第二話 後ろの正面は誰? マザコンのイケメン?
翌朝。
洗面台で顔を洗うと、コンタクトを苦労しながら目に入れる。
中学生時代は、ずっと眼鏡で過ごしたけど、高校生になったんだから、コンタクトにしなさいという母親の勧めに応じたものだ。
どうも、母親は、「眼鏡萌え」という言葉を知らないみたいで、眼鏡を掛けている女子はモテないと考えているようだ。
私がコンタクトにしたところで、美しさの日本標準を遙かに下回るこの顔がどうにかなる訳でもないのにと思ったけど、毎月のお小遣いの出所でもある母親に、強硬に反対する理由も無いので、素直に従った。
コンタクトを入れて終えて、鏡の中の自分を見つめる。
ちょっと前髪が跳ねていたから、水で濡らして落ち着かせる。
後ろの髪も跳ねているかもしれないけど、面倒くさいから確認作業はパスして、自分の部屋に戻り、制服に着替えた。
中学校は公立で、制服もありふれたセーラー服だったから、ちょっとお洒落で、萌えキャラが着ていそうなデザインのこの制服を着ると、コスプレしているみたいな気分になってきた。
とりあえず、アニメヒロインの決めポーズを、鏡の前でやってみた。
「…………馬鹿だ」
コスプレ芸人にしか見えない自分の姿の馬鹿さ加減を自嘲しながら、部屋を出て、リビングダイニングに行った。
母親が朝食の準備をしていた。
看護師の母親は、子供が生まれると仕事を辞めて専業主婦になったけど、私が中学生になると、看護師として再就職をした。
だから、母親の夜勤がある時は、五歳上の姉と私が交代で食事を作るようになり、大学生になった姉が、都内の大学なのに一人暮らしをしたいとか言って、家を出て行ってからは、私が食事の用意をするようになっていた。
と言うことで、アニヲタ絵師であるにもかかわらず、料理スキルだけは人並みにあった私は、給食の無い高校生になったら、自分でお弁当を作るという約束との交換条件として、月五千円のお小遣いアップを勝ち取っていた。もっとも、今日は入学式だけで、午前中に帰宅できるから、お弁当作りは明日からになる。
ちょうど、朝食の準備ができた頃に、新聞紙を持った父親が、小さな声で「おはよう」と言いながら、リビングダイニングに、のそっと入って来た。
父親は、区役所に勤めている地方公務員だからか、愛嬌を振りまくという能力に欠けているようで、家族に対しても、「おはよう」「いってきます」「ただいま」「いただきます」「ごちそうさま」「めし」「ふろ」「ねる」以外の言葉を発することはなかった。
お酒も煙草もやらず、無趣味で、平日は真っ直ぐ帰宅し、土日も家でゴロゴロしている無口な父親と、お酒も強く、夜勤明けでも平気で趣味のテニスクラブに行くほどアクティブで、テキパキと家事もこなす、おしゃべり無双な母親が、何故、夫婦になったのか、未だに謎だ。
母親は、今日、仕事で入学式に行けないと残念がっていたけど、高校の入学式って、親子同伴が普通なのかな?
母親がもし休みだったとしても、私は来なくて良いと言ってたと思う。
だって、もうそろそろ結婚だってできる年齢だし、「もう子供じゃない!」って、声を大にして言いたいお年頃だから。
グレーのソックスに、おろしたての茶色のローファーを履き、家を出た私は、最寄りの駅に向かった。
ホームには思ったより多くの人がいた。
私は、これも母親の勧めに従って、女性専用車両に乗った。
他の車両よりも若干空いているようだけど、車内に漂う様々な種類がブレンドされた化粧品の匂いに酔いそうになった。
ウォーキングステレオのイヤホンから流れるアニソンを心の中で熱唱しながら、意識が飛びそうになるのを何とか堪えていると、無事、目的地である都心のターミナル駅に着いた。
まるで濁流に押し流される小枝のように、人の流れに身を任せて改札口を出て、十分ほど歩くと、私がこれから三年間通うことになる私立海老原高校があった。
周りにはビルが立ち並ぶ都心のど真ん中にある校舎は六階建てで、沢山の車が行き交う幹線道路の広い歩道に面して正門があった。
正門には、「祝ご入学 平成○○年度私立海老原高校入学式」と書かれた看板が立てられていて、何組かの親子連れがその前で記念撮影をしていた。
――やっぱり、親子連れで来る人もいるんだ。
「乳離れしてない奴らが」と鼻で笑いながら、正門から校内に入ろうとした私の背後から声が聞こえた。
「すみません」
空気のような存在感の無さを目指し、そして自認している私に呼び掛けているとは思わなかったけど、二回も呼ばれると自分のことかなと気がついて、振り返った私を、年配の女性が見つめていた。
「ごめんなさい。よろしかったらシャッターを押してくださらないかしら?」
その丁寧な言葉使いが違和感を感じさせない、上品な雰囲気の女性だった。
「はい」
特に断る理由もないので、私は、その女性に近づいて、女性が差し出していたデジカメを受け取った。
「ありがとうございます」
女性はニコニコと微笑みながら、「祝ご入学」の看板のすぐ横にいた男の子の側に立った。
男の子の少し茶色っぽい髪は、耳を隠して襟足まで伸びていたが、サラサラとしているようで、春の微風にもなびいていた。優しい顔立ちはイケメンに分類されることに間違いはないと思われ、その上、背も高く、これからモテモテの高校人生を送ることが約束されているかのような男の子だった。
きっと自慢の息子なのだろう。誇らしげな顔の女性が男の子の隣に立つと、私はカメラを構えた。
「じゃあ、撮ります」
にこやかな男の子の視線が、デジカメの画面越しに、私に向けられていた。男の子とこんなに見つめ合ったことがない私は、ちょっとだけ動悸を速めた。
私は、二回シャッターを押すと、カメラを女性に返した。
「どうもありがとうございます」
深々とお辞儀をした女性に対して、私は軽く会釈をして、踵を返すと、正門の中に向かって歩き出した。
「あっ、こたろうちゃん! 背中がちょっと汚れているわよ」
「えっ、本当、ママ?」
――こたろうちゃん? ママ?
別に聞き耳を立てていた訳ではないけど、「ここは幼稚園か?」と言いたくなるようなその台詞に、私が思わず振り返ると、さっきの女性が男の子の背中を叩いていた。
私も小学生の時までは、母親のことを「ママ」と呼んでいたけど、さすがに中学生になると恥ずかしくて、自ら「お母さん」と呼ぶようになった。でも、この男の子は、未だに自分の母親のことを「ママ」と呼んでいるようだ。
一方、背中を叩き終えた女性は、今度は、男子の制服であるネクタイを嬉しそうに直してあげていた。
母親にとって、息子というのは、いつまでも可愛いものなのだろうか?
我が家は、姉と私の娘二人しかいなかったから、息子に対する母親の行動原理など分かるはずもなかった。
校舎の玄関まで行くと、その脇にクラス表が貼り出されていた。A組からG組まで七クラスあって、私はC組だった。
二階にあるC組の教室に入った私は、黒板に貼り出されていた座席表に従って、自分の席に座った。教室のど真ん中と言うべき、前から三番目の席だった。
机の上に配られていたプリントや教材本をパラパラとめくって眺めていると、私の視界の中に、前から歩いて来た男子の足が入って来て、私の席の側で立ち止まった。
「さっきはどうも」
その人を仰ぎ見ると、さっきの男の子だった。
私が、軽くうなづくと、男の子はニコニコと微笑みながら、私の後ろの席に座った。
「喜多琥太郎です。よろしく!」
その笑顔は、確かにイケメンだった。