再戦 その1
早いもので、リディアがこの村へと来てから一年が過ぎようとしていた。
辺境の村ということもあり、ここにいると季節の移ろいというものをあまり感じられない。
気温の違いというものは確実に発生しているのだが、この周辺の土地は年中穏やかな気候であるため、気が付いたら季節が巡っている、という感じなのだ。
冬でも雪が積もるというほどではないし……正直に言ってしまえば、もう一年が過ぎたのかと、リディアとしては驚くような気持ちであった。
ただ、そう思うのは、少なくない割合でこの村だからということも関係しているのだろう。
気候というだけならば、王都とも大差ないはずだからだ。
だが王都では、リディアは第一師団の師団長を務めていた。
いや、厳密に言えば今もそれは変わっていないのだが、向こうでは相応のことをやっていなければならなかったのだ。
しかし今はそんなことをする必要はなく、周囲もリディアに相応しい態度を求めることはない。
端的に言ってしまえば非常に気楽であったのだ。
そのことに罪悪感を覚えないと言えば、嘘になる。
控え目に言っても、今は魔王との戦争中と言っていい状況だからだ。
今から約九年前、この世界に唐突に現れたと言われている魔王だが、現れたのは魔王だけではないのだという。
数は定かではないが、魔王と共に現れた者達がおり、彼らは自らを魔王軍と名乗った。
その目的は、この世界の征服だという言葉と共に。
それが冗談でも何でもないのだと証明するかの如く、魔王達は降り立った場所にあった国を滅ぼしてみせた。
そしてそんなことをされれば、黙っていられる道理はない。
以来魔王軍と人類はずっと戦争状態にあるのだ。
とはいえ、この国にその戦争の当事者あるという意識は薄い。
魔王達は滅ぼした国の一角を拠点としているらしいのだが、それはここから遠く離れた場所なのだ。
少なくともこの国だけで言うならば平和だと言ってしまえる状況であり、他人事とまでは言わないまでも、前線は遥か彼方だという意識であった。
そういったこともあり、罪悪感はあるにはあるが、実際にはほんの少しである。
それに、何もリディアは遊んでいるわけではない。
周囲の目がない分、城にいた頃よりも気楽にやれてはいるが、今リディアがやっていることはむしろあの頃よりも余程重要なことなのだ。
何せ大袈裟でも何でもなく、リディア達の今やっていることこそが、人類の行く先を左右するのである。
気楽だからといって、気を抜けるわけもなかった。
まあそれはそれとして、割とのんびりした毎日を過ごしているからこそ、もう一年が過ぎたのか、などという感想が浮かぶのだろうが――
「……四六時中気を張っていれば成果が出るというのならばそうするが、実際にはそうではないからね。むしろ適度に気を抜く程度の方が、人を育てる上ではいいのさ」
などと、誰に言い訳するでもなく、そんな言葉を口の中だけで転がし、嘯きながら、リディアはその場で巡らせていた視線を止めるのと共に、思考も止めた。
ちょうど全員揃ったからだ。
「待たせたわね」
聞こえた言葉に、リディアは肩をすくめるだけで返事とした。
足を止め姿を見せたルイーズが、別に悪いなどと思っていないことは、その顔からして明らかだからだ。
もっとも、彼女が遅れたというよりは、単純に自分達が早く来てしまったというだけのことである。
待ってから一緒に来ればよかったのにそれを敢えてしなかったのだから、ルイーズが悪いと思うことはないのは当たり前のことであった。
そして一足先に来ることになった原因でもある二人は、ルイーズの登場に反応すらすることはない。
カイルとクレアはただジッと前を――森の先だけを見つめている。
その先にあるだろうモノを、見据えるように。
「さて、それでは行くとするか」
その言葉にも反応することはなく、さすがに苦笑が漏れたが、まあ今日ぐらいはいいかと思いながら歩き出す。
誕生日ぐらいは、大目にみても構わないだろう。
そう、今日は二人の誕生日なのであった。
そうしてそんな日にこんな場所にいるのは、今日は二人が改めて魔物との戦闘に挑戦する日でもあるからだ。
これを誕生日プレゼントと言ってしまうのはさすがにアレかもしれないが、実質的にはその通りだし、何よりも二人が望んだことである。
ならばそういうことでいいのだろう。
ちなみに二人の誕生日が同じなのは、本当に生まれた日が同じだからではない。
同じ日に拾われたからでもなく、ルイーズがそう決めたからだ。
二人共に正確な誕生日は分からないのだから、一緒にしてしまった方が合理的だろう、とのことで。
まったく以てルイーズらしいことである。
「とりあえず確認しておくが、魔物は大分奥にまで行かなければ出ることはない。ただし道中で野生動物に襲われないとは限らないから、警戒は怠らないように」
一通りの注意は事前に行っているが、念のため繰り返すも、やはり二人からの反応はない。
既に理解しているということと、魔物のことを考えているため返事をするのも惜しいというところか。
これで意識が散漫なようならば言うこともあるのだが、警戒はきちんとしているようなのでどうしたものかといったところである。
良い意気込みだと考えるべきか、それとも気負いすぎだと考えるべきか。
「ふむ……どう考えるべきかね?」
「さあ? あなたの考える通りでいいんじゃないかしら? 戦闘関係は既にあなたに任せているのだから。今日私が付き添うのも、所詮は確認の為でしかないのだし」
多分そういった答えが返ってくるのだろうな、というのは予測出来ていたが、問いかけた言葉にほぼそのままのそれが返ったことに、溜息を吐き出す。
それはつまり、ルイーズはリディアに任せるのが最善だと判断したということなのだろうし、それだけリディアを信頼しているということでもあるのだろうが……まったく、というところである。
これでは気を抜けないではないか。
もちろん、最初からそのつもりはなかったが。
まあとりあえず様子見でいいかと思いながら、念のためにリディアも周囲を警戒しつつ、先へと進んでいく。
その足取りに迷いがないのは、リディアにしてみればここは慣れた場所だからである。
この半年ほどは、毎日のように来ていたのだから。
ルイーズがリディアを呼び寄せたのは、クレア達を鍛えるためだ。
だから他のことをする必要はないのだが、さすがに何もやっていない時間の方が圧倒的に長いとなると心苦しくもなってくる。
だが何かをやろうにも思い浮かぶことはなく、唯一思い浮かんだカイルの手伝いということも、幾度目かの申し出も断られてしまった時点でいい加減に諦めた。
ルイーズの手伝いはリディアに出来るようなことはなく、クレアの手伝いに至っては家事関係が壊滅的に苦手なため最初から検討すらしていない。
どうしたものかと思いつつも気付けば半年ほどが経ってしまい、そんなある日ふと思い至ったのが、この森に来るということであった。
この森で、狩りをしようと思ったのだ。
ここの村人の大半は穀物を育てているため、この村は小さいながらも食料に困るということはない。
しかし反面肉を狩れるものが一人しかいないということは聞いていた。
そしてリディアは、それならば自分にも出来るかもしれないと思ったのである。
別に狩人をなめていたつもりはないし、その技量に必要なのは戦闘に必要なのとは微妙に異なっているということも知ってはいた。
その上で、リディアは出来ると思ったのである。
その考えは、初めて狩りに出かけた日に猪を持ち帰ったことで正しかったのだと証明された。
この森にいたのが鹿などの草食動物であったならばきっと苦労もしただろうが、猪や熊がいてくれたおかげで問題はなかったのだ。
それらの縄張りを適当に歩いていれば向こうからやってきてくれたし……あとは、今までは狩人が一人しかいなかった、というのも大きかったのだろう。
自分達が狩られる立場だという意識が薄かったため、楽に狩れたのである。
あるいは、自分達の天敵の存在を過度に意識しすぎて、他に意識が向いていなかっただけなのかもしれないが。
「……意外にも、と言うべきか、野生動物が襲ってくることがないわね?」
「ん? ああ、まあ一応縄張りとなっているような場所はなるべく避けているからね。それにこっちは四人だ。野生動物だからといって、縄張りに入った相手を何でもかんでも襲うほど間抜けではないさ」
むしろ野生動物は本来警戒心が強い。
リディアが襲われていたのは、一人だったのと、敢えてそう振舞っていたからである。
魔物と戦う際の技術の一つを応用したのだ。
本来は魔物の攻撃を自身に引きつけるためのものだが、使い方次第ではそんなことも出来るのであった。
と、そんなことをルイーズと話していると、不意にカイル達が足を止めた。
そのことにリディアは、ほぅ、と思わず感嘆の息を吐き出す。
正直気付かないのではないかもしれないと思っていたからだ。
だが、さすがにそれはなめすぎだったかと、苦笑を浮かべる。
リディアも足を止め、続いてルイーズも足を止めるが、こちらに向けられた視線に問いかけの意思は感じられない。
ルイーズも気付いたわけではなく、単純にこちらの様子から察したのだろう。
前方十メートルほど先、今はまだ見えないそこに、魔物の気配があった。
「とりあえずここまでの間で、言うことはないな。さすがは君達だ。……と、そう言われて頬の一つでも緩めれば可愛げもあるんだが、まあそういうところも君達らしいか。さて……それで、まずはどちらからやるかね?」
気配があった魔物は、一匹だけだ。
安全を考えるならば二人で一匹を相手にするべきだが、それを二人が望んでいないことは分かっているので言うことはない。
それに、二人ならば大丈夫だろうということも分かっているのだ。
ならばリディアがすべきことは万が一の時に備えることであり、余計なことを言う必要はなかった。
「……アタシがやるわ」
数秒経って、先に手を上げたのはクレアであった。
そうして歩き出す背中を、カイルは黙って見つめている。
ある意味で先を越されたとも言えるカイルは、だがそういったことは考えていないようであった。
というか、その様子を見る限り、敢えて先を譲ったのだろう。
この期に及んで怯んだとかではなく、おそらくは、クレアの様子を観察するために。
ここ一年の間、カイルとクレアは模擬戦を行ったことはないし、互いの戦闘を見たことすらないはずであった。
朝に素振りをやってはいるようだが、それだけではどれだけ成長したのか、ということは分かるまい。
カイルはそれを確かめるつもりなのだろう。
正直なところ、少し心配ではあったものの、余計なお世話かと頭を振る。
それに今気にすべきはカイルではなく、クレアだ。
リディアもまた、クレアの背中を注視することにした。
しかしゆっくり進んでいた足が、不意に止まる。
魔物の姿を肉眼で捉えたのだろうということは、言われずとも分かった。
ついでに、有効射程圏内に捉えたのだろうということも。
「――っ」
一瞬の淀みもなかった。
訓練の時同様、あるいはそれ以上のスムーズさで、クレアは剣を抜くのと同時に斬撃を放ったのだ。
未だ五メートルは離れているだろうそれへと、である。
「……っ」
瞬間誰かが息を呑み、だがそれを特定することは出来なかった。
それを困難にさせるような現象が起こったからである。
轟音であった。
呟きどころか大声で喋っていたとしても掻き消してしまうだろうそれが響き、音に相応しい現象がその場に顕現する。
即ち、地面に大穴が作り出されたのだ。
それをやったのがクレアであることは疑いないことだが……いや、それでも今のを目にしてすら、一年前の彼女しか知らないものであったならば自らの目を疑うことになったかもしれない。
一年前の彼女であれば、今の距離ではギリギリ魔物を倒しきれるかという程度の穴を作ることしか出来なかった。
まあそれを程度と言ってしまう時点で何かが間違っているのだが、しかし目の前の光景を見ればそれも納得出来てしまうものだろう。
彼女の眼前に広がっている穴は、数メートルどころか、どう見ても十数メートルは広がっていた。
思わずリディアの口元から、溜息が吐き出される。
だが、続けて、やりすぎだ馬鹿者、と口にしようとしていた言葉は、結局放たれることはなかった。
その前にクレアがこちらに振り返り、その顔を目にしたからである。
そこに自慢げであったりとか、そういう色が少しでも見えたのならば、容赦なくリディアはその頭へと拳を振り下ろしただろう。
しかしそこには、笑み一つなかった。
一言も言わずとも、ただ真っ直ぐに……リディアの後ろへと視線を向けている。
こんなことは当たり前のことだと、これが今の自分の実力だということを、その目で示していた。
「……リディアさん」
「……ああ、分かってるよ。次は君の番だ、ということだろう? 焦らずともすぐ次に向かうさ」
振り返らずとも、やる気十分なのはよく分かった。
そこに気後れがないことにも。
普通であればこんなものを見せられればやる気はなくなるものだと思うが……逆にやる気とするあたり、さすがといったところか。
そしてもう一つ後方にある気配からは、何となく満足気なものをリディアは感じ取っていた。
こんなことができるようになっていることと、それを見て諦める様子がないことに、というところだろう。
そのことを思いながら、これもまた予定通りなのだろうかと、リディアはそっと溜息を吐き出すのであった。