第6話
「彼女」が現れると目を覚まし、出て行くと眠る(らしい)ということにも慣れてきた。もう何度目かわからなくなるくらい繰り返している。
彼女が出て行く時は、大抵上の方、天井から例の声が聞こえていて、決まって彼女は不機嫌だった。あの声が彼女を邪魔しているのだろうか。声は、少しずつではあるが、確実にはっきりと聞こえるようになっている。まだ内容までは聞き取れないが、最近になってどうやら複数の人間の声であるらしいことに気づいた。男の声もあれば女の声もある。一人の声だけが聞こえることもあるが、殆どは彼らの会話だ。
声について彼女に訊いても相変わらず何も教えてはくれなかった。それに加えて、おれが置かれてい状況についても何一つ教えてくれない。未だに、おれはどこにいるのかさえ見当もつかないでいた。いったいどれだけの時間ここにいるのか、このままここにいていいのか、不安ではあるが、同時にどうでもいいという気持ちもあった。
何度かこの部屋から出ようと試みたが、どうやっても扉は開かなかった。それならば窓から出ようと外を覗いてみたら、そこは真っ白なだけで、何もなかった。空も地面もない。風景もない。ただ真っ白。さすがに驚いたし、彼女に説明を求めたが「何もないから、何も見えないだけ」と答えるだけだった。
この部屋も奇妙だ。床も壁も天井もくすんだ白。中にはおれが寝たり座ったりするベッドがひとつ。これも白い。ただそれだけしかない。見たことのない部屋。しかし不思議なことに、天井からぶら下がっている蛍光灯だけはおれの住んでいるアパートのものと同じだった。当然、そのことについても彼女は何も教えてはくれない。
そして最も奇妙なのはおれ自身だった。よく考えてみると、この部屋で目覚めてから一度も食事をしていない。トイレにも行っていない。そもそもそうした欲求も湧いてこない。このあまりにも不自然な状況については、彼女曰く「必要ないから」だそうだ。彼女にそう言われると、なんとなくそんな気になってしまった。
今の状況は、そうなっているから、そうなんだ。と彼女流に解釈してみたら、一気に楽になった。それから、あれこれ考えるのはやめた。
初めは気にくわなかった彼女にも、今ではあまりマイナス感情は湧いてこない。むしろ、彼女と過ごすのも少しは楽しいと思うことが多くなった。未だに彼女の名前さえ知らないが、今のおれには彼女だけが話し相手だから、名前がわからなくても別に不便ではない。必要ないことは知らなくていい。必要になったらきっと彼女の方から教えてくれるだろう。彼女のいない間は、おれはどうやら眠っているらしい。だから何もわからない。なにもわからないのは存在しないのとたいして違いはない。彼女がいる時だけ目覚めている。おれは彼女のいない世界では存在できない。この変な部屋と、彼女がおれの全てになっていた。そう思うようになってからは、時折上の方から聞こえてくる例の声も、彼女とおれを邪魔するものとして嫌いになっていった。
彼女はおれの望むものを持ってくる。本当に欲しいものしか持ってきてくれない、と言っていたが、存外いろいろなものを簡単に持ってきてくれた。たまに断られることもあるが、その辺の基準がどうなっているのかは不明だ。強いて言えば、そのときの彼女の気分、なのだろうか。
わかっているのは、彼女が持ってくるものは、おれの記憶から作るということだ。本当かどうかわからないが、とにかくそういうことだ。つまり、おれの記憶にないもの、おれの知らないものは作れない、ということになる。
「でも、本当に欲しいものって、今まで自分が手に入れたことがなくて、そういうものに憧れて、欲しいって思ったりするんじゃないの?」
一度彼女に訊いてみたことがある。
「私はイサムが本当に、一番に欲しいものを持ってくる。知っていること以外イサムは知らない。本当に欲しいものは、イサムが知っていなければ欲しがりようがない」
彼女の言葉が正しいのか、おれにはよくわからなかった。
確かに人は自分の知っていること以外のことは知らない。知らないことやものに対して、漠然とした興味を抱くことはあるが、それはその時点では知りたいという欲求、つまり好奇心があるだけであり、それを本当に気に入るか、欲しいと思うかは、知ってみないとわからない。彼女はそういうルールで欲しいものを定義していることは理解できた。
「そう言われても、一番欲しいものって何なのか、おれにはよくわからないよ」
自分が知っているもの、記憶をたどっても、一向に思いつかなかった。
「だから今はいろいろ持ってくる」
彼女はおれの台詞を予想していたように、即座に答えた。
「そのうちわかる。いろいろ持ってくるうちに気づく」
「……お前は、知っているのか? おれが一番欲しいものが何なのか」
少しだけ間を置いて、彼女は微笑みながら言った。
「イサムが気づけば、私も知ることができる」
(第7話につづく)