第三十一話 守られなかった約束
そして、日曜日になった。
前夜、早くベッドに入ったけど、眠れたのか、眠れなかったのか、よく分からない状態で、朝、起きた。
母親が夜勤だったお陰で、あれこれ詮索されることなく、静かに朝食を食べることができた。
食事をしながら、友達と遊びに行くから、午前中に家を出て行くことを、父親に伝えた。
「香澄」
「な、何?」
食器を片付けていると、食卓でお茶を飲んでいた父親が私を呼んだ。
――父親から名前を呼ばれたのって、いつ以来だっけ?
「楽しんできなさい」
父親は、ぽつりと言うと、湯飲みを持って、リビングの方に行き、テレビをつけて、その前のソファに座った。
この前の日曜日に、くらちゃん達と遊びに行った時には、何も言わなかったのに……。
やっぱり、今日の私は、父親にも何かしら感づかれるほど、変なのかもしれない。
喜多君が立てた計画では、まず、お昼ご飯を一緒に食べてから、映画館に行き、午後一番の上映に入り、終わった後、三時のおやつにレアチーズケーキの美味しい店でお茶をするということになっていた。
待ち合わせは、池梟駅の改札口から少し離れた場所にある、待ち合わせスポットとして有名な梟の小さな石像の近くに、午前十一時だった。
私は、昨日、買った服を着て、姉のお下がりのリュックサックを背負い、素足にフラットサンダルを履き、家を出た。
梅雨の晴れ間で、少し蒸し暑い日だった。
午前十時半には、待ち合わせ場所に着いた。
大勢の人が、そのスペースの真ん中にある梟の石像を見つめるように、両側の壁に背を付けて、並ぶようにして立っていた。
電車が駅に着いたと思われる時には、大勢の人が改札から出て来て、この場所までやって来た。何人かの人が手を振ったり、携帯で話しながら、出会うことができていた。
家が近所の喜多君は、歩いてやって来るはずだから、この人の波とは関係無く来るはずだけど、何度も寄せては引いていく人の波が来るたび、思わず、喜多君の姿を探してしまう。
でも、――喜多君は現れなかった。
周りで待っていた人には、一人また一人と待ち人がやって来て、笑顔で去って行った。
そして、次から次に、別の人がやって来て、私の近くに立った。
私だけが、取り残されてしまっている気がしてきた。
腕時計を見ると、午前十一時から十五分ほど経過していた。
――何か、急用ができたのだろうか?
私は、スマホを取り出し、連絡が来てないかを確認したけど、電話もメールも来てなかった。
連絡が来れば、すぐに出られるように、スマホを握りしめながら、私は、じっと待った。
でも、急用ができたとしても、連絡もできないような急用って?
まさか、事故に遭ったとか?
よそ見をしながら歩いていて、蓋が開いていたマンホールに落ちたなんて、最悪の結果が心をよぎる。
悪い予想をしだすと、もう不安でたまらなくなってしまう。
喜多君に電話を掛けてみた。
だけど、電源が切られているか、電波の届かない場所にいるというアナウンスが返って来ただけだった。
為す術無く、私は、ひたすら待った。
時々、電話を掛けてみたけど、結果は同じだった。
昨日の夜、喜多君から来たメールには、今日の映画をすごく楽しみにしているって書いてあった。
私も……楽しみにしてた。
でも、喜多君は来なかった。
そして、いつの間にか時間は、午後一時を過ぎていた。
「私、……何、やってるんだろう」
急に、待っていることが馬鹿らしくなった。
あの告白は何だったの?
昨日の夜から今朝までの間に、私、喜多君が嫌がるようなこと、何かしたかな?
それとも、最初から、喜多君は来るつもりなんてなかったのだろうか?
男の子とのつきあい方も知らないアニヲタブスをからかっていただけなのだろうか?
今も、柱の陰から私を見て、笑い転げているのだろうか?
――きっと、そうだ! そうに違いない!
頭の中に、喜多君の笑い声が響いてきた。
『僕が君なんかを相手にするとでも思ってたのかい?』
――止めて! 止めてえ!
頭を振って、その声を振り払おうとしたけど、消えなかった。
私は、耐えられなくなって、逃げるように、そこから走り去った。
自宅の最寄り駅に帰り着いた。
家に向かって歩き出すと、手に持っていたスマホが震えた。
池梟から、ずっと、スマホを握りしめていたことに、この時、気づいた。
喜多君からだった。
しばらく、電話に出ることを躊躇っていると、電話は切れた。
――何よ? 今頃! 寝坊してたとか、言い訳するつもり?
一旦、疑いの目でしか見ることができなくなると、そんなことしか思い浮かばなかった。
また、着信があった。
喜多君からだった。
――どんな言い訳をするつもりなんだろう?
とりあえず、喜多君の言い訳を聞いてやろうと、通話ボタンを押した。
「河合さん?」
「……」
「ごめん! 本当にごめん!」
「……」
「怒ってるよね? 当然だよ。今すぐ会って謝りたい!」
「……」
「今、どこ?」
「……家の近く」
「じゃあ、これから、僕がそっちに行く!」
「……来なくて良い」
「えっ!」
「顔、見られたくない」
「……河合さん」
「……さよなら」
私は、電話を切った。
喜多君の家で流した嬉し涙が、全部、流れていってしまった。
また、手にしていたスマホが震えた。
今、これ以上、喜多君の声を聞くと、爆発しそうだ。喜多君に、きっと、酷いことを言ってしまう。
――言ってやれば良いじゃない!
私を馬鹿にして、からかった喜多君なんて、罵ってやれば良いじゃない!
――違う! 違う! 違う!
喜多君は、そんな人じゃない! 分かっているでしょ?
電話は切れた。
そう言えば、さっき、喜多君は、何も言い訳をしなかった。
ちゃんと、来なかった理由を聞いてあげよう。それが納得できなければ仕方がない。
次、電話が掛かって来たら、ちゃんと話そうと思い直すと、今度は、メールが入った。
喜多君からだった。
受信メールを確認してみると、そのメールには、写真ファイルが添付されていた。
メールを開いてみる。
『河合さんに酷いことをしてしまった自分が情けなくて、腹が立って、許せない! だから、これは自分への罰なんだ。こんなことでしか、河合さんに許しを請うことができない』
添付ファイルを開いてみた。
見覚えのある背景は、待ち合わせをしていた梟の石像の前だ。
写真は、大勢の人が周りを取り囲んでいる中で、一人、土下座をしている人を上から撮ったものだった。
頭を床に着けているから、顔は見えなかったけど、髪型からすると喜多君に間違いなかった。
きっと、近くにいた誰かに頼んで、シャッターを押してもらったのだろう。
「……喜多君」
私は、喜多君に電話を掛けた。
すぐに、喜多君が出た。
「……」
自分から電話を掛けておきながら、どう切り出せば良いのか分からず、言葉が出なかった。
「河合さん?」
「……」
「会って謝りたい」
「……」
「やっぱり、河合さんの家に近くの駅にこれから向かうから」
「私が池梟に行く」
「でも」
「このまま、ここで待っているのは辛いから、私が行く!」
「……分かった。じゃあ、朝のいつもの待ち合わせ場所で待ってる」
いつも、くらちゃん達と待ち合わせをしている改札口に行くと、喜多君がいた。
私を見つけた喜多君は、ゆっくりと、私の側までやって来た。
「河合さん。僕は、これからも、ずっと、河合さんと友達でいたい。だから、河合さんが許してくれるまで、ここで、何度でも土下座をする! 殴ってくれても良い!」
「喜多君」
「うん?」
「何度、頭を下げてもらっても、納得なんてできない」
「……そうだよね」
「理由を話して! 来なかった理由を!」
「そ、それは……」
喜多君は、口ごもり話そうとしなかった。
「私と遊びに行くことは、実は、そんなに楽しみでもなかったとか?」
「そんな訳ない!」
喜多君の目は真剣で、嘘を吐いているようには見えなかった。
喜多君は、うつむいて大きく息を吐くと、顔を上げ、キョロキョロと周りを見渡した。
「言いづらいことなんだけど、……僕がこれから言うことは、河合さんの胸にしまっておいてほしい」
私は、無言でうなずいた。
「あの、バウムクーヘン屋さんで会った、里香って女の子、憶えてる?」
「う、うん」
「今日、家を出ようとしたところに、里香のお兄さんから電話が掛かって来たんだ」
「里香さんのお兄さんから?」
「うん。……里香が手首を切ったって」
「……!」
「僕宛のメッセージを残していたらしい」
「……」
「里香が救急車で運ばれた病院に急いで行ってみると、里香は病室で眠っていた」
「……眠って?」
「うん。手首の傷自体はそれほど深い傷じゃなかったけど、精神安定剤を大量に飲んでいたらしいんだ」
「……」
「里香が書いたメッセージも見させてもらった。里香は、僕と、また、つき合いたいって思っていたらしくて、たまたま、あのバウムクーヘン屋さんで僕と会って、その想いが更に募ったらしい。でも、僕の素っ気ない態度がショックだったみたい」
「……」
「お兄さんに聞いたところによると、里香は、僕と別れた頃から、時々、ふさぎ込んでいたけど、それ以外には変わった様子は無かったみたいなんだ。でも、貝塚高校に進級して、新しい同級生達との関係がうまくいかなかったようで、無視されたり、虐めにも遭っていたらしい」
「……そうなの?」
バウムクーヘン屋さんで会った時には、凜としてて、そんな感じは全然しなかったけど……。
「最近、特に、感情の起伏が激しくなったみたいで、本人を説得して、やっと通院し始めたらしくて、精神安定剤も病院でもらったものだったようなんだ」
「里香さんとは話をしたの?」
「いや、里香が目を覚ます前に帰ったから」
「そう」
「僕宛のメッセージがあったから、お兄さんも気が動転して、僕を呼んでしまったけど、やっぱり、里香とは会わない方が良いと言われてね。病院から出て、携帯の電源を入れた時に、やっと、河合さんのことを思い出したんだ。酷い奴だよね」
「……」
「本当にごめん」
喜多君がまた頭を下げた。
「……何、謝ってるんだよ?」
「何をって、河合さんに迷惑を掛けたから」
「そうだよ! 迷惑掛けられた!」
「ごめん」
「もう謝らなくて良いから! その代わり、今度の日曜日にもう一度、私を映画に連れていけ!」
「えっ?」
「『非番戦隊ヒバンゲリオン劇場版』を見たいんだよ!」
「……河合さん」
「レアチーズケーキは一個追加だ!」
「……分かった」
「それと! ……里香さんとは、ちゃんと話をしてあげて」
「う、うん。もちろんだよ」
喜多君が、ほっとした顔を見せた。
「ありがとう」
「お礼なんていらないから、態度で示せ!」
「……河合さんは、本当に素敵な人だ」
「お世辞の言葉もいらない!」
「お世辞なんかじゃないよ。……分かった。約束する。今度は、絶対に守る」
「……じゃあ、今日のことは忘れる」
喜多君に笑顔が戻った。
「それじゃあ、僕も河合さんにお願いがあるんだけど、言って良いかな?」
「何?」
「その服、すごく可愛い。僕の好みに、どストライクなんだ。次の日曜日もその服を着て来てほしい」
――頼まれなくても、この服しか無い。




