第9話
ユカ。高校のとき、隣のクラスで同じバドミントン部だった。
初めて見たときの印象は、あまり覚えていない。どちらかといえば地味な感じ。化粧もしないし派手な格好もしない。ヒマさえあれば騒ぎまくっている他の女子と違って、ひとり落ち着いた雰囲気を持っていた。
性格が暗いか、といえばそうでもない。よく笑うし、部内では誰とでも気楽に話をしていた。あまり大声を出さないし、友達との会話では大抵の場合聞き役だったから、静かなイメージになるのだろう。しかもかなりの聞き上手だったので、いろんな人がユカに悩みとかを打ち明けたり相談したりしていたらしい。
それで音楽はジャズが好き。偏見かもしれないが、当時の年齢を考えると趣味としては珍しい方だったと思う。それが彼女を余計に大人っぽく印象付けていたのだろう。
そんなユカのことが気になりだしたのは高一の夏休みのあたりだったかな。例のアルバムを貸してくれたのは、二学期のことだった。
ユカがこの部屋にやって来た。思い切って「彼女」に出してもらった。「彼女」以外の誰かと話がしたかった。
ユカと会うのは卒業以来だ。ちょっと気まずいところもあるが、とっくに時効だと思うし、会いたいという気持ちの方が強かった。
「あ、ユカ。ひさしぶり」
ちょっと緊張している。普通に、さりげなく話そうと意識しすぎて、声が上ずってしまった。
ユカはきょとんとこちらを見ている。制服を着て、髪はまっすぐ首の付け根くらいまでの長さ。「染めたりしてないよ」と言っていたが、微かな赤みがあるお陰でベタッとせず軽い感じになっている。
一瞬、ユカってこんな顔だったっけ、と不思議な思いが過った。頭の中のイメージよりも随分若いというか、幼い表情だ。しっかり者という評判だった彼女が、ひどくひ弱に見える。張りのある肌、黒目がちな瞳、どれをとってもユカそのものではあるが、まるで別人のような感じでもある。制服姿がまぶしい。
ユカの隣に「彼女」が黙って立っているのが気になる。話しづらいじゃないか。
「えっと、急にこんなところに来てびっくりしてるでしょ」
話しかけてもユカは何も答えない。しきりにおれの顔を覗き込んで、首をかしげたり考え込んだりしている。
「ああ、どこから話せばいいのかな。そうだな、この部屋はね――」
「あの……」ユカが恐る恐る口を開いた。懐かしい、静かなトーンだ。
「はい?」
「ちょっといいですか?」
「な、なに?」
「あなた……誰ですか?」
「へ?」
ユカの隣で「彼女」が笑い出した。いつか聞いたひーひっひという下品なやつだ。かなり大声で笑っているのに、すぐ隣にいるユカは何の反応も見せない。
「うるせーな、なんなんだよ」
ユカが目の前にいることで余計に恥ずかしさが込み上げてきて、「彼女」を怒鳴りつけた。すると「彼女」ではなく、ユカの方が「ご、ごめんなさい」と頭を下げた。
「あ、ち、違うよ。ユカじゃなくて、そっちの小さいほうのこと」
「ち、小さいほう、ですか?」
おれの指差す方向にゆっくりとユカの視線が移る。たちまちユカの表情が困惑に染まっていった。どうリアクションすればいいかわからないといった様子だ。どうやらユカには「彼女」の声も聞こえず、姿も見えてないらしい。
「あー――」
おれの声を聞いた途端、ユカの全身がビクッと震える。いかん、完全にビビッている。
「ごめん。今のなし。忘れて」
できるだけ穏やかに話しかけた。ついでにこれから妙な事を言うけど、全部独り言だから気にしないで聞き流してくれ、とつけ加え、にっこりと笑いかけた。ユカは冷や汗をかきながら「あはは」と引きつった愛想笑いで応えた。絶対におれを怖がっているな。両足がじりじりと後退している。
余計なことかもしれなかったが、「平気だよ」とユカに告げてから「彼女」を睨む。もう声を出してはいないが、まだ楽しそうに笑っている。
「どういうことだ? ユカにはお前が見えないのか?」
彼女は頷く。
「どうしてだ? そうならそうと予め教えといてくれないと困るだろう」
「私のこと邪魔だって思ったでしょ」
確かに話しづらいとは思ったけど、おれにだけ見えてユカに見えないのはかえってやりにくいだろう。
「これ以上は無理」
おれが心から望んでも無理なのか? お前は望みを聞いてくれるんだろう。だったら何とかしろ。
「じゃあ何とかする」
何とかするって、どうする気だ。
「ベッドの下に隠れてる」
なんだよそれ。もっといい方法ないのかって――おい!
「どうして何も喋ってないのに返事するんだ?」
彼女はまるでおれの心を読んでいるかのようだ。
「ユカが怖がってるから」
ユカを見た。ユカもおれを見ていたが、おれと目が合うと反射的に視線を逸らした。ユカにはおれしか見えていない。そのおれが誰もいない空間に向かって必死に話しかけている光景は、不気味以外の何者でもないだろう。意外なことだが、彼女はユカを気遣っていたのだ。
「わかった。それには感謝する。でも気持ち悪いからもうやめてくれ」
「了解」
「これまでも、そうやっておれの心を読んでいたのか?」
「……」
「もういい。話が長引くから後にする」
もう一つ彼女に確かめることがある。
「ユカが、おれのことがわからないのはどうしてだ?」
「イサムがイサムのままだから」
「意味がわからん。おれがおれで何が問題なんだ」
「イサムがただのオヤジだから」
なんだよオヤジって。まだ二十六だぞ。
「ユカにとっては見たことないオヤジ」
――そうか。ユカはおれの記憶のユカってことか。
「見知らぬオヤジからいきなり名前を呼ばれたら怖い」
ユカは十六歳のままだ。ユカの知っているおれも十六歳の時のおれだ。十年後の今の姿を見ても、おれだとは認識してくれないってことだ。
「正解」
「おい、心を読むな」
「了解」
「で、どうすればいい?」
「イサムはどうしたいの」
「どうって、ユカと話したいから出してもらったんじゃないか」
「話はできるよ」
「でもこのままじゃ、おれのことがわからないんだろう。十年後のおれだって説明したら信じるのか?」
「信じない」
「それじゃあ困る。おれだってわかってくれなきゃだめだ」
「イサムが戻ればいい」
戻る? どういう意味だ?
「イサムが十六歳になる」
「できるのか?」
「イサムの記憶だからできる」
そんなことができるなんて。ということは、おれは生まれてから今までの間なら何歳にでも戻れるっていうのか。赤ん坊でも、五歳でも十歳でも。
「そう」
「おい、心を――」
「了解」
当時の姿に戻れるなら、ユカにもわかってくれるだろう。だが。
「さっきも言った気がするけど、どうして予め教えてくれないんだ、そういう大事なこと。だったら初めからそうしておいてくれよ」
「イサムが願わないから」
「知らなければ願いようがないだろう」
「もう知ったから願える」
こいつはいちいち回りくどい。早く切り上げないと。ユカをちらっと見ると、少し落ち着いてきたようだ。先ほどのビビッた表情は消えているが、今度は半分呆れた様子でこちらを眺めている。
「戻るの? 十六歳」
「当たり前だろう。戻らないでどうするんだ」
「戻らなくてもこのままでユカを襲って、押し倒したりすることはできるよ」
「な、なんてことを――」
焦った。なぜ焦る?
「そういうの、好きでしょ。やりたいでしょ。ユカがイサムのことイサムってわからないほうがイサムはやりやすいでしょ」
「バカ言うな!」
気に食わなくて嫌な奴でも、「彼女」は子どもだ。少なくとも外見は十歳前後の少女だ。そんな子どもの口からこんな言葉が出るとは、ちょっと想像つかなかった。
「やりたければやっていいんだよ」
「だから、違うってば」
なぜか動揺している。返答に困っている。何でこんなガキ相手に困らなければならないんだ。彼女はいつの間にか笑顔を引っ込め、殆ど無表情になっていた。そうしてくれると遥かに対応困難な状況に陥ったような気分になってしまう。
「だってイサムはいつもユカをオカズにしてたでしょ」
ああ、もう頭の中が真っ白だ。
そうだよ、図星ってやつ。一時期はユカの裸を想像して、毎晩のようにしていた。それは事実だ。
こいつがおれの心を読めるのは確からしい。であれば隠しようがない。でもどうしてそんなことをここで言う必要がある。ユカを目の前にして、非常に屈辱的な気分だ。
「イサムって本当は若いコ好きだし」
そう、その通りだ。だけど今ユカに会いたいと思ったのはそういうことじゃなくて、もっと純粋に会いたい、話がしたい、それだけだ。それは本当だ。だからユカがおれのことをわからないのは困るんだ。
「――とにかく、年齢を戻してくれよ」
言い訳しても始まらない。彼女にはごまかしが効かないとわかった以上、もう取り繕いようがない。さっさと終わらせてしまおう。
「私は?」
「……ベッドの下に隠れてろ」
「了解。じゃあね」
どっと疲れてしまった。せっかくユカに会えたのに、話す気力が失せてしまいそうだ。
彼女がのそのそとベッドの下に頭から突っ込んでいく。隙間が狭いのか、なかなか入っていかない。尻のところでつかえたらしく、両足をバタバタさせている。途中「にゃ」と意味不明な叫び声をあげた。
これじゃあ二人きりって気分にもなれそうにないな。
(第10話につづく)