは壊しても問題はないのですネー」
「ん? でもさっき、壊すのはお勧めしないって言われたが?」
「彼女が何のつもりでそんなことを言ったのかは不明ですが、壊すことそのものに問題はないはずですネー。あれがあの少女の生命維持も兼ねているという可能性は正直否定しきれないのですがネー」
それに関しては、どれだけ調べてたところで分からなかったのだ。
もっとも、少女はエルフなどの長命種には見えないし、アレが見つかった遺跡は概算でも数百年以上は前のものであった。
その時からずっとああしているというのならば、ある種の生命維持を行い続けている可能性は高い。
だがそこまで推測は出来ても、それ以上のことは分からないのである。
壊しても少女が目覚めるだけなのか、それとも何らかの問題が出るのか。
ウェズリーにとっては忌々しいことだが、未だに手掛かり一つ掴むことは出来ずにおり……しかし。
その回答は、直後に呆気ないほど簡単に示された。
『いえ、アレがある種の生命維持を行っているのは確かですが、壊したところで問題にはなりません。少なくとも、あの方の命には何の別状もないでしょう』
「……これは意外でしたネー」
『彼女』が正解を知っている可能性が高いのは分かっていたが、先に述べたようにこちらの問いにはまったく答えてくれなかったのだ。
それがこうもあっさりと答えてくれるなど、驚きを通り越して拍子抜けしてしまう。
「どういう風の吹き回しですかネー」
『……あなた方からの質問ではないから答えた。それだけのことです』
「なるほどですネー。今までの実験が無に帰して、残念なような嬉しいような、複雑な気分ですネー」
「なんかそっちに複雑な事情があるのは分かったが、結局どういうことなんだ? 壊すのに問題はないんだろ?」
「ああ、そうでしたネー。ええ、まあ、結果的に正しいと分かりましたが、私達の方でも壊しても問題ないだろうという結論は出ていたのですネー。なのに何故今まで壊していなかったのかと言えば、単純に誰も壊せなかったからなんですネー」
アレを持ち帰ってから、約五年。
調査と平行して破壊を幾度も試みてみたが、一度も成功することはなかったのだ。
何せ魔王が試したところで、傷一つ付かなかったのである。
その時点でもう打つ手はなかった。
もちろん、魔王も本気でやったわけではないだろう。
あくまでも用があるのは中の少女にであって、破壊することそのものではないのだ。
破壊に成功したところで、少女を殺してしまっては意味がない。
『彼女』に対し強引に事を運ぶことを禁じられたのも、そこら辺に理由がある。
あくまでも魔王達は情報を得たいのだ。
数百年以上前などとは言いはしたものの、実際にはほぼ間違いなくあの遺跡は所謂古代文明の頃のものである。
即ち、彼女達が古代文明の生き残りである可能性は高いということだ。
それだけで大発見ではあるし、ウェズリーとしては大変興味深くもあるのだが……魔王達が知りたいのはそういうことではないだろう。
自分達に害を成す存在なのか。
あるいは、利を与える存在なのか。
それだけを知りたいのである。
その態度を可能としているのは、ある種の余裕故だろう。
もしも魔王軍が人類に対し劣勢であるとかいうのであれば、きっとさっさと破棄してしまっていたに違いない。
しかしウェズリーにとっては幸いなことに、そうはならなかった。
そしてだからこそ、今がある。
五年の間まったく得られることのなかった情報に、ウェズリーは内心狂喜乱舞していたが、それを表に出すことはなく言葉を続ける。
「ま、ですから彼女が止めたのはおそらく無駄に終わる可能性が高いから、ということでしょうネー。それにどんな理由であれ、刃を抜いたのならば敵対行動だと捉えられても不思議ではないですからネー」
多分ではあるが、ウェズリーはそれが理由なのだろうと思っていた。
というか、それぐらいしか考えられない。
彼らが知り合いだというのならばまた別だが、そんな様子は見受けられない以上、他の可能性は考え難いだろう。
とはいえそれはそれで、見知らぬ相手に何故そこまでのことを……と思うが、そこまで考えたところで、意外と簡単なことだったのかもしれない、と思い至る。
ウェズリー自身を含めて、ここにいるのは当然のように魔王軍の者達だけだ。
魔王……即ち、人類の敵対者。
こちらに対し非協力的であったのも、少年に対しては協力的であるのも、全てはこう考えれば納得がいく。
つまりは、彼女達は自分達の敵対者だということだ。
魔王の出現が予言されていたというのはもちろんウェズリーも知ってるし、あれの出所は古代文明の頃だという話もある。
ならば彼女達は魔王を何らかの形で邪魔をするためにアレで眠っていたのだとすれば――
「……おお、意外なまでにすっきりとする回答ですネー」
「何がすっきりしたのかは知らんが、まあ要するに壊していいってことなんだな? それが聞ければ十分だ」
そう言うや否や、少年はそれに向かって歩き始めた。
そこに迷いはなく、淀みもない。
そうすることで何が起こるのかをしっかりと把握している……あるいは、何も理解出来ていない者の動きであった。
『……今の話を、聞いていましたか?』
「ん? 聞いてたつもりだが、何か問題でもあったか?」
『いえ、その……』
そしておそらくは、彼女は後者だと判断したのだろう。
それはそれで、無理ないことかもしれない。
だが、ウェズリーは――
「補足としてですがネー、ここって実は魔王城の地下室の一角だったりするんですネー。分かっていない可能性もあるので言っておきますがネー」
「ああ、そうだろうとは思ったが、やっぱそうだったか。ったく、アイツは……」
溜息を吐き出しながらも、少年の歩みは変わらなかった。
そう、やはりウェズリーの思った通りだ。
少年は全てを理解した上で、その行為が魔王に喧嘩を売るということと同義だと知った上で、それをしようとしているのである。
「まあ、というかだな、ここに単身突っ込んできてる時点で十分喧嘩は売ってるだろ。これが実は事故なんですって受け入れてくれるぐらい魔王が穏健だってんなら話は別だがな」
「魔王様が穏健であったならば、世界征服をするとか言い出さなかったでしょうネー」
「だよな」
苦笑と共に肩をすくめ……次の瞬間には、少年は剣を手にしていた。
そのあまりの自然な動作に、ウェズリーは目を見張る。
確かにウェズリーは戦うものではないが、これでも魔王軍に身を置いているのだ。
魔王を始めとして、戦う者の動きはそれなりに目にしてきたという自負がある。
それなのに、その前兆すら捉えることは出来なかったのだ。
思わず息を呑み……次の瞬間であった。
――光が奔った。
少なくともウェズリーの目には、それ以外に捉えようがなかったのである。
それはウェズリーにしてみれば、悔しいものであった。
自らの観察眼の完全に敗北にしか思えなかったからである。
ウェズリーは未知が大の好物だ。
魔王軍の方が未知に関われる可能性が高いと判断したから人類を裏切った程度には、未知が大好きである。
故にその目には何の取りこぼしがあってもいけない。
全てを見届けたいと思っているのだ。
そのウェズリーが何が起こったのかすらもろくに分からなかったのである。
それは敗北以外の何物でもなかった。
だが眼前の光景を前に、ウェズリーは安堵の息を吐き出す。
少女の浮かんでいるそれには、何の変化もなかったからだ。
直後に、安堵してしまったという事実に屈辱を覚えるも、何とかそれを押さえ込む。
そして――
「どうやら、やはり無理だったようですネー。まあ、あの魔王様ですら――」
「ん? 何言ってるんだ? ちゃんと終わったぞ?」
言って、少年がそれに近づき、軽くこんと、叩いてみせた瞬間であった。
最初に聞こえたのは、何かが罅割れたような音だ。
小さなそれが、少しずつ大きくなり……やがて決定的なものが訪れる。
まるで鉄槌でも叩き込んだかの如く、巨大な破砕音と共に、今まで傷一つ付かなかったそれが砕け散ったのであった。
蒼い液体が流れ出、少女の身体が大気に触れる。
あれだけ誰が何をしても、ウェズリーが研究をし尽くしても、手の届くことのなかった少女の身体が地へと落ち――
「おっと」
しかしそれから救うように、呆然とするウェズリーの視線の先で、少年がその身を抱きとめたのであった。




