第三十六話 恋人なら、ここでキスして!
「誰だ?」
「えっと、……ごめん、なまこ。ちょっと、この人と話があるから、ここで」
「えっ、そうか?」
「うん、さよなら」
「ああ、じゃあな!」
なまこは、不審そうな顔をしながらも、改札を入って行った。
なまこの姿が見えなくなると、里香さんが私に近づいて来た。
近くで見ると、本当に綺麗だ。
「ごめんね、突然」
「い、いえ」
「こんな所で立ち話も何だから、どこかで座って話をしない?」
「えっと、何の話でしょう?」
「琥太郎から聞いてない? 私のこと」
「……少しは」
「その話よ。あなたにも関係あるんじゃない?」
「……分かりました。話を聞きましょう」
先に歩き出した里香さんについて駅を出て行くと、里香さんは、図らずも、トトールコーヒーに入って行った。
カウンターの中にいたくらちゃんも、見知らぬ人と一緒の私に話し掛けてはこなかったけど、目で「誰?」と問うていた。
注文した飲み物をそれぞれ持って、二人掛けのテーブルに向かい合って座った。
「今、カウンターの中にいた女性はお知り合い?」
「同級生です」
「そうなの。綺麗な人ね。あの人が琥太郎の相手なら、私も納得したのに」
「どう言う意味ですか?」
「そう言う意味よ。琥太郎の相手には、あなたは相応しくないって思ってるの」
「余計なお世話です」
「そうね。琥太郎が誰を好きになるか、それは琥太郎の勝手だしね。でも、なぜ、あなたなのかが疑問なの」
「それは、私もそう思ってます」
「ふ、ふふふふ。面白い人ね」
「どうも」
里香さんは、入院していたはずだ。
さり気なく、里香さんの手首を見てみると、長袖の制服の下に、包帯が巻かれているのが見えた。
でも、目の前の里香さんは、顔色も良いし、目も落ち着いている。
先日、バウムクーヘン屋さんで会った時と同じく、凜とした態度で、私を見つめていた。
「里香さん」
「何かしら?」
「私は、喜多君からしか話を聞いてないから、あなたのことは、喜多君の言葉を通してのみでしか知りません」
「たぶん、間違ってないわ。琥太郎は、人のことを酷く言うような人じゃないから」
「喜多君を信頼しているんですね?」
「ええ」
「でも、そんな信頼している喜多君に、あなたの方から別れを切り出したのでしょ?」
「ええ」
「アニメやラノベが好きだという喜多君のことが嫌いになったの?」
「嫌いになったというより、理解できなかった。アニメやラノベの、どこが良いのか?」
「里香さんは、小さい頃、アニメは見なかった?」
「もちろん見たわよ。『二人はプリンキュア』とか『美少女戦隊ラビットムーン』とか大好きだったわ」
「私もです」
「でも、それは、小学生だったからでしょ。そう言う年齢向けのアニメなんだから。中学生になってまで、そんなアニメを見たり、エッチなシーンしか出て来ない深夜アニメなんかを見ているのって、やっぱり、おかしいわ!」
「深夜アニメに、エッチなシーンが多いって、知っているんだ?」
「琥太郎が好きだって言った深夜アニメを見てみたわ。何これって思ったけど!」
里香さんは、アニメやラノベを嫌悪している気持ちごと、吐き捨てるように言った。
「里香さんの趣味は何?」
「テニスやスキーとか。スイミングクラブで泳ぐのも好き」
「スポーツウーマンなんだ」
「読書も好き。海外の文学作品が多いかな。音楽なら、クラシックが好きよ」
絵に描いたようなお嬢様だ。
「やっぱり、喜多君とは、全然、趣味が合わないんじゃない?」
「きっと、琥太郎の友達が悪いのよ」
「えっ?」
「琥太郎のお母様とも、お話をさせていただいたことがあるわ。お母様の趣味は、私と同じだった。でも、中学の二年生頃から、琥太郎は、アニメやラノベにのめり込んでいったらしいの。たぶん、その時の友達が琥太郎を変な道に誘い込んだのよ」
「……」
「私は、琥太郎を真っ当な道に戻してあげたいの! 助けてあげたいの!」
同じKYでも、なまこは、喜多君の好きなことを、自分が好きになろうとした。
でも、里香さんは、自分が常に正解だと信じていて、好きな人に自分を合わそうとせずに、無理にでも、好きな人を自分に合わそうとする人なんだ。
「あなたもアニメやラノベが好きなんでしょ?」
「ええ、大好きよ」
「じゃあ、琥太郎は? 琥太郎のことは好きなの?」
「そ、それは……」
「好きじゃないの? 琥太郎は、あなたのこと、まだ、彼女じゃないって言ってたけど、きっと、あなたのことが好きなんでしょうね。じゃあ、あなたは?」
「……」
「琥太郎の片想いかあ。恋人同士じゃないのなら、私が、また、琥太郎と寄りを戻しても、あなたには、全然、関係の無いことよね?」
「……」
「私、琥太郎を助けるから! 琥太郎が嫌って言っても、それが琥太郎のためになるんだから!」
「……そんなの自分勝手すぎる」
「えっ?」
「喜多君が望んでもいないことを、喜多君が嫌だって言ってることを、どうして、あなたはするの?」
「同じことを言わせないで! 言ったでしょ! 琥太郎は今、自分を見失っているの! それを取り戻してあげるの!」
「里香さん。それは、……そうなれば、喜多君があなたの元に戻ってくれるって思ってるから?」
「そうよ! 誰にも邪魔なんかさせないわ!」
里香さんのこの確固たる信念は、私がいくら言っても崩れることはないような気がした。
でも、どうしても言っておくべきことがある。
「私は、邪魔をするわ!」
「どうして? あなたには関係の無いことでしょ? だって、あなたは琥太郎の彼女でも何でもない、只の同級生なんでしょ? 私と琥太郎とのことに口出ししないでちょうだい!」
「口出しするわ! だって、私は、……私は、喜多君のことが好きだから!」
「嘘よ! さっきまで何にも言わなかったじゃない? 急に好きになったの? 都合が良いのね」
「ううん! 今まで、よく分からなかったのよ! でも、あなたから喜多君を守ってあげたいって思った。どうしてかなって考えたら、それは、喜多君のことが好きだからって、今、気づいたのよ」
「ふ~ん。本当かな?」
里香さんは、鞄から携帯電話を取り出すと、誰かに電話を掛けた。
相手は、すぐに出たようだ。
「もしもし、琥太郎?」
「……!」
「今、池梟駅前のトトールコーヒーに河合さんと一緒にいるの。琥太郎にも確認したいことがあるから、すぐに来てくれる? そうね、西口公園で待ってるわ」
里香さんは、挑発的な笑顔を見せると、電話を切った。
「まだ、学校にいるらしいけど、すぐに来るって」
そうだ。喜多君は、谷君に宣戦布告をしてくると言って、学校に戻っていたんだった。
「行きましょう」
先に席を立った里香さんが後ろを見ることなく、トトールコーヒーから出て行った。
私が、コーヒーカップを返す時に、くらちゃんが心配そうな顔をして話し掛けてくれた。
「かすみん、何だかよく分からないですけど、大丈夫なんですか?」
「どうして?」
「あの女の人、目がちょっと怖いです。かすみんが心配です」
「……大丈夫だよ。ありがとう、くらちゃん」
トトールコーヒーから出て、駅を回り込むようにして歩いて行くと、西口公園に着いた。
全面にタイルが敷き詰められていて、広い間隔を開けて樹木が植えられている都市公園で、その中心にある丸い池では、噴水が勢いよく吹き出していた。
公園には多くの人がいたけど、広い園内に、適度にばらけて、たむろしていた。
私と里香さんが、噴水の近くに行くと、そんなに待たずに、喜多君が走ってやって来た。
「里香! 何をしてるんだ? 河合さんは関係無いだろ!」
喜多君は息を整えることもせず、里香さんに迫った。
「関係無くはないわよ。だって、この子、琥太郎のことが好きなんですって」
「えっ?」
「さっき、自分で言ったわよ。琥太郎のことが好きだって」
「河合さん?」
「……」
「あらぁ? さっきの台詞は、やっぱり方便だったの? 本人を目の前にしたら言えないなんて」
「……」
「嘘吐き! アニメとか見てるから、妄想と現実がごちゃ混ぜになってるのよ!」
「……嘘じゃない」
「えっ?」
「嘘じゃないって言ってるだろ!」
「河合さん」
「私は、……私は、喜多君が、……喜多琥太郎君が好きだ!」
「本当に? そしたら相思相愛じゃない? でも、嘘っぽい。私を騙そうとしてるんでしょ、きっと」
「違う! 私は、本当に喜多琥太郎君が好きなんだー!」
「だったら!」
里香さんが、意地悪そうな顔をして、私と喜多君の顔を見渡した。
「ここでキスして」
「えっ?」
「里香! 何を言ってるんだ!」
「できないの? やっぱり、嘘なんでしょ?」
「こんな大勢、人がいる場所でできる訳無いだろ! 常識的に考えろ!」
喜多君が本気で怒っていた。
「恋人同士なら、できるんじゃないの?」
「里香! お前は!」
「琥太郎!」
里香さんに掴みかかろうとした喜多君を、知らず知らず、そう呼んでいた。
「えっ?」
「琥太郎」
「河合さん?」
――琥太郎を守りたい!
「良いよ」
「……」
「キスしよう」
「河合さん」
「琥太郎は、私のこと、好きって言ってくれたよね?」
「あ、ああ」
「気持ちは変わってない?」
「もちろんだよ! 逆に、もっと想いは募っている!」
「私も琥太郎のことが好き」
「……」
「気づいていたんだ。ずっと前から」
「……」
「でも、自分が絵を描くことを止めてしまうことが怖くて、……恥ずかしくて、照れくさくて、どうしたらいいのか分からなくて、……ずっと、考えないようにしてた」
「……」
「だけど、琥太郎が、……アニメやラノベの話をいっぱいしてくれる琥太郎がいなくなるのは絶対嫌だ!」
「河合さん」
「琥太郎は、私が絵を描くことを許してくれて、邪魔はしないって言ってくれた。私の大切なものを守ろうとしてくれた」
「……」
「確かに、絵を描くことは、私の大切なことだ。でも、琥太郎はもっと大切なんだ! 私は、私の大切な琥太郎を守る!」
「河合さん」
「香澄で良い。里香さんと同じように。そう呼びたかったんだろ?」
「……香澄。後悔しない?」
「しない。する訳が無い! 里香さんに、私達の仲の良いところを見せつけてやろうよ!」
「……分かった」
喜多君は、ゆっくりと私の前に立つと、私の両肩を優しく抱いた。
「本当に良いの?」
「もう、訊くな!」
私は、喜多君の顔を見ることができずに、真っ直ぐ前を向き、喜多君の胸を見つめていた。
「香澄。好きだ」
「私も……好き」
喜多君の顔が、ゆっくりと私の顔に近づいて来た。
思わず目を閉じた私は、唇に柔らかい何かが触れたことを感じた。
――初キスはレモンの味って本当だった。
唇に触れていたものはすぐに離れた。
恐る恐る目を開けると、近くに喜多君の顔があった。
「ありがとう、香澄」
「お礼なんか言うな!」
喜多君は、くすりと笑うと、私の手を握って、里香さんの方に向いた。
「里香! 見ての通りだ。僕には、もう香澄がいるんだ! だから里香は、……ちゃんと病院に戻るんだ」
里香さんは、呆然と立ち尽くしていた。
私達の方に小走りにやって来ている男性が視界に入った。
「喜多君!」
「こんにちは」
「迷惑を掛けて済まない」
「い、いえ」
「さあ、里香! 病院に帰ろう」
「……」
里香さんは、抵抗もせずに大人しく男性について行った。
公園に面した道路に待たせていたタクシーに、里香さんを乗り込ませると、男性が、また、小走りに近づいて来た。
「喜多君、連絡をありがとう」
「いえ」
「そちらは?」
「僕の……彼女です」
「そうか。後日、改めて、お母さんにもご挨拶に伺うよ。今日は、申し訳ないけど、これで」
「はい。さよなら」
「うん。それじゃあ」
忙しなく、男性がタクシーに戻ると、タクシーは走り去った。
「琥太郎、今のは?」
「里香のお兄さんだよ」
「里香さんの?」
「うん。さっき、里香から電話があった時、僕からお兄さんに連絡したんだ。まだ、里香は入院していたはずだと思ってね」
「そうなんだ」
「お兄さんが病院に確認したら、病院を抜け出していたらしい」
「そう。……私のことはどうして?」
「あのバウムクーヘン屋さんで会った時に、僕の気持ちが香澄にあることを感じ取ったんだろうね。あの時、香澄のことを同級生って言ったから、どうにかして調べたんだろう」
「……」
「里香とちゃんと話すように、香澄からも言われていたから、退院したら知らせてもらうようにしてたんだけど、その前に里香の方から来ちゃったね」
「話は、これからだってできるよ」
「そうだね。責任は果たさないといけないよね」
「責任?」
「別れを切り出したのは、里香の方だったけど、そうさせたのは自分だったんだろうなって思うし、その後、時間は開いているけど、里香が精神的に追い詰められた責任の何分のいくつかは、やっぱり、僕にあるんじゃないかって思う」
「……琥太郎」
「うん?」
「琥太郎がその責任を負うつもりなら、私も一緒に負うよ」
「えっ?」
「だって、目の前で、キスしちゃったし……」
「ふ、ふふふふ。やっぱり、香澄は素敵な人だ。僕の目は、確かだった」
「……って、いつまで、香澄って呼んでるんだよ!」
「えっ、香澄だって琥太郎って呼んだじゃない。それって、時間限定だったの?」
「……仕方無い。許してやる」
「良かった」
「琥太郎?」
「うん?」
「レモン風味のガムって、……す、好きなの?」
「えっ、どうして?」
「……何でもない!」




