龍の試練
龍の告げた言葉が、ゆっくりとカイルの意識へと染み渡っていく。
少しずつその意味するところを理解し、呆然からの帰還が果たされる。
『ああ、そうだ、これは貴様に返しておこう。これを消したのは我が満足したが故、最早戦う理由が失せたからだが、これは既に貴様に与えたものだからな』
言ったと同時、カイルのすぐ傍に先ほど消えたばかりの剣が現れ、地面へと落下した。
軽い音を立てて転がり、だがカイルはそれを拾おうとはしない。
否、する気が起きなかった。
カイルに出来たことは、そのまま仰向けに倒れこむことだけだ。
そして。
「くっそー! また負けたー!」
心の底からの叫びを、放ったのであった。
自らに勝利を収めながら、負けたなどと叫んだ男のことを、龍は面白げに見下ろしていた。
何だかんだ言いつつも、喜ぶと思っていたからだ。
少なくとも、今まで自らの試練を受けた者達は、皆そうであった。
口では色々と言いつつも、心の底では龍を相手に勝利を収められたことを喜んでいたのである。
だが悔しそうにしているカイルは、どうやら完全に本心からのものであるようだ。
つまり彼は龍と一日中戦い続けるという試練を突破したにも関わらず、一撃を与える事が出来なかったことを、本気で悔しがっているのである。
それを面白いと、龍はまた心底思う。
こんな人間は始めてであった。
『さて……好きなだけ悔しがるが良いが、気が済んだらしっかり休んでおくが良い。一日中我と戦い続けたのだ、疲労も溜まっていよう。疲れ果てたままの貴様を戻すつもりは、我にはないからな』
「戻る、って……もしかして、あそこに戻してくれるのか? このまま適当なところに放り捨てるとかじゃなくて?」
『貴様は一体我を何だと思っている』
「……気まぐれな誘拐犯?」
なるほどカイルから見れば、それはそれで間違ってもいないのかもしれない。
だが龍の中の龍とも呼ばれた自分に対してそんなことを言うなど――
『……貴様、噛み殺されたいのか?』
「お、再戦ってことか? よし、望むところだ。次こそは、ちゃんと一撃を入れて勝つ」
そう言うや否や、カイルは嬉々として立ち上がった。
その瞳は、今の言葉が本心からのものだと告げている。
龍と一日中戦い続け、五年目にしてようやく勝利することが叶ったというのに、まだ続けようというのだ。
しかし龍はその目を眺めながら、鼻を鳴らした。
『ふんっ……冗談だ。龍は滅多なことでは約束を破らぬ。そして此度のことは貴様の勝利で終わったのだ。これ以上の戦闘は不要よ』
「滅多にってことは、破ることもあるってことだろ? それに俺が望んでる以上は別に破るってことにならないんじゃないか? いいからやろうぜ」
『クドい。さっさと休むが良い』
ちぇー、などと言って唇を尖らせるカイルを見下ろしながら、龍はそれと悟られぬよう必死で感情を抑える。
胸の中にある熱を放出するように、ゆっくりと息を吐き出す。
本当は、龍も今すぐ再戦をしたかったのだ。
龍がカイルを攫ったのは、端的に言ってしまえば自らの試練を受けさせるためである。
問われる事がなかったためにカイルへと語ることはなかったが、これは本来龍が目をかけた相手を試し、また鍛えるために行うことだ。
自らの好敵手と成り得る存在を育て上げるために行うことである。
何故そんなことをするのかと言えば、龍という種が最も好む事が強敵との……いや、より正確に言うならば、英雄との戦いだからであった。
だが英雄などという存在は、滅多に現れることはない。
仮に現れたとしても、そういった者達は世界や神などから役割を与えられている事が多く、龍と殺し合いをしてくれることはないのだ。
故に、龍は自らの好敵手と成り得る存在を育て上げるために、これと思う者を攫い、育てるのである。
自らの欲望を満たすために。
それは即ち、カイルは龍の目に適ったということではあるが、同時にこれは例外的なことでもある。
いくら龍が餓えているからといって、子供を攫うということは普通ないからだ。
そもそも鍛えるとはいっても、その内容はただの殺し合いである。
しかも大抵は一方的な、だ。
そんな内容に子供が耐えられるわけがなく、大人であろうとも十人に一人耐えられればいい方である。
龍にしてみれば、子供を攫ったところで将来の好敵手候補を潰すだけだという、害悪そのものの行為なのだ。
尚、殺し合いとは言っても、実際に殺すのは一度のみである。
それ以上の死は、魂が耐えられないからだ。
三度も繰り返せば、英雄に等しい、あるいは至る可能性を持つ魂であろうとも、ほぼ確実に壊れる。
死の恐怖を感じる前に殺されようと、生き返る事が出来ようと、人の魂は死に何度も耐えられるほどに強くはないのだ。
では、十万回以上の死に耐え、今もその魂に綻び一つ見せないカイルは何のなのかと言えば、間違いなく人間ではある。
しかしそれこそが、龍がカイルを子供と知りながらも連れ去ってしまった理由であった。
その魂は、今まで見た事がないぐらいに輝いていたのだ。
一目見た瞬間に魅入られた。
つい勢いに任せて連れ去ってしまったところで、仕方がないと思えるぐらいには。
龍が冷静になったのは、自らの巣へと連れ帰ってからだ。
さてどうしたものかと思ったものの、これでこのまま帰してしまうというのも自らの沽券に関わる。
まあこの魂なら一度や二度の死ぐらい耐えられるだろうと思い、つい試練を始めてしまったのだが……どうしたことか、つい勢いで十の死を与えてしまっても砕けるどころか、綻び一つないではないか。
それどころか、百の死を与えた直後、動き出しすらしたのだ。
興奮のあまりつい巣の三分の一ほどを破壊してしまったのも仕方のないことだろう。
そしてそれでも、その魂には傷一つなかった。
本来の龍の試練とは、死の恐怖を覚えさせてから、死なない程度に鍛え上げるというものだ。
繰り返すことになるが、決して二度以上の死を与えることはないのである。
だが龍がカイルへと与えた死の数は、結局のところ十万以上に及ぶ。
明らかに異常だ。
それに耐える魂も、それを行った龍も。
龍自身、自らが狂ったのではないかと思ったことは幾度もあった。
しかしその度に、目の前の男がそうではないと証明し続けたのである。
その魂の輝きをより強くし、より強大な力を手にしていくことで。
面白いのは、どうやらカイルがそれを自覚していないようだということであった。
カイルは龍が加減をしているのだと思っていたようだが、それはある意味では正しく、ある意味で間違っている。
少なくとも龍は、常にカイルを殺すつもりであった。
全力でなかったのは、あくまでも龍が好むのは戦うことだからである。
殺すことでない以上は、よっぽどのことでもなければ、本当の意味での全力を出すことはない。
だが間違いなく、その状況での本気ではあるのだ。
カイルに武器や防具を渡したのも、それがカイルに必要だったからである。
これもまたカイルは勘違いしているようだが、龍を殴って拳が吹っ飛んだのは、カイルの力に拳が耐え切れなかったからだ。
だからこそ、その力に耐えられるような剣を渡したのである。
防具に至っては、そもそもほぼ生身のままで龍の攻撃を耐え、捌くのがおかしいのだ。
そんなことが出来るようになるとは思わなかったので、渡すのが遅れたのだが、あれらもまた必要故に渡したのである。
ともあれ、そうしてカイルは龍と戦うことによって少しずつ力を増していき、その果てに、ついには龍と一日中戦い続けるという偉業を成した。
それがどれほどのものであったのか、これまた本人は自覚してもいないのだろう。
今までそれを達成できた者など、誰一人としていないというのに。
これまでにも龍の試練を超えた者は、確かにいるにはいる。
だがそれらは、結局のところ妥協の産物だ。
成長の限界を感じ取り、ここいらで満足するしかあるまいと龍が手を抜いたが故に、それらの者達は試練の条件を満たせたに過ぎない。
真の意味で龍の試練を越える事が出来たのは、カイルただ一人なのだ。
そこまでに至ったカイルは、もう間違いなく龍にとって好敵手と呼ぶに相応しい存在である。
しかし故にこそ、ここで再戦するわけにはいかないのだ。
それはあまりにも勿体無すぎるだろう。
『……そうだ。あやうく忘れるところであったが、貴様何か望みはないか?』
「望み……?」
『そうだ。貴様はこの我に勝利したのだ。その褒美を与えるのは当然というものだろう』
それは言葉通りのものであった。
カイルが望むのであれば、世界すら差し出してみせよう。
人類がどれだけ抵抗しようが、魔王が邪魔をしてきようも関係はない。
龍に勝つとは、それだけの価値があることなのだ。
だがそれに対しカイルが放った言葉は、驚くべきものであった。
「ふーむ、勝手に攫っときながら何言ってんだこいつ、とは思わなくもないが……別にないぞ?」
『……なに?』
「望みなんてない……いや、必要ないって言うべきか? わざわざ誰かに叶えてもらうような望みなんて持ってないからな」
龍はこれでも、万の時を生きる存在だ。
好敵手と成り得る者を探し、試練を課してきた者の数は百や千ではきかない。
しかしその中で、好敵手と思えたのが初めてならば、望みがないと口にした者も初めてであった。
本当に面白いと、つい口角が吊り上がる。
『我に知恵を望んだ際、貴様は冒険がしたいなどと言っていたが、アレは貴様の望みではないのか?』
「よく覚えてたなそれ。だがまあ確かに、それは俺の望みだって言えばそうだな。俺は今も冒険をしたいと心の底から思ってる」
『では、何故それを望まぬ?』
「決まってるだろ? 誰かに望んで得られた時点で、それはもう冒険でも何でもないからだ。……ああ、でもそうだな、やっぱり一つだけ望みはあったかもしれん」
『ほぅ……? それは何だ? 言ってみるが良い。それが如何なるものであれ、我が名に誓って必ず果たすと約束しよう』
その言葉に、カイルはこちらの目を真っ直ぐに見つめてきた。
そのまま、その口が開かれ――
「俺はいつか必ず、ここに辿り着く。だからその時こそ、俺ともう一度戦え。今度は一撃だとか一日だとかなしでな」
『……ほぅ? この場で再戦ではなくても良いのか?』
「それも一瞬思ったんだが……まあ、考えてみたら俺なんてまだまだだしな。それにどうせやるんなら、やっぱり互いに全力でこそだろ。だから、お前に勝てると思えるようになったら、必ずまたここに来る。その時こそ――」
『――よかろう。バルトロメウス・リントヴルムの名において、貴様の願い確かに承った。貴様がこの場に再び現れたその時には……心行くまで殺し合おうぞ……!』
自らの望みでもあるそれを、断る理由などあるわけがなかった。
犬であれば尻尾でもぶんぶん振っていそうな喜色のこもった声を上げながら、龍は――バルトロメウス・リントヴルムという名のそれは、牙をむき出しにしながら、満面の笑みを見せる。
もっともそれは、傍から見れば恐ろしいだけの代物ではあっただろうが……カイルはそれに臆すこともなく、その口角を持ち上げると、挑戦的な笑みを向けてくるのであった。




