第二十五話 そのバウムクーヘンは誰のため?
気象予報士は、とりあえず「雨」と言っていたら、はずれることはない梅雨の時期。
自宅の最寄り駅で降りた私は、しとしとと降りしきる雨の中、お気に入りのイラストが描かれた傘を差して自宅に向かっていた。
池梟駅までは、くらちゃんとなまことの三人で、わいわいと騒ぎながら帰って、俳優養成学校とバイトがあるくらちゃんと改札前で、逆方向の電車に乗るなまことは駅で別れて、一人で電車に乗って帰るのが、何となく寂しく感じるようになっていた。
自分にこんな感情が芽生えるなんて思ってもいなかった。
家に帰り着くと、玄関に見慣れぬ靴が置いてあった。でも、その派手なデザインから、誰の靴かは想像ができた。
「おかえり、香澄!」
リビングに入ると、ソファに座っていた靴の主が、向かいに座っていた母親とユニゾンで「おかえり」を言ってくれた。
五歳上の姉、香織だ。
セミロングの髪を茶色に染めて、メイクもばっちり決めていて、百六十センチ以上あるスタイルの良い体に流行のブランドをまとった姿は、どこぞの読者モデルのようだった。
実際、妹の私から見ても、美人なのは認めざるを得ず、昔から男子達からモテモテだった。
「今日はどうしたの?」
「ご挨拶ね。実家に帰って来ちゃいけないの?」
「どうせ、お小遣いをせびりに来たんでしょ?」
「相変わらず毒舌ね! たまには顔を見せなさいというお母さんの要望に応えたまでよ」
姉は、都内にある大学の二年生で、家からでも通えるのに、一人暮らしをしたいとか言って、今年の三月に家を出ていき、大学の近くのワンルームマンションに暮らしている。
もちろん、自分でバイトもしているようだけど、ほとんど洋服代に消えているようだ。
姉は、母親の遺伝子を多く受け継いだようで、派手好きで社交的、お洒落にも関心があって、私とは対照的だった。
同じ姉妹で、何でこんなに違うのかと思う時もあったけど、別に羨ましいと思ったことはない。
「香澄は、高校はどうなの?」
「どうなのって?」
「彼氏とかできた?」
一瞬、喜多君の顔が頭をよぎったけど、顔には出なかったみたいだ。
「できる訳ないでしょ」
「でも、あんたもコンタクトにしたら、けっこう可愛いじゃない。そのうち、彼氏もできるって」
姉の表情を見れば、「絶対できる訳無い」と白状していた。
「香澄。晩ご飯は、お姉ちゃんもいるから、外に食べに行こうか?」
と言うことで、定時に仕事から帰って来た父親も含めて四人で、近所の回転鮨屋さんにやって来た。
明日は日勤だというのに、大ジョッキの生ビールの二杯目も軽く流し込んで三杯目を頼んだのに、顔も赤くしていない母親が姉に訊いた。
「香織は、もうお酒を飲んでいるんじゃないの?」
「へへへ、テニスサークルのコンパでちょっとだけね」
「あんた、けっこう強そうだもんね」
あと数日で二十歳になるとはいえ、未成年の子供に飲酒を勧める看護師がいて良いのか?
「自分でもそう思う。香澄は飲めるの?」
「飲んだことないから分からないよ」
「香澄はお父さん似で、中学の時に、お婆ちゃんちで奈良漬けの匂いを嗅いだだけでも酔っ払っていたから飲めなそうね」
「そんなこと、あったっけ?」
「あったわよ。あんた、気持ちが悪いって、その後、ずっと寝てたし。ねえ、お父さん?」
「そうだな」
これが父親が回転鮨屋で話した唯一の台詞だった。
その時、テーブルに置いていた姉のスマホが震えた。
「あっ! ごめん!」
急いでスマホを手に取り、画面を見た姉はそう言うと、席を立って店の外に出て行った。
「彼氏からかしら?」
母親は嬉しそうに呟いた。
「今度の彼氏も知ってるの?」
私が知っているだけでも、姉には過去三人の彼氏がいた。
「さっき話してもらったけど、大学の先輩で役者をしている男の子らしいわよ」
「役者?」
「まだ脇役だけど、あちこちの舞台に出演しているみたいよ。今度、映画にも出る予定があるんだって」
「ふ~ん。何て言う人?」
「名前までは教えてくれなかったけどね」
しばらくすると、姉が帰って来た。
「香織、彼氏から?」
「うん」
「何て?」
「秘密」
「今度の舞台に出るのにお金が必要だから、ちょっと貸してくれって言うんじゃないの?」
「う、うるさい! あんたには関係無いでしょ!」
あれっ、冗談で言ったつもりだったけど、図星だったのかな?
私とくらちゃんとなまこの三人の休み時間における溜まり場は廊下になっていた。
最初は、私の席にくらちゃんとなまこが来ていたけど、しゃべり声がうるさいという苦情が出ていることを周りの空気から何となく察したことと、なまこが私達のクラスへの往復時間がもったいないとか言うものだから、C組とE組の中間地点であるD組の前の廊下に落ち着いた訳だ。
「かすみん。雷撃大賞の発表はそろそろですよね?」
「来週の木曜日だよ」
「何か自分のことのようにドキドキします」
「あははは、くらちん、かすみなら通らない訳ないじゃないかよ」
「おい! それ、プレッシャー掛けてるのか?」
「邪推するなよ。オレなりに応援はしてるんだからさ」
「うん、……まあ、ありがとね」
「でもさ、一次が通ったら、何かお祝いをしないとな」
「そうですよね! しましょう!」
「何が良い?」
そう言えば、喜多君とも約束していた。
「私に何かやってもらうというより、三人でどっかに遊びに行こうよ」
「でも、それじゃあ、かすみんへのお祝いになりませんよ」
「三人で遊びに行くことが、とりあえず、今の私にはご褒美なんだよ」
喜多君と同じようなこと言ってる。
「じゃあさ、三人で東京ドリームランドに行こうぜ」
「わあ! 良いですね!」
「なまこのわりには良い意見じゃない」
「うるせえ! でも行くだろ?」
「そうだね。もし、駄目でも行こうか?」
「えっ?」
「残念会も同じ内容で」
「結局、みんな、行きたかっただけじゃん」
そう、三人とも一緒に遊びに行くような友達がいなかったから、何となく、そんな気分になってしまったんだ。
その日の放課後。
駅の改札を入り、なまこと別れてホームに登ろうとしたところで、母親からお使いを頼まれていたことを思い出した。
今晩、大事なお客様が来るから、池梟駅に隣接してあるデパートの地下売り場で、評判のバウムクーヘンを買って来るように頼まれていたんだった。
我が家の財務大臣である母親の機嫌を損ねないことは最優先事項であって、夜勤の時以外に毎朝、ありがたい説話を我慢して聞いているのも、お小遣いの減額査定を受けないためだ。
バウムクーヘンを買うのを忘れて帰ると、そう言った努力が水の泡になるところだった。
お目当てのバウムクーヘン屋さんまで行くと、十人くらいの行列ができていた。
「河合さん!」
行列の最後尾に並ぼうとした私が振り向くと、喜多君がいた。
「あれっ、どうしたの?」
「どうしたのって、僕がデパートにいたら変かい?」
「そう言う訳じゃないけど」
「河合さんを追い掛けてきて、一緒にいる口実を、今、作った訳じゃないからね」
「わ、分かってるわよ!」
「実は、今日、父親の命日でさ。ここのバウムクーヘンが大好きだったらしくて、毎年、お仏前にお供えしてるんだよ。今日も買って来るように、ママに頼まれてね」
「そうなんだ」
「僕がまだ幼稚園の頃だから、僕は全然憶えてないんだけどね。河合さんは?」
「お客様用にと、お母さんから頼まれて。と言っても、お母さんもここのバウムクーヘンが好きみたいだから、半分は母親用かな」
二人で行列の最後尾に並んだ。
でも、何と言う偶然。まるでラノベみたいじゃない。
こう言う時には、更なる偶然が重なるはずなんだよね。
「あれっ、琥太郎?」
喜多君の名前を呼び捨てにしたのは、すんごい美少女だった。




