第43話
今日は異動初日ということもあって、定時に退社できた。
さっさとアパートに戻ったはいいが、まだ七時にもなっておらず、妙に時間が余ってしまっている。
仕方なく、近所のコンビニまで出かけてビールとつまみを買うことにした。明日もまだそれほど忙しくないだろうし、今日は時間もあると思って、いつもより多めに買って帰った。
テレビを見るともなしに眺めながら、一時間で五〇〇ミリ缶を三本空けたが、酔いがやってこない。どうも落ち着かない。テレビにも集中できず、むしろ目の前で画面がちらつくのが邪魔に思えてイライラしてくる。
テレビを消してみたら別の場所に瞬間移動したかのように、一瞬にして部屋中が静寂に包まれた。だが、ここでおれがやることは食って飲むだけ。五分とこの静けさに耐えられなくなった。
他にすることが思いつかず、かといってじっとしてもいられない。たまらず飲みかけのビール缶を握りしめながら部屋の中をうろうろ歩き回った。
しかし、飲んだうえに動いたのが災いしたのか、体内に余計な熱がこもってしまう。
鼓動が早くなり、首から顔へ、手から足へと熱が伝導していく。かといって汗が吹き出るほどでもなく、そのままいつまでも熱い塊は沈殿し、吐き出すところのない怒りにも似た不快感に全身が支配された。
叫び、暴れだしたくなり、その衝動のままに行動する。
数秒後、目の前には破れて中身が飛び出た枕と、握り締めていた缶からこぼれたビールでびしょ濡れになったベッドが横たわっていた。
冷蔵庫から新たにビールを取り出し、座り込んで思いっきり食道に流し込む。
呼吸は荒く、いまだに体には熱が残り不快な刺激を発しているが、自らの破壊行動を目の当たりにして気が萎えてしまった。
昔からこういうことがよくあったような気がする。一度や二度ではない。まったくおれって奴は進歩がない。それも気に入らない。
ふと部屋の片隅に置いてあるCDラジカセが目に入り、何者かに操られるように自動的に体が動いてスイッチを押した。
スピーカーから流れてきたのは、いつだったか、誰かから借りたまま返さずじまいで終わってしまった、風変わりなジャズだった。
ハルミが二度目にこの部屋に来た時、偶然見つけたものだ。それまで一度も聴いた事のなかったCDのケースには大きなヒビが一本走っていた。試しにかけてみると、ハルミは「こういうの、嫌いじゃないわ」と言い、それ以来彼女がここにいる時だけ流れるBGMになった。
曲を聴いているうちに、熱さや苛立ちは少しずつ沈静されていった。入れ替わりに空しさや寂しさが降り積もってくるようだった。
このCDを聴くときはいつも側にハルミがいた。自然、ハルミの顔や声が脳裏に浮かぶ。しかし、今ここにハルミはいない。ここに再びハルミが来ることがあるのだろうか。一緒にこの曲を聴く日がやってくるのだろうか。
一体どうしてこんなことになったのか。
どうして異動になってしまったのだろう。
いろいろ考えをめぐらせても、行き着くところはそこになってしまう。
単なる偶然だろうか。おれが異動するのは遅いくらいだから、不自然ではない。でも不自然ではないからこそ、簡単に実施できるおれ達への仕打ちととらえることもできる。
そう、これがもし意図的に行なわれたとすれば、ある意味緊急事態と言える。いや、こうも見事におれ達の間に距離ができたことを考えれば、やはりこれはわざとやったに違いない。
しかし、どうしておれだけにこんな仕打ちをするのかがわからない。元々はハルミの離婚問題が発端のはずだ。おれだけとばっちりを受けて、当のハルミが平穏なのはいまいち納得できない。きっとハルミは、そこのところがよくわかってないのだ。
ここは一度しっかりと伝えて、現状を把握してもらう必要があるだろう。
そのうえで、慎重に対抗策を考える必要がある。おれ一人ではなく、二人でよく話し合って考える必要がある。だって、これは緊急事態なんだ。
思い切って携帯電話を手に取った。
ちりっ。
ん?
ちりちりっ。
なんだ?
耳の奥で火花がはじけたような音がする。
一瞬視界がぼやけて倒れそうになったが、すぐに元に戻った。少し酔ったのだろうか。
携帯の番号を押すと、ハルミはすぐに出た。
「相談したいことがあるんだ、今から来てくれないか」
時刻は八時半を少し過ぎたところだった。時間は充分あるのでそう切り出してみた。
『今日は無理。また今度にして』
ハルミは何故か囁くような小声だった。
「いきなり電話したのは悪いと思ってるよ。でもほら、いろいろと、いろいろあったじゃないか、だから一度会って話した方がいいだろうと思うんだ」
『うん、そうね、また今度ね』
「また今度じゃなくて、今必要だと思うんだ。だから会おうよ」
『……ごめん、今日はちょっとダメなのよ。また今度こっちから連絡するから――』
「なんでだめなんだよ」
ハルミは答えなかった。
「あのさ、ハルミはどうだか知らないけど、おれの方にはさ、最近いろいろ起きてるんだ。こままじゃまずいかもしれないだろ、だから今後のこととか――」
『ほんとごめん、もう切らないと』
「なんだよそれ。このところ会ってないし、話もしてくれないじゃないか、たまに連絡しようとしても相手してくれないし」
『……』
「もしかして、もう会いたくないのか? どうでもよくなった、そういうことなのか?」
返答のかわりに、携帯のスピーカーからはふーっとマイクに息を吹きかけたような音がした。向こうでハルミがため息をついたようだ。
その音はまるでおれに「呆れた」「面倒くさい」そう言っているように聞こえた。
「なんで何も言わないんだよ!」
『……バカね。じゃあ、そういうことだから、切るわね。また今度必ず連絡するから』
切れてしまった。
急いでリダイヤルした。しかしハルミは携帯の電源を切ったらしく、もうつながらなかった。
体の中心の奥底から、再び熱い塊が急速に膨張を始めた。
今度は耐えられないほど熱く、全身から水蒸気のような汗が一挙に吹き出してきた。
落ち着かないどころではない。不快を遥かに通り越して苦痛となって押し寄せる衝動に全身が身震いする。震えが止まらない。止めたくて全身の筋肉という筋肉に力を込める。力を込めた筋肉から、さらに熱が発生する。
気がつくと、窓に薄っすらと自分の姿が映し出されていた。
部屋の中でぽつんと立ち尽くし、両腕をわななかせて、充血した眼でおれを見返している。そこに立っているのは、一人の女に振り回されて、孤独と不安に苛まれた無力で滑稽な男の情けない姿だった。
こんな男の姿など見たくない。次の瞬間右手に握られていた携帯が窓を打ち砕いた。
女に振り回される男は嫌いだ。消えろ。
女に深入りしてろくな目にあったことがない。
今度は、いけると思ったのに。
……。
振り回されて、たまるか。
いいなりになんてならない。
おれは会いたいときに女と会って、抱きたいときに抱くんだ。
…………。
そうだ、会いに行こう。
まだ話さなきゃならないことがある。
ハルミは何も知らないんだ。おれが今、ハルミのためにこんなに苦労していることを。おれとハルミの仲を引き裂こうとする魔手がどれほど伸びていきているかを。
話せばハルミは驚いて、これまでの自分の非を認めて謝るだろう。おれを慰めてくれて、そしておれは不安から解放されるだろう。
それから二人で今後のことを話し合うんだ。きっと建設的な話になるし、ハルミはまた冷静に新しい対抗策を考えてくれるに違いない。
ハルミの現住所は聞いている。今はダンナとは別居中で、アパートを借りて独り暮らしをしている。
電車だと一旦都心まで出て乗り換えなけらばならず、ぐるっと遠回りすることになるので一時間以上かかるが、車で最短ルートを通れば四十分程度で着くはずだ。実際に行ったことはないが、大体の場所は見当がつきそうだった。
車のキーを握り締めて外に飛び出す。
エンジンを始動させながら、いきなり現れたおれを見て驚くハルミの顔を想像した。その顔は不機嫌な表情をしていた。
ハルミはそういう行いが嫌いだった。親しき仲にも礼儀あり、最低限のマナーは守ってほしいとよく言っていた。だが連絡しようにも、さっき携帯を壊してしまった。それに向こうも電源を切っているのだからもはや連絡の方法はない。
今回は許してもらおう。とにかくここまできたからには、会わなければ前には進めない。
(第44話につづく)




