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白い彼女  作者: おのゆーき
第三章 ユカ
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第11話

 高一の夏休み、部活に行くため電車に乗ると、同じ車両にユカが乗っていた。

 同じ部のユキノって人だ。同じ電車だったんだ、となんとなく思った。ユカは耳にイヤホンを付け、吊革に掴まっていた。朝の通勤ラッシュで混んでいたので、おれはドアの脇に立った。

 その後特に気にすることもなく、二~三個駅を過ぎる間、おれは窓の外の流れる風景をぼんやりと眺めていた。それにも飽きてきて、何の気なしに車内に視線を移すと、ユカのところで止まった。様子が明らかにおかしい。顔中真っ赤で、今にも泣き出しそうだった。


 ユカの右手は吊革を握っている。左手は自分の腰から尻の辺りにまわし、しきりに動かしている。そのすぐ後ろには同じように顔を真っ赤にした中年の男が半目開きでユカの後頭部を見下ろしていた。時折、その男の鼻息がユカの耳にかかっている髪を揺らした。


 痴漢だ。初めて現場を見た。ユカから視線が離れなくなった。


 正直なところおれは興味津々だった。ユカを助けてやろうとか、そういう考えは浮かばなかった。実際そのときおれとユカは二メートル以上は離れていて、混んでいたので近くに行くこともできない。ここから声を掛けるのも勇気がいるし、やっかいごとには巻き込まれたくなかった。だいたい迷惑なら本人が「やめろ」とか「痴漢だ」って声に出して言えばいいことだ。


 ユカが触られるのを嫌がって体を微かに捩るのを見て、おれは勃起していた。きっとあのエロオヤジも勃ってるんだろう。もしかしたら片手でシコりながら触ってんのかもな――そう思うとあの男が哀れに見えた。と同時に、今興奮しているおれ自身もあの男と同類かと思うと、僅かな嫌悪と嘲笑が、そして自分とは違い、己の欲望のままに行動できる彼の勇気に拍手してやりたいという気持ちがごちゃ混ぜになって湧いてきた。そんな時はこう自分に言い聞かせる。「男なんてみんな同じ」だって。

 このまま目的の駅に着き、知らんふりして降りてしまえば「ええもん見させてもらった」で済むはずだった。だが、事態は思わぬ方向に展開した。


 ユカがおれに気づいてしまった。おれがユカを知っているように、ユカもおれを知っていることは疑いない。同じ学校の制服着てるし、しかも同じ部の部員だ。すぐに見つかってしまうのは当然と言えば当然だった。

 ユカはとても恥ずかしそうだった。まあ、あまり見られたくない光景であることは理解できる。しかし、いつまでたってもオヤジの痴漢行為が終わらないので、次第におれに向かってしきりに何かを訴えるような形相になってきた。

『たすけて』

 ユカの口がそう動いたように見えた。


 改めてユカの周囲を見ると、不運なことに中年の男ばかりだった。そして周囲の男たちの殆どが、とっくに痴漢に気づいている。気づいていながら知らんふりして、チラチラとユカの顔と体を盗み見している奴ばかりだった。ユカは目で集団レイプされているようなものだ。

 さすがにちょっと可哀相になってきた。

 それにユカはおれに気づいている。このままやり過ごしたら、かなり恨まれるだろうし、後々、女子の間で変な噂がたつとも限らない。だが勘弁してほしいというのが本音だ。余計なトラブルは御免だし、どうやったら助けられるかもわからない。


「次は~上大岡~。上大岡~。お出口は……」

 車内アナウンスが響き、電車が減速し始めた。咄嗟にこれだ、と思った。

 まだ目的の駅に着いたわけではないが、この際しょうがない。おれはポケットに突っ込んでいた右手を出し、親指でドアの方向を指して、ユカに降りるように促した。

 ユカは小さく頷き、素早く網棚のバッグを取ってかなり強引に人ごみを掻き分け、おれのいるそばのドアの方に移動してきた。

 周囲の男どもは慌ててユカから視線を外し、何事もなかったように振舞っている。いきなり寝たふりする奴もいた。電車は駅に着き、ドアが開く。だがユカは乗客に阻まれてなかなかドアまでたどり着けない。出口まであと一メートルもない距離まで来たところで、新たに乗車してきた人の流れがユカをもとの方向に押し流し始めた。


 小さな舌打ちが自分の口から漏れた。「降ります」くらい言えよな。

 ちょっと迷ったが、ユカに向かって右手を差し出した。咄嗟にユカの右手が掴んでくる。握手したような格好のまま、おれは人の流れに逆らい、飛び降りるように電車から降りた。一瞬、手がちぎれるのではないか、と思うくらい無理矢理ユカを引っ張った。


 ユカはすぐ前にあるベンチに座って俯いた。肩で息をしている。

 発車のメロディが構内に流れ、後ろを振り向くと、ちょうどドアが閉まるところだった。さっきまでユカのいた辺りが窓越しに見える。ユカの握っていた吊革に、あの痴漢の腕がぶら下がっている。その男とその周囲の数人の男たちの視線は、今もユカに注がれていた。訳もなく怒りが込み上げてきて、思いっきり痴漢男にガンを飛ばした。男も睨み返してきた。そのまま電車は動き出し、お互い見えなくなるまで睨み合いが続いた。この時だけは思った。「おれはあんたとはちがう」と。



 ユカはびーびー泣き出してしまった。これではまるでおれが泣かしたみたいじゃないか。周囲の視線を感じながら途方にくれる。

 こいつはきっと面倒な女だ。高校に入ってようやく人並みに友達ができたおれは、今まで母親以外の女とあまり口をきいたことがない。だが、映画やドラマでは、男に振り回されたりすぐ泣いたり、男に頼ってばかりの女を見ると腹が立った。目の前のこいつも痴漢に抵抗できず、おれに頼り、今は泣いている。腹は立たないが、いかにも面倒くさそうに思えた。


 次の電車がホームに入ってきた。通勤時間なので、電車は数分おきにやってくる。ユカはまだ泣いている。無視して乗ろうか、との思いが過るが、どうも放っておけない。痴漢を撃退はしなかったが、とりあえず助けてやるというか、逃げ出すきっかけは作ってやった。ちょっとした英雄行為ではないか。それが自分自身、誇らしげであり、その余韻に浸りたいという気持ちもあった。しかしあまりここで長居すると部活に遅れてしまう。


「えっと、ユキノ……さん、だったよね。大丈夫?」

 初めてユカに話しかけた。とても緊張したのを覚えている。おれにとっては初めて女性に話かけたのと同義だった。

 ユカはハンカチで涙を拭きながら、頷いた。もう泣き声はしないが、涙は止まっていないらしい。

「あ……ありらろお」

 ありがとう、と言っているらしい。上手く喋れないうえに、鼻もぐずぐずしてる。

「ああ、別に、なにもしてないけど」

 とりあえず謙遜してみた。ユカは鼻をすすりながら首を横に振った。

「あのさ、そろそろ行かないと、部活間に合わないよ」

「いい。ごめん。さきにいってて」

 そんなこと言われたらよけい行けないじゃんか。まったく。


 これは少し時間がかかるな――そう判断してユカの隣に腰掛けた。

「あの、変なこと訊くけど、痴漢にあったの初めて?」

 何の返事もない。だが少し落ち着いてきたようで、ようやく顔も起こし、おれの方を見た。目と鼻が真っ赤だった。その濡れた瞳を見た途端、鼓動が波打ったような気がした。自分自身、何が起きたかわからないが、顔が熱くなり、ユカを正視できなくなった。

「あ、あ~っと、あのね、余計なお世話かもしれないけど――」

 黙っていることもできず、正面を向いたまま無理やり喋った。全身ががちがちに硬くなっている。

「――はっきり言ったほうがいいよ。大声で『痴漢だー』とか」

「わかってる」

 ユカは頷きながら言った。

「わかってるんなら――」

「そうしようとしたの」

「え?」

「そうしようとしてね、最初あいつがお尻触ってきたとき、あいつの手つかまえてやろうって思ったの。勇気出さなきゃって。そしたらね、逆にあいつが私の手を掴んできて」

 思い出したのか、また涙が溢れ出したみたいだ。ひどい鼻声になってきた。

「それでね」

「うん」

「あいつ、言ったの」

「何を?」

「『こっち向いてみろよ』って」


 確かに、それはちょっと怖いか、っていうより、やばいっていう感じの方が合ってるかもしれない。

「でね、ずっと手首掴まれてて――」

 無意識のうちにユカの左手首に目をやる。そこには赤く、痴漢に握られた痕がくっきりと残っていた。体を捩っていたのは、やつの手を振りほどこうとしていたからか。

 急に罪悪感でいっぱいになった。おれはそんなユカを見て欲情し、目が合っても無視しようとした。最低だ。

「もう怖くって、腰抜けそうで……」

 とうとうまた泣き出してしまった。

「そしたらね、イワイくんらいて、目が合って、おれらい、きづいてって、そしたら出ようってやってくれらでしょ。らから、必死になってろあのほうににれようろしら」

「も、もういいよ」

 何を言っているかわからん。

「ありらろお」

 またありがとう、と言っているらしい。

「別に、何もしてないよ。ユキノさん自分でちゃんと逃げたんだし」

「れもいわいるんろおかれれうろれら――」

「いいよ喋んないで。礼なんかいらないし」

 礼を言われる筋合いではない。おれもあの痴漢と同じなんだから。こうして泣くのにつきあっているのは、せめてもの罪滅ぼしだ。大目に見てもらって、これでチャラってことに。だから礼はいらない。


 突然隣で轟音が鳴り響いた。見ると、ユカが鼻をかんでいる。

 ちょっと変わってるな、と思った。今時痴漢でこんなに泣くというのもたぶん珍しいし、人前でこんなに豪快に鼻をかむ女ってのも珍しい。

 ユカのハンカチは涙と鼻水でベトベトになってしまった。しょうがないので、おれのハンカチを貸してあげた。何日もポケットに入れっぱなしだったやつだけど、構わないだろう。

「ありがとう」今度は聞き取れた。

 ユカは残りの涙と鼻水をおれのハンカチでふき取りながら「これ、ちょっとだけ臭い」と呟いた。

「三日目だ」と短く答えた。ユカは「なるほど、納得」と言って、また豪快におれのハンカチで鼻をかんだ。

 何故か可笑しくて、笑った。ユカもつられて笑った。まだ少し鼻声だった。



「イワイくんの声って、やさしいね」

 どうやら泣き止んだと思ったら、急に話題を変えてきた。こういうのには慣れていない。やさしいなんて初めて言われた。また心臓がドキドキしだした。

「そうかなあ、そんなことないと思うよ。皆からは怒りっぽいって言われるよ」

 できるだけ平静を装って答える。ユカがこちらを見ているのがわかるが、それが妙に気になりかえって顔を合わせることができない。

「あ、そうじゃなくて。ていうか、イワイくんと話したの今が初めてでしょ。だから性格がやさしいとか怒りっぽいとかは、よくわかんない。でもやさしい声だなって思った」

 やさしい声ってどんな声だろう。手が暖かい人は心が冷たいって聞いた事があるけど、声と性格は関係あるのかな。

「なんていうか、聞いてると落ち着くっていうか、そんな感じがする」

「そうかなあ」

 どう返していいかわからなかった。


 気がつくと、駅の構内が空いてきている。空を見ると太陽もかなり高いところまで昇っている。今日は比較的涼しい朝だったが、いつの間にかいつもと変わらない七月の熱気に包まれて、全身が汗ばんできた。

 結局部活にはおよそ一時間の遅刻となった。しかもユカと二人並んでの到着。

 先輩にはこっぴどく叱られ、おれとユカはたちまち噂になってしまった。



 夏休みの部活はそれから一週間続いた。その間、再び痴漢にあわないよう、電車は乗る車両を変え、おれはユカの隣に立って周囲を警戒した。一つ前の駅から乗ってくるユカはいつもイヤホンをして音楽を聴いていた。おれが乗るのを見つけるとイヤホンを外し、話しかけてくるようになった。帰りも可能な限り一緒に帰った。あの痴漢男には二度と会うことがなかった。部内での冷やかしはエスカレートしたが、ユカは全く気にしていない様子。存外肝が据わっていることに驚いた。


 部活期間が終われば、夏休みは完全に自由になる。その間ユカとは一度も会うことがなく、再会したのは二学期が始まってからだった。


(第12話につづく)


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