第7話
小学校時代に受けた理科のテストに再挑戦してみた。当時最も得意な科目だったのに、うっかり解答欄を一つずらして答えを書いたために、クラス中で最低点になってしまったやつだ。
十二点。担任から答案を渡された時はショックのあまり固まってしまった。今思えば些細な出来事だし、解答欄を間違えておいてよくも十二点取れたものだと感心もするが、その時の自分にとっては大事件だった。すぐに解答がずれていることに気づき、担任に訴えたが、点数が修正されることはなかった。これも今思えば当たり前だが、当時は担任を恨み、世の不条理を呪ったものだ。これが小学校時代の一番悔しい思い出。ようやくリベンジの機会が到来したというわけだ。
設問の多くは植物、特に花の部位の名称や、おしべとめしべの役割など。
これもおれの記憶から作ったものらしいが、その正確さに驚いた。紙の大きさ、字の大きさ、レイアウト、一箇所誤植があったところまで再現されている。おれ自身の感覚としては、テストの結果が悔しかった、ということを覚えているだけで、設問内容の一つだって思い出すことはできない。だがこうしてテスト用紙を見ていると、ああ、そういえばこんな問題だったよな、と思える。おれが忘れていても、記憶としては残っているということか。
忘れてしまったら、それは知らないのと同じことだ。でも、おれの知らない記憶がおれの中には確実に存在する。しかもおそらく知っている記憶よりもそれらは遥かに多いだろう。妙な気分だ。
何かの本で読んだことがある。自分自身を自分と認識できるのは、生まれてから現在にいたるまでの継続した記憶に自分がつながっているからだと。でも、その自分につながっている記憶の殆どが自分の知らない記憶だとしたら、おれは今の自分自身を知っていると言えるのだろうか。そして、目の前にいる少女はおれの知らないおれの記憶を知っている。
テストはあっという間に終わった。所詮小学生向けの問題だ。採点してくれる担任もいないし、彼女もやってくれそうにないので、教科書を出してもらって自分で採点することにした。結果は七六点。理科は得意中の得意で、当時九十点台は当たり前だったので少々がっかりしたが、いきなり予習もなしに大昔のテストをやったのだから、上出来だと思うことにした。これでリベンジは終了。
「満足したの?」
彼女が尋ねる。僅かに嫌味が混じっている。
満足するはずがない。昔のテストをもう一回やっただけだ。解答欄のミスで点数が低かったことが確認できただけだ。それによってテストの成績が覆ることもない。これが本当に欲しいものとは到底思えない。
その後、彼女に出してもらったのは昔やったゲームとか好きだった映画とか、自分でもどうでもいいとわかっているものばかりだった。見たことがない映画なら興味も持てるが、知っているものからしか選べないので、だらだら眺めているだけだ。そんなことしてもつまらないだけで、すぐに飽きてしまう。
そのうち出してもらうものが思いつかなくなってきた。しかし最近の彼女はそれで怒ったり、去っていったりせず、傍らでじっとしているようになった。彼女に話しかけてもリクエスト以外のことには殆ど答えてくれない。自然、お互い黙ったまま過ごすことが多くなった。
次第に彼女と二人だけ、というのにも飽きてきた。本当は誰か別の人と話がしたいと思っている。しかし、前に出してもらった仔犬の件が頭から離れず、どうも生き物を出してもらうことに抵抗を感じていた。
そんな状態が続いている時、また上から例の声が聞こえてきた。いや、今回は正確には声ではなく、音楽だった。これまでの声と違ってかなりはっきりと聞き取れる。
『BILL BRUFORD'S Earthworks/DIG?』
音楽には興味がなく、それほど好きでもないおれが殆ど唯一気に入っていると言っていいアルバムだった。自然と気分が軽くなってくるのがわかる。
意識を音楽が鳴っている上の方に集中させると、今度はなんだか右手がむずむずしてきた。何かがおれの手を触っているような感触だ。
右手を見てみたが、何もなかった。何もないが、感触はある。手を動かしてみても、感触は消えない。生暖かい。そう、誰かに手を握られているような感じだ。何かとても懐かしくて、しばらくこのままでいたいという気持ちにさせる。
「何してるんだよ」
突然彼女の顔がおれの視界を遮った。わっ、とびっくりしているうちにおれの右手を強く掴み、暖かい感触を全て奪い取ってしまった。すると音楽まで鳴り止んでしまった。
「何すんだよ、せっかく聴いてたのに」
彼女が上から聞こえる声を嫌いなのは知っているが、おれの邪魔をすることはないだろう。よく聞き取れず、いつも彼女を去らせてしまうだけで、むしろ最近は邪魔くさいと思っていた天井からの声だったが、今の彼女の態度を見て、急に興味が湧いてきた。そもそも初めて声が聞こえた時はとても気になっていたはずだ。
「気になるの? 聴きたいの?」
彼女は不機嫌そうに、しかし真面目な面持ちで訊いてきた。
「気になるだろ、普通。それに好きな曲だったし」
「まだ聴きたいの?」
CDでも持ってきてくれるのかな、と思い頷いた。
「じゃあ、聴いてなよ」
彼女が部屋を去ろうとする。
「ちょっと待てよ。お前がいなくなったら聴けないじゃないか」
彼女は振り向きもせず、捨て台詞のように「私がいたら聴けないでしょ」と言って出て行ってしまった。
周囲が暗くなり、意識が薄れていく。音楽を聴くどころじゃないじゃないか、どうやって聴くんだよ、と最後に考えていたような気がした。
おれは機嫌が悪かった。
彼女はまたやって来たが、「ちゃんと聴いた?」が開口一番の台詞だったからだ。
彼女がいなければ聴けないのだ。そのことを彼女は知っているはずなのに、随分とあからさまな嫌がらせをするものだ。
「聴いてないよ」
起き上がりながら短く答えると、彼女は「あ、そう」と小さく呟き、考えこみ始めた。彼女が考えこんでいる姿は初めて見た。なにやらいぶかしげだ。
「どうしたんだよ」
彼女は無視して考えこんでいる。
「おい――」
「本当に聴いてないの?」
真面目な顔で訊き返してきた。目つきが鋭く、とても子どもには見えない。睨まれると、なぜか逆らえない。つい萎縮してしまう自分が奇妙だと思うと同時に、嫌でもあった。
「あ、ああ――聴いてない。だって、お前がいなくなるとおれ、寝ちゃうみたいだし」
「寝ちゃったの?」
「多分」
「ならいいや」
勝手に彼女の方で話を打ち切ってしまった。もう何を訊いても答えてくれない。さっぱりわからない。質問したいのはおれの方なのに。
さらに機嫌が悪くなった。でも彼女はそんなおれのことは全く気にしていない様子。それがまたよけいに腹が立つ。
彼女はいつものようにおれの横でじっと立っている。おれのリクエストを待っているのだ。何事もなかったかのように、すまし顔だ。それが気に入らないので、当分何もお願いなんかせず、むこうが焦れて何か催促してくるまで放っておくことにした。
だが、彼女はなかなか音をあげない。
先にこっちが焦れてきたので、気を紛らわすためにいろいろと無理矢理考える。
気になるのは、先の音楽と、右手にあった暖かい感触だ。いくら考えても何も結論はでないが、どうしても考えはそこにいってしまう。
右手の感触は、手首から先の方にあった。何かが触っている、というよりは握られているという方が合っていた。きついほどではないにしても、しっかりと力強く握られていたような感じがした。でも右手を見ても何も触れていなかったし、今横に立っている彼女以外の人間はどこにもいなかった。
本当に誰かに握られていたとすれば、誰だろうか。外に一歩も出られず、窓の外の風景もないこの部屋と傍らに無表情で立っている少女、そしてここで起きている事。全部ありえないような状況だ。ここでさらに透明人間に手を握られていたとしても、それほど不思議なことだとは思わない。もし、そこに誰かいたとしたら――いたとしても、人から手を握られたことは勿論あるが、感触だけで相手を特定するのは無理な話だ。
それでもそれ以外に考えることがないので、できるだけ細かく手の感触を思い出してみた。目を閉じ、右手の記憶を呼び起こす。
初めはそっと触れ、それからゆっくりとおれの手を包み込んでいく指の一本一本の動きが再現される。それはおれの手と比べて、柔らかく、小さい。おそらく女の手ではないだろうか。そこまで思い至ったところで、ようやく一人の顔が浮かんだ。
ユカ。
何故ここでユカが出てくるんだ? ユカとはもう何年も会っていない。というか、高校卒業以来一度もだ。今でも忘れられないとか、そういう感情を持っているとも思えない。普段は完全に忘れてしまっていた名前だ。
思い浮かべるなら、もっと身近な人が――あれ?
身近な人って誰だ?
おれには身近な、大切だと思う人が、いた? いや、いた。
いたはずだ。
それって誰だ? 名前は? 顔は?
名前も顔も浮かんでこない。大切な人なら、つい最近会っていてもおかしくないはずなのに。忘れるなんてことあるはずがない。
そういえば、おれはここに来る前、どこにいた? 何をしていた? その後どうやってここに来た?
手の平から、顔から、首から汗が噴出してきた。なのに皮膚は冷気のようなものを感じている。
今気づいた。おれは最近のことを、ここに来る直前のことを何も覚えていない。
(第8話につづく)