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白い彼女  作者: おのゆーき
第一章 知らない部屋で
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第5話

 そう、自分がやった。その通りだ。そしてちゃんと覚えている。ジョン太郎のことは忘れられない。



「彼」がやってきたのはおれが中学校に入って初めてのGWのときだった。

「もう中学生だし、ちゃんと飼えるわね」

 そう言って、母親はおれにジョン太郎の世話の一切を委ねた。父親は知っているのかいないのか、遠くで新聞を読んでいる。


 幼い頃、犬を飼いたいと何度か親にねだったことがあったが、両親とも平日は働いているし、帰りも遅いから無理だ、という理由でいつも却下されてきた。もうとっくに諦めて、十歳を過ぎたあたりからは一度も口にしなかった。それが中学生になり、突然夢が叶った。


「あなたが飼いたいって言うから、知り合いから貰ってきたのよ。私もパパも仕事が忙しくて犬の面倒は無理だから、しっかり自分で責任もって飼いなさい。途中で投げ出したりしたら絶対にだめよ」

 もう何年も犬を飼いたいなんて言ってないから、少し変な感じもしたが、「ああ、ママはずっと覚えてくれてたんだ」と思うと、嬉しくてしょうがなかった。ジョン太郎は生後五ヵ月、そのローセンスな名前は、既に元の飼い主がつけていた。


 その日からおれの生活はジョン太郎を中心に動き出した。できるだけ「彼」と一緒にいられるよう、入部したばかりのバドミントン部も即辞めた。練習がきつくて逃げ出したと誤解され、部の先輩に殴られたり、意気地なしのレッテルを貼られたりもしたが、「彼」のためだと思うと我慢できた。


 授業が終わると即帰宅。お陰で「彼」以外に友達もできなかったが、それが苦にはならなかった。とにかく「彼」と一緒にいることが楽しかった。「彼」の体調が悪いときはよく学校も休んだ。

 そして、「彼」に夢中になりすぎて、自分の身の回りの変化に気づかなかった。



 母親がなかなか帰ってこないことに気づいたのは夏休みに入ってからだった。

 父親は昔からそうだったが、母親は毎日きちんと帰ってきていた。帰宅時間が遅くなるときは必ず電話もしてくれた。それが近頃は電話なしに平気で午前二時、三時に帰ってくる。そういう時は大抵酔っ払っていた。やがて外泊することも増えた。父親はとうとう帰ってこなくなった。


 おれはジョン太郎と二人きりで、家で過ごすことが多くなった。母親は一週間の半分は家にいない。帰ってきても深夜だし、酔っているから殆ど話もしなかった。自分の記憶では、最後に家族全員が揃ったのはジョン太郎がやって来たGWだった。「彼」が来てから、家がおかしくなっている。でもそれがどういうことなのか、一体何が起きているのか、おれにはさっぱりわからなかった。ただ、ひどく不安だった。


 不安になればなるほど、ジョン太郎だけが頼りに思えた。いつの間にか「彼」は遊び相手ではなく、いろんな相談や愚痴をこぼす、話し相手と化していた。「彼」は何も言わずにおれの話を聞いてくれた。「彼」の黒くて丸い瞳と目が合うたびに泣くようになった。


 ようやく家族全員が揃ったのは、翌年の正月だった。

「二人でよく話し合った結果、離婚する」ということだった。


 意外ではなかった。さすがにこんな生活が一年近く続けばなんとなく想像はできた。深夜、家の前まで知らない男の車に送られて母親が帰ってきたのを一度ならず目撃したし、そのことを咎めたら「先にやったのはパパじゃないの」と怒鳴られたこともあった。おれは離婚について特に反対はしなかった。


 ひとつ問題があった。それは父親と母親、どちらがおれを引き取るか、ということだった。もう中学生だし、おれの意見や希望も聞いて、話し合って決めたい。そのために家族が集まったのだそうだ。

 勝手にそっちで決めておいて、いきなり意見を、と言われてもどうしていいかわからない。そうおれが答えると、二人はそれぞれの意見を述べた。


 皆も知っている通り、私はこれまで父親らしいことなんて全くしてこなかった。仕事は相変わらず忙しいし、これからも自信がない。それに子供にとって、やはり母親が近くにいたほうが幸せなのではないか。本人のためを思うなら、今まできちんと育ててきた母親のもとで生活するべきだ――と父親。


 子供が幼いならまだしも、イサムはもう中学生。親の手はかからない。むしろこれからは高校や大学進学などにお金が必要になってくる。私は給料安いし、離婚したらこの家を出ていかなくてはならない。とても余裕はない。本人のためを思うなら、経済的に余裕のある父親のもとで生活するべきだ――と母親。


 どちらもおれを相手に押し付けていた。話し合いはやがて感情のぶつけ合いになり、ただの喧嘩に変わっていた。きっと二人とも離婚した後で、一緒になれる新しい相手がいるから、おれは邪魔な存在なんだ、ということだけは理解できた。


 所在がなくなり、おれは隣の部屋でジョン太郎と喧嘩が終わるのを待つことにした。

 両親は大声で罵りあっている。お互いに相手を傷つけながら、ついでに、いかにおれが不要であるかを訴えていた。聞きたくなかった。逃げ出したかった。でもどこに逃げたらいいのか見当もつかなかった。家出しても助けてくれる友達はいない。おれの友達は目の前にいるジョン太郎だけだった。


「どうしてこんなことになったのかなあ」

 ジョン太郎に話しかけてみた。「彼」の黒くて丸い瞳がこちらを向く。見ていたらいつものように涙が出そうになった。思わず「彼」を抱きしめようと手を差し伸べたとき、母親の甲高い声が響いた。


「私はこれまでちゃんとイサムを育ててきたわ! あなたみたいに仕事に逃げたりしないで、しっかり責任もってやってきたのよ! 今さらあなたに何を言う資格があるっていうの!」


 何かが落っこちてくるような感覚だった。

 そうだ、母親が変わってしまうまでは、普通だったんだ。いつも通りの毎日が続いていたんだ。父親は前からいてもいなくても同じだった。おれは多少の寂しさを感じながらも母親と話す時間を楽しみに、大切にしていた。つまり母親が変わってからおかしくなった。


 じゃあ、いつから変わった?

 目の前にいる友達――ジョン太郎が来てからだ。

 ジョン太郎は母親が連れてきた。そしてこう言った。

『あなたが飼いたいって言うから、知り合いから貰ってきたのよ。私もパパも仕事が忙しくて犬の面倒は無理だから、しっかり自分で責任もって飼いなさい。途中で投げ出したりしたら絶対にだめよ』

 飼いたいなんて、言ってない。なのに無理やりおれに飼うようにさせた。

 何のために?

 母親が、自由になるため。おれから、逃げるため。

『途中で投げ出したりしたら絶対にだめよ』

 そう言って、母親は途中でおれを投げ出した。ジョン太郎は母親の代役だった。

 おれは母親の期待通り、ジョン太郎に夢中になった。学校より、母親よりジョン太郎が大事になった。母親がいなくても気にしなくなった。いつのまにかおれ自身が変わってしまっていた。

 結果、母親は自由になれた。母親は、おれが変わったから自由になれた。ではおれが変わってしまったのは誰のせいだ?

 それは――ジョン太郎――お前は、母親の手先なのか。


 いやだ、こんなことでみんなバラバラになるなんて。また母親と話がしたい。一緒にいたい。

 元に戻りたい。戻したい。

 気がつくと、目の前に血まみれのジョン太郎が横たわっていた。何をしたか、すぐには思い出せなかった。そして、何も元に戻らなかった。一時的に両親の喧嘩を止めただけだった。

 おれは小さな亡骸を抱えて泣いていた。


 異変に気づいて両親が見に来た。誰も慰めてくれなかった。父親は真っ赤になった床と頭の崩れたジョン太郎を見て、眉間に深い皺を刻んだが、何も言わなかった。母親は少し驚いたようだが、すぐに落ち着き「ちゃんと片付けなさい」と吐き捨てるように言った。

 おれは顔を上げて母親を見た。その顔はあきらかな嫌悪と軽蔑に埋め尽くされていた。

 悔しかった。恨めしかった。きっと、あなたのためにやったのに。


 その後、おれは父親と暮らした。おれが希望したことになっている。転校が面倒だから、というどうでもいい理由で。

 父親は了解したが、それからほとんどお互いが干渉することのない生活が続いた。学校では友達もできた。人からは怒りっぽいと言われるようになった。激昂して我を失うこともたびたび起きた。

 母親とはその後一度も会っていない。母親の頭の中からおれは完全に消去されているに違いない。おれ自身、あのときの気分をまた味わいたくない。思い出したくもない。



 だから見たくなかった。元気なときのジョン太郎だけで良かったのに。

「自分でやったくせに」

 彼女は繰り返した。

「……ジョン太郎を元に戻すことはできるのか?」

 床に散らばった血と肉のかけらを眺めながら、訊いた。期待はしていない。

「できるよ。またこうなっちゃうけど。戻す?」

「いや、いい」

 彼女の返事は全く予想通りだった。タケコプターの時に言っていた。おれの記憶から作ったと。どうやってかはわからないが、ジョン太郎もそうなのだろう。

「どうしてこんなものを見せたんだ」

「イサムが願ったから」

 相変わらずの回答の仕方だ。だが怒る気力もない。

「そうじゃなくて、なぜおれの記憶を、おれに見せるのかってこと」

「イサムが願ったから」

「おれが願った? いつ?」

「……」

 返事がない。彼女の方を見上げると、彼女も天井を見上げていた。


 また、声が聞こえてきた。前よりすこしだけ大きく、はっきりとしている。

「……は……んを………………た……は………………す……で……」

 聞き取ろうとしたが、無理だった。だが、誰かが別の誰かに向って話しているような雰囲気は感じ取れた。男の声だ。なぜかこの声が気になる。

「この声はなんなの?」

 天井を睨みつけている彼女に訊いてみた。

「……」

「この声がすると、お前いつも出て行っちゃうだろう。どうして?」

「……イサムが気にするから」

 どういうことだ?


「イサム、この声気になるんでしょ」

 彼女はおれに顔を向けて、少し不機嫌そうに言った。

 おれが僅かに頷くと、ほら、と言ってジョン太郎の亡骸を抱えたまま部屋から出て行った。扉はあっさりと開いた。後には真っ赤に染まった床とおれだけが残った。

 また、真っ暗になって、何もわからなくなった。


(第一章終了・次回(6話)から第二章)


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