プロローグ
――不思議と、後悔はなかった。
千切れかけた身体に、溢れ出て止まらない血液。
頭の傍で子供の身体を抱きかかえながら謝罪と感謝の言葉を繰り返し続ける女性と、ガードレールに突き刺さるようにして止まりひしゃげている赤い車。
現状を正確に認識するために、それらのことをもう一度確認してみても……自分は間違いなく死ぬのだということを理解しても、やはり後悔の念は微塵も湧いてこなかった。
交通事故であった。
会社へと通勤する途中で、偶然暴走している車に気付いて、偶然その先を歩いている母子に気付いて、偶然男がその近くにいた。
それだけのことだ。
全てが偶然で、だから男が咄嗟に母子を突き飛ばしてその身代わりとなってしまったのも、きっとただの偶然であった。
少なくとも、男に英雄願望はないし、自分の身を犠牲にしてでも誰かを助けるなどという献身的な性格でもない。
男は平々凡々な人間なのだ。
だから何か一つでも違っていたら、周囲で様子を伺っている人達の一人が自分であった可能性は高かったし、ここでこうして横たわっているのが母子だった可能性もまた高かったに違いない。
しかしそうはならず、何の因果か母子の代わりとばかりに男の命が尽きようとしている。
そのことを、まあ母子に目の前で死なれてしまうのに比べればマシかと思う程度には、男は平凡であった。
そして平凡であるからこそ、そこに後悔がないのだろう。
母子を助ける事が出来たという誇らしさがあって、それを上回るような未練が存在していなかったから。
いや、そもそもの話……男には未練と呼べるようなものなど、最初から存在していなかったのかもしれない。
何かやり残したことがなかっただろうかと考えたところで、何一つ思い浮かぶことはなかったからだ。
とはいえ、それも当然かもしれないと、男はそう思う。
男が歩んできた人生は、男そのものがそうであるように、平々凡々なものであった。
あるいは、それよりも僅かに下か。
アラサーどころかそろそろアラフォーに足を踏み入れそうな年齢だというのに、結婚もしていないことを考えれば、やはり下と言うべきかもしれない。
だがそれでも、人より不幸だったなどと嘯くつもりはないし、そこそこ楽しくはあった。
あったが……所詮は、それだけだったのだ。
未練に繋がるような何かがあったわけではない。
今進めている仕事について、引継ぎ作業などしているわけもないから迷惑をかけるなとは思うし、両親より先に逝ってしまうことを申し訳なくも思うが、それもまたその程度。
同僚や兄に頑張ってもらうしかないなと思うだけだ。
あとは……敢えて言うならば、ゲームだろうか。
確かそろそろイベントが近かったはずだ。
それなりに楽しみにしていたし……だが、それを未練と言ってしまうのは、さすがにあれだろう。
と、苦笑気味にそんなことを思っていると、ふと、一つだけあったかもしれないと思い出す。
それは、未練とは少し違うような気もするが……ずっと、いつかはやってみたいと思っていたことではあった。
――冒険を、してみたかった。
それこそ、ゲームのような、冒険を。
しかし、現実世界では望むべくもなく、仮想の中で望んでもそれでは何かが違うような気がした。
……いや、それは言い訳だ。
きっと本気で望み挑んでいたのならば、幾らでも出来たのだろう。
確かにこの世界には龍はいないし、剣を手に取れば捕まる。
だが冒険に値するような未知ならば、きっとそこら中に転がっていた。
それらは誰かにとっては既に未知ではないのかもしれないが、男にとって未知であれば何の問題もないのだ。
それを巡っての旅は、冒険以外の何物でもなかったに違いない。
分かっていながらもやらなかったのは、度胸がなかったからだ。
勇気がなかったからである。
環境や年齢などを言い訳にして、やろうともしなかった。
もしも男が、ほんの少しでも勇気を振り絞れていたら、今日母子を助けた際に発揮したものを、自分に向けることが出来たのならば、きっと簡単に出来ただろうに。
それは咄嗟の出来事で、意識してのものではなかったが、実行に移せた以上は間違いなく男が持っていた勇気であった。
だが最早死に向かうしかない男には、その機会が訪れることはない。
願えば叶ったのに、もう冒険をすることは出来ないのだ。
――ああ、それは……確かに、未練であった。
だから、男はふと思う。
もしも生まれ変われるのであれば、今度はもっと自分に我侭に生きてみようと。
そして、今度こそ冒険をしてみようと。
もちろんそれは死の間際だからこそ思った戯言ではあったけれど……思ったことそのものは本気であった。
故に、男は自分のことを少しだけ見直した。
本気でそう思うような未練があることが分かったのに、変わらずこの結末を後悔することはなかったからである。
自分の死を嘆くのではなく、あの母子を救えてよかったと、そう思えたのだ。
そのことに男は、満足する。
もう自分はどうにもならないが、どうにもならないからこそ、最後になって自分で自分が惨めになるようなことを思うような人間でなくてよかった、と。
それに、どうせ死ぬ時は一人で寂しく死んで行くのだろうと思っていたのだ。
それが形はどうあれ他の人に看取られながら逝くのである。
しかも、最後に人の役に立てた上で、だ。
自分にしては、それなりにマシな最後だろう。
そんなことを思い、確かな満足と、未練を抱きながら、男の意識は闇の中へと沈んでいく。
そして。
――男がそんな前世の記憶を取り戻したのは、よりにもよって死の間際の、しかも似たような状況の中でであった。