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白い彼女  作者: おのゆーき
第六章 ユカ、その二
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第19話・前編

「イワイくん!」

「へ?」

 目の前の風景が飛ぶように流れていた。


「どうかした? やっぱりいらない?」

 隣から声がする。ここが電車の中で、おれは吊革に掴まって立っているのだと、ようやく気づいた。

「い、いや、なんでもないよ。ハル――」

「はる?」

 ユカが怪訝な顔でこちらを覗き込んでいる。

 あれ、ユカだ。何でユカがいるんだっけ。

「なに? はるって」

「いや、なにって言われても、えーと、なんでもない……」

 本当になんだろう、ハルって。勝手に口から出てた。

「で? やっぱ興味ない?」

「あーっと……、わりい、なんだっけ」

「聞いてないの? ちゃんと返事してたくせに。もしかして寝ぼけてる?」

「ごめん。もっかい」

 ユカに向かって右手でチョップするように謝り、次いで人差し指以外の指を折り曲げながら愛想笑いをする。


 寝ぼけていたわけではない。全然眠くないし。ただ一瞬ここではない、別の所に意識が飛んでいたような、いや、意識だけでなく、身体ごと別の場所にいて、そこから瞬間移動でもしてきたような気がしている。長くて暗いトンネルをくぐって、たった今ここに到着したという方がニュアンス的には合っているかもしれない。こんな感覚は初めてだ。自分でもよくわからないから、これをユカに説明しても上手く伝わらないだろう。「別のところって、どこ」と尋ねられたらもう答えられないし、「そういうのを寝ぼけてるっていうんだよ」と言われたらそれまでだ。ここは笑ってごまかすしかない。


「もう。イワイくんに言われたから持ってきたのに」

 小さい唇をとんがらせながら、ユカはバッグに手を突っ込み、一枚のCDを取り出した。

「はい、これ」と言っておれに手渡したそれには、『BILL BRUFORD'S Earthworks/DIG?』というタイトルが綴ってある。

「ちょっと前のやつだけど、それが今は一番気に入っているかな」

 昨日の夕方、ユカがいつも聴いている音楽の話題になり、流れで借りることになっていた。翌朝、早速ユカが持ってきたということか。モノクロで、煙か雲のような写真が、人の手の形に切り取られているようなデザインのジャケット。その雲の模様が手の平にごつごつしたデキモノがいっぱいあるようにも見える。思わず自分の手と見比べてしまうおれを、ユカは面白そうに眺めている。

「気に入ったら当分持ってて構わないよ」

「これって、やっぱりジャズなわけ?」

 ジャズなんてまともに聴いたことがない。まあ、渋い、みたいなイメージがあるだけ。

「うん。私もあんまり詳しくはないけど、コテコテな感じじゃないよ。ちょっと変則的かも。でもそれがかえって私には聴きやすいのかな」

「おれは音楽とか殆ど聴かないから、何が変則で何が王道かわからんけどね。とにかく借りとくわ」

 それほど興味があるわけでもなかったが、貸してくれるというのを無理に断わって気まずくなるのも面倒だし、素直に受け取った方が無難だ。こいつを聴くかどうかは怪しいものだが。



 ケイコに呼び出されて密談してから二ヶ月近く経つ。再びユカと気楽に話すようになるのに、それほど時間はかからなかった。このことで何かが変わった、という実感はない。ただ行き帰りの電車や校内でユカに会うことがあれば声をかけたりちょっと話をするようになっただけだ。


 朝の電車はだいたい毎日同じ時間に乗るから、自然と毎日のようにユカと顔をあわせることになる。いつの間にか、常に車内ではユカと一緒にいたケイコの姿が見えなくなった。ケイコは遅刻が多くなり、学校に来ないことも珍しくなくなった。ケイコが登校しない時は大抵コウイチも欠席している。おそらく二人で遊んでいるのだろう。

 おれはケイコに利用されたのかもしれないと思うこともある。ケイコはユカをおれに押し付けて、長い間背負ってきた重荷から解放されたのだ。それはそれで今のところ腹が立ったりはしていない。ユカと親しくなったことでの恩恵もある。苦手な古文のノートを貸してくれることだ。お陰で中間テストの結果は良好だった。


 たまに校内でケイコとコウイチの視線を感じることがある。まあ、それなりに気にはしているってことだろう。ユカもあの二人が付き合っていることは知っているようだが、あまり詳しくないらしい。一度その話題になった時、ユカは「うまくいくといいよね」と、短く笑っただけだった。口元は笑っているが、目は伏せたままで、少し寂しそうだった。親友でもあり恩人でもあるケイコと離れるのは嫌なのだろうが、自分がケイコにとって負担になっているということも、ユカ自身気づいているのだろう。

 それ以来、ケイコやコウイチの話題は避けるようにしている。何がきっかけでおれがユカの過去を知っているということがバレないとも限らない。別に付き合うとか、そういうつもりもないし、とりあえず今のままでいいはずだ。深入りすると面倒なことになりかねない。


     *


 帰宅してバッグを部屋の床に放り投げると、今朝ユカが貸してくれたCDが滑り出した。

 げげっ。ケースにヒビが入ってる。

 慌てて自分の財布の中身を確認する。足りない。仕方ないので台所に金を取りに行く。


 台所のカウンターに金属の菓子箱が置いてあり、中にはいつも十万前後の現金が入っている。父親がおれのために置いている生活費だ。そのうちでおれが完全に自由にできる、「小遣い」にあたるのは月に一万だけ。残りは原則として衣食住及び勉学に関わる必要経費であり、買い物をした分のレシートを全てこの箱に入れなければならない。それを怠ると、その分生活費が減らされてしまう。ただ、必要経費の基準は極めて曖昧で、レシートさえ入れておけば問題ない。以前この金でプレステを買ってレシートを入れておいても何も起きなかった。

 ある程度高額の物を買いたいときは、予め箱の中に欲しいものと金額を書いたメモを入れておく。承認されれば数日後、その分の金を箱の中に入れてくれる約束になっている。だが、おれはまだその「要求書」を書いたことがない。できるだけ父親には借りを作りたくないからだ。


 父親とは滅多に会うことがない。したがって話もしない。母親が家を出て行ってから、相互不干渉の生活が続いている。父親がいつ帰ってきているのか知らないし、父親もおれが家にいなくても気づかないだろう。父親とおれをつなぐ唯一の存在が、この菓子箱だ。中の金が減ると、父親は補充する。金が増えていることが父親の生きている証だ。


 今日は父親の生存を確認できた。昨日まで六万ちょっとだった金が、約十一万に増えていた。そこから万札を一枚だけ取り出して、駅前のCD屋に行った。借りたCDのケースを壊してしまった以上、新品を買って返すしかない。だが、どこを探しても同じアルバムは見つからなかった。


 だいたいCD屋なんて滅多に来ないし、ましてやジャズなんて買ったこともない。どこをどう探せば見つかるのか。店内のジャズコーナーは、「ピアノ」「サックス」「ギター」「ヴォーカル」といった分類で商品が並んでいるが、そもそもおれはあのアルバムをまだ聴いてないから、どんな楽器が使われているかも知らない。こんなことなら現物を持ってきて店員にでも訊くんだった。


「しゃーねえ、明日ユキノに謝って返すか――」

 棚の前でかがみ続けて痛くなった腰を伸ばしていると、とんとん、とおれの右肩が後ろから指でつつかれた。何事かと振り向くと――

 ぷにゅ。

 おれの頬に人差し指がめり込んだ。もちろん、おれの指ではない。そのままの姿勢で固まってしまう。

 頬を突き刺した指の主が、やや下方の視界に入る。少し赤らんだ顔を綻ばせて、もう片方の腕でバッグを前に抱えている。おれと同じ学校の制服だ。

「なにを謝るの?」

 ユカはおれの頬から指を離し、テレを隠すように小さく「こんばんは」とお辞儀した。


 一生の不覚だ。こんな使い古された悪戯に引っかかるとは。普通ならここで「なーにすんだよー」とか言って、じゃれたり笑ったりするのだろうが、そんな気にはなれない。途端に不愉快になった。

 ユカにからかわれた。よりによってこんな、男を怖がるような女にコケにされた。おれだって男なのに。

 目の前でみるみるうちにユカの表情がこわばった。

「ご、ごめんなさい」

 思い切り、今度は深々と頭を下げるユカ。おれはそんなに怖い顔をしていたのだろうか。

 ケイコの言葉が思い出された。


 ――あのユカが男の体に自分から触るなんてちょっとありえない。


 そうか、そういうことか。

「いや、いいよ。ちょっと驚いただけだから――こっちこそごめん」

 男が怖いユカにとっては、今の悪戯にも、すごい勇気が必要だったに違いない。ユカはユカなりに努力しているということだ。ここでおれが怒って、ユカに後悔させたら症状が悪化するかもしれない。まったくもって面倒だが、おれのせいでユカがおかしくなった、とケイコに軽蔑されるのは嫌だ。

 なんとかユカをなだめ、ついでにケースを割ってしまったことも打ち明けた。

 ユカは笑って許してくれた。というより全く気にならないらしい。CDなんて要は音が出ればいいという考えの持ち主らしく、この場合、おれは救われた思いがした。


 とりあえず買い物は不要となったからにはここにはもう用はない。さっさと帰ってしまいたいが、ユカが目の前にいる。あと二言三言会話して、流れで解散したいところだが、何を話していいかわからない。ユカの方もどうやら話題を探しているようで、二人で黙って向き合ったまま、店内のBGMだけがやたらと耳に入り込んでくる。

「……この店にはよく来るの?」

 沈黙を破ったのはユカだった。どうでもいい質問だが、このまま突っ立っているよりは遥かにましだと思う。おれは小さく首を左右に振りながら応えたが、おれにとっては本当にしょうもない質問だった。

「おれ音楽とかほとんど聴かないって言っただろ。だから全然来ないよ。他にあまり店知らないから」

「そうなんだ」

 そこで会話が止まってしまう。だってしょうがない。本当のことだし。

 再びユカは話題を探し始める。どうやらこのコは考え事をする時、視線を落として眼球を左右に往復させるらしい。おれは考え事をする時は、上の、やや左上の方向になんとなく視線がいく。今、そのことを発見した。

「……ユキノはどうしてここにいるの?」

 ひとつ質問が浮かんだので口にした。よく考えてみると、ユカの家は隣の駅が最寄りのはずだ。

「通学のルートだとここが一番品物揃ってるから、学校帰りによく寄るの」

「でも、貸してくれたやつは置いてないみたいだね」

「たぶん置いてないと思う。横浜とか行って、かなり大きい店じゃないとなかなか見つからないかも。でも、一応探してみよっか。あ、別に見つけても買わなくていいからね」

「このあたりはだいぶ探したけど、ないみたいだったよ」

「あっちにあるかも」

 ユカがROCK&POPSと表示されているコーナーを指差した。

「え? ジャズじゃないの?」

「そうなんだけど、もともとロックのドラマーだった人が作ったジャズユニットだから、あっちに置いてあることが結構多いの」

 そういうものなのか。いろいろ複雑な事情があるものだ。


 早速ユカはあちこち探し始めた。おれも所在無いので手伝うことにした。洋楽コーナーはアーチスト名五十音順に並べられている。

「洋楽なんて聴かないから見たことなかったけど、外人のやつもアイウエオ順なんだな」

 なんとなく、そんな感想がこぼれ出た。欧米のミュージシャンなら、アルファベット順に並べる方が自然な気がする。

「ABC順に並べてる店もあるよ。私はその方が好き」

 二人でタイトルを探す。気づくとかなり近くで顔を並べている。ユカの呼吸音がよく聞こえる。少し横に視線を移したら横顔がどアップで入り込んできて、慌てて前を向いた。

 何故か顔に熱を感じた。


 何箇所にもわたって丹念に探したが、結局目当ての品物は見つからなかった。

「……やっぱりないみたいね」

 ユカはおれの方を向いて言い、おれは頷いて応えた。そのあとまた沈黙状態となったが、ユカは視線を落とさないし、おれも左上を見ない。焦って話題を探そうという気持ちも起きてこない。先程までの緊張感が嘘のようだった。

「じゃあ、ケースにヒビが入ったままで返させてもらうよ。でもそのままじゃ申し訳ないから、何か他のCDで欲しいのあったら、埋め合わせに一枚買わせてよ」

「えー、いいよいいよー別に」

 ユカは驚いて右手を激しく振った。

「いいから」

「今は特に欲しいのないし……」

「今じゃなくてもいいし」

「……わかった。それじゃ一枚予約ね。欲しいの考えておく」

 とりあえずこんなもんだろう。もう帰ってもよさそうだ。

「んじゃ、そろそろ帰――」

「あの、それでねえ……」

 まだ何かあるのか。内心僅かにイラっときたが、面に出すわけにはいかない。

「なに?」

「えーっとね、話は変わるんだけどね……」

 話題が変わったことはユカを見てすぐに気づいた。急に言いづらそうな態度をとり、目線を下げて瞳がきょろきょろと動き出している。若干、顔が赤みを帯びている。

「なに? 急ぎの用?」なかなか続きを喋らないので、こっちが焦れてきた。

「いや、別に明日でもいいんだけど……でも、明日に時間がとれるかわからないし……」

「長い話なの? おれ腹減ってきてんだけど」

「あ……じゃ、何か食べよ。食べながら話そ」

「…………」

「……だめ、ですか?」


 ユカはすっかり小さくなってしまったように見えて、思わず溜息がでてしまったが、結局近くのファミレスに向かうことになった。

 カレーフェアをやっていたので、二人ともカレーセットを注文し、あらかた食べ終わって、食後のコーヒーが来るまでの間、ひりひりした喉を水で癒していると、ユカがようやく話を始めた。


(第19話・後編につづく)


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