昔の、記憶
視界いっぱいに広がったのは、鮮やかすぎるほどに美しい夕焼け空。
それを遮るように、黒い人影が佇んでいた。
これは、記憶
そんな言葉が、ふと浮かんで弾けた。
一度そう思ってしまうとそれ以外は考えられず、自分の意志とは関係なく下がった視線の先に見えた両の手で、それが間違っていないことを知った。
小さくて、傷一つ見つからない、細い指。重いものや水仕事を知らない、真綿で包まれて生きてきたことを知らせる指だった。今の見慣れた骨太のものと同じとは到底思えない。
その手は、強く握りしめられていた。
『私』が、何歳の時の記憶なの?
そう、ぼんやりと思ったときだった。
「イリス」
少年から大人へと変わりつつある声が、私の名前を呼んだ。
「っ……!」
当時の『私』と、内にいる私の両方が震えた。
どくん、と鳴り響く心臓がうるさい。
顔をあげたいのに、動いてくれない身体に悪態をついた。
もう一度『私』を呼ぶ声が聞こえて、足音が近づいてくる。それは目の前で止まると、ふわりと『私』を抱きしめた。
「勝手に決めちゃって、ごめんね。でも、こうするしかなかったんだ」
「――どう、して……!? なんで兄さんが行かなきゃいけないの……!?」
震える声で『私』は叫び、兄さんの身体に強く抱きついた。
「兄さんは人を殺したくないって、言ってたのに! それなのに、どうして人を殺さなきゃいけないの!?」
「それはね、イリス。俺しかいないからだよ」
兄さんは『私』を押す様に離すと、視線を合わせた。
悲しく笑っている兄さんに、私の胸が締め付けるような痛みに襲われた。
兄さんは『私』の髪を梳きながら続けた。
「俺は人の動作を見て、次の動きを予測することに長けている。それが意味することは、分かるよね? 相手の動きがわかれば、攻撃も、防御も、とても有利になるんだ。もちろんこれだけじゃ駄目だけど、武器を扱えるようになれば、とても強くなれる」
「……でも」
「ん?」
「人、殺したくないのに、殺すんでしょ……?」
『私』の漏らした声に、まあね、と肯定し、でも、と否定した。
「それでも俺は、大切な人を助けたいから。何十、何百の他人を犠牲にしても、たった一人のイリスを護ってあげたい。イリスが笑ってくれるなら、どれほどの人間を殺すことも、厭わないよ」
それは傍から聞いただけだったならば、あまりにも恐ろしい言葉だった。
もし世界がイリスを排除しようとしたのなら、迷うことなく牙を剥く。それほどの重すぎる、歪んだ愛情。
けれど、目の前の兄さんから伝わってくるのは『自分の妹を幸せにしたい』という優しいもの。
兄さんはもう一度『私』を抱きしめると、耳元で囁いた。
「だから、イリスは俺の後を追ってはいけないよ」
「な、んで」
「やっぱり来ようとしてたのか」
鎌かけただけなんだけど、と兄さんは苦笑いした。
『私』は無理矢理顔をあげると、兄さんと強く視線を絡めた。
「どうして、追ったらいけないの」
「イリスに、幸せになってもらいたいから」
兄さんは、今までとは比べ物にならないほど強い力で『私』を抱きしめる。そして、『私』の稲穂色の髪に顔を埋めると、喉の奥から縋るような声を吐き出した。
「今までのように毎日を生きて、好きな人ができたら結婚して、家庭を持って。そして、子供や孫と穏やかな暮らしをする。そんな幸せを、持ってもらいたいから。俺を追っても、イリスは幸せになれない。だから、追わないで」
「……」
「イリスは幸せになるべきなんだ。俺の、ロゼッタ・フルーミルの分も、幸せに」
「私だけなんて、そんなのっ……!?」
いやだ、と続けられるはずだった声は宙に溶け、急速に迫りくる闇に飲まれた。