第一話 入学式の前はお風呂に入ろう!
「人は誉められて育つ」
教育評論家という、結局のところ、何をやっているのか分からない人がテレビで言っていた。
大体、評論家と名乗る人は、どこか胡散臭い。
その世界で頂点を極めるとか、その人にしかできない何かを成し遂げた人であれば、その言葉に重みもあるだろう。でも、そんな功績に裏打ちされていない言葉は、薄っぺらいものにしか思えなかった。
でも、「誉められて育つ」かどうかは分からないけど、「誉められるとやる気が出る」のは確かだ。特に、アマチュアの創作家にとって、自分の創作物に対する賛辞は、次の作品を生み出す原動力になることは否定できない。
私の場合のそれはイラストだ。
私は、アニメキャラや自作キャラのイラストを、「ピクピク」というイラスト投稿サイトに、「いかすみ」というペンネームで投稿していた。
いつかは、私が書いたイラストがラノベの表紙を飾ることを夢見て、中学一年の時から、投稿を始めて、同時に、その宣伝を兼ねて、同じハンドルネームでツイッターもやり始めた。
その甲斐もあってか、サイト内では、それなりに名前も知れ渡っていて、新しくアップしたイラストは、多いときには、一日で千アクセスを超えることもあった。
ツイッターの方は、イラストの宣伝が主で、そんなに人には絡まなかったけど、毎日、リプを返す相手は、何人かできていた。
『いかすみさん、こんばんは!』
今、挨拶をしてくれた人も、そんなフォロワーさんの一人、タコ太郎さんだ。
タコ太郎さんは、オンライン小説投稿サイト「小説家になりやがれ」で「フェアリー・ブレード」というファンタジー小説を連載している素人物書きさんで、分野は違うけど、同じ創作活動をしている仲間意識みたいなものから、三か月前くらいから絡み始めた人だ。
そして、タコ太郎さんの「フェアリー・ブレード」は、私の好みと完全に一致していて、その登場人物のイラストを描いてみたいと思っていたところに、タコ太郎さんの方から依頼があって、「フェアリー・ブレード」の挿絵を描くことになった。
タコ太郎さんと私は、「フェアリー・ブレード」に関して言えば、字書きと絵描きとしてのユニットを組んで活動している仲間であって、お互いにリスペクトし合っている仲だった。
もっとも、タコ太郎さんとは、実際に会ったことはないし、はっきりと年齢を訊いた訳ではない。だけど、おそらく、私と同じ十五歳で、明日から高校生活が始まる高校一年生のはずだ。
『タコ太郎さん、こんばんは!』
『いかすみさんが、今度、ピクピクにアップしたイラスト、めっちゃ好みだ!』
『ありがとう。フェアリー・ブレードの最新話もすごく面白かったよ。来週には、挿絵のデータを送るね』
『楽しみにしてるよ』
たぶん、ツイッター上の私は、リアルの私よりは遙かに多弁だ。
それは、私のイラストを見て、それを好きになってもらっている人を相手に、気分良く会話ができるからだろう。
「香澄! そろそろ、お風呂に入りなさい!」
ドアの外から母親の声がした。
「はーい!」
お風呂に入るのが面倒臭いと思うのは、女性としてどうなのって思う時もあるけど、お風呂に入る時間もイラストを描いていたいと思って、休みの前日とかは入らない時もあった。
だって、食事はしなければ死んでしまうけど、お風呂に入らなかったから死んだという話は聞いたことはないし……。
――でも、まあ、明日は入学式だし、入っておくか。
着替えの下着とパジャマを持つと、二階の自分の部屋から出て、浴室に向かった。
時間は午後十一時。一階に降りて、廊下の奥に見える、ガラスがはめ込まれたドアを見ると、リビングの電気は既に消えていた。
浴室に入り、洗面台の前に立つと、間違ってサイズ違いを買ってしまったけど、どうせ、家でしか着ないんだからと、部屋にいる時には、いつも着ているダブダブのジャージ姿の女の子が映っていた。
ちょっと猫背気味な姿勢は、ただでさえ低い身長を更に低く見せていた。
朝からブラシを入れていないショートボブはボサボサで、黒縁眼鏡にも指紋の跡のような汚れが付いていた。
朝からずっとイラストを描いていて、無意識に髪を掻いたり、眼鏡に手をやったりしていたからだろう。
カラスの行水よりも速く、お風呂から出た私は、リビングの奥にあるキッチンに行き、冷蔵庫から一リットルサイズのペットボトルを取り出すと、コップと一緒に持って、自分の部屋に戻った。
コップに注いだ冷たいお茶を一気に飲み干すと、更に目が醒めてきた。これから朝まで起きていることもできるはずだ。もっとも、朝から先、昼間に掛けて起きていられるかどうかは保証の限りではない。
――学校初日から居眠りする訳にもいかないし、就寝の準備をしよう。
部屋にある小さな鏡台の前に座ってドライヤーを当てていると、部屋の壁に掛けている、真新しい制服に目が行った。
胸にエンブレムが付いたモスグリーンのブレザーに、薄いイエローのシャツに濃紅のリボン、赤いタータンチェックのスカート。
もっとも、この真新しい制服に袖を通したとして、新しい何かが始まる予感なんてしてないし、望んでもなかった。中学時代と同じように、部活もせずに、真っ直ぐ家に帰って、イラストを描く毎日がこれからも続くはずだ。
私は、物心付いた時から、絵を描くことが好きだった。友達と遊ぶよりも、一人で黙々と絵を描いている方が楽しかった。中学の入学祝いに、パソコンとペンタブを買ってもらうと、更にのめり込んでいった。
当然、親友と呼べる友達はできなかったし、友達自体も少なかった。
同じようにイラストを描く趣味の人とは、少しは付き合いをしたけど、それも、私にとっては、イラスト作成のモチベーションを上げるためという意味合いでしかなかった。
でも、友達が少なかったからといって、別に寂しいって思ったことはない。
だから、友達なんて無理に作る必要なんて無いし、積極的に友達を作ろうだなんて思わない。
髪を乾かし終えた私は、机の上に置いていた電車の通学定期券を手に取った。
明日から通うことになる私立高校は、都心にあって、私は、人生初の電車通学をすることになっていた。
IC式定期券に書かれている私の名前は「河合香澄」。
「いかすみ」というペンネーム兼ハンドルネームは、本当は、自分の名前から取っているのだけど、後付けのお気に入りの由来があって、ネットでは、そっちの方を公表していた。
『いか墨から作られる黒茶色の顔料をセピアって言うんだって。記憶や感動は時間とともに色褪せるけど、セピア色になっても色褪せない絵を、私は描きたい!』