ルミア・バセフォルテットの運命
帝国宰相の娘、ルミアの物語です……。
ルミア・バセフォルテットにとって、その出会いは運命だった。
春の穏やかな風が吹き始めた頃、城の離宮で夜会が行われた。
もちろん、現宰相の一人娘であるルミアも着飾って出席している。
先程までは母と一緒にいたのだが、彼女は友人と話が弾んでしまい、今はルミアも自分の友人を探そうと会場を回っているところだ。
たくさんの女性たちが談笑したり、男性と踊ったりしているのを見るうちに、ふと彼女は父親が言っていたことを思い出した。
『ルミア、今日は皇太子殿下のご婚約者も出席される。機会があればご挨拶しておきなさい』
元々、父ドルド・バセフォルテットは娘のルミアを皇太子ノールディンの皇妃にと進めている向きがあった。
だから始めのうちは、皇太子ノールディンが唐突に連れて来た婚約者を煙たく思っているようだった。しかし、彼女に実際に会った頃から徐々に態度が変わり始めた。
そのうち、ルミアを側妃に、と言い始めたのだ。
つまりそれは、あの仕事に厳しい父親が皇太子殿下の婚約者を皇妃様に相応しいと少なからず認めているということなのだろう。
珍しいこともあるものだ、と考えていると、ルミアは背後から甲高い声を掛けられた。
「まあ、ルミア様」
猫撫で声が少し癇に障る。
振り向くと、そこにはマイス公爵令嬢がいた。
あまり反りの合わない人物であった為、ルミアはそつなく挨拶をして、そのまま別れようと考えた。
「こんばんは、エレン様。……折角お会い出来て申し訳ありませんが、私は父に用事がありますので、ちょっと失礼させて頂きますね」
軽く礼をして、横を通り過ぎようとしたその時だ。
「あら、よろけてしまったわ」
わざとらしくエレンが足元をふらつかせ、ルミアにぶつかって来た。
その手にはなみなみとワインの入ったグラスがあり、零れたワインがルミアのドレスにかかってしまった。
「まあ、ごめんなさい」
嘲笑を浮かべるエレンを前に、ルミアは小さく震えた。
雫が跳ねた程度だが、はっきりと赤い染みが胸元に広がって、恥ずかしくて悲しくて、彼女は何も言えずに庭園へと逃げ込んだ。
誰もいない東屋まで来て、ベンチに腰を下ろす。
「ど、どうして、こんなっ……」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ハンカチで懸命に染みを落とそうとするのだが、上手くいかない。寧ろどんどん落ちなくなっていく。
「落ちないよぅ〜」
途方に暮れて、彼女は情けなく顔を歪めた。
そこに、小さな足音を立てて、一人の少女が現れた。
可憐なドレスを着て、髪をハーフアップにした少女は、ルミアより少し年上に見えたが、とても小柄だった。
ベンチに座り込んでべそをかくルミアに、不思議そう首を傾ける。
「どうなさったの?」
その柔らかい物腰にほっとしたのか、ルミアの瞳からぼろぼろと涙がこぼれてしまった。
「まあ……」
呆れた風では無く、心配している様に眉をひそめて、彼女はルミアに近づいた。
間近に来て、その胸に散ったワインの染みに気が付いた少女は、自分のハンカチでルミアの頬を拭ってくれる。
「泣かないで」
ルミアの手をとってそのハンカチを握らせると、彼女はこちらに背を向けてた。
傍の生け垣に手を伸ばして何事か作業をしている少女の行動がわからず、ルミアは首を傾げた。
涙はそうしている内に引っ込んでしまっていた。
「出来たわ」
そう言うと、少女はくるりと振り返った。
微笑む彼女の手には小さな花束が乗っている。庭で咲いていた花を摘み取ってまとめていたようだ。
少女は自分の髪を結っていたリボンを一本抜き取ると、その花束に結びつける。
そしてルミアの元に歩み寄ると、「ちょっと失礼」と言って、胸元に手を伸ばした。
ぴくり、と反応してしまったが、少女は構わず、器用にルミアのドレスのリボンに自分のリボンを絡ませてしまう。
一歩引いて出来映えを確かめると、彼女は一つ頷いた。
「これで染みは隠れましたよ。いかが?」
はっとして、ルミアが自分の胸元を見ると、垂れる様に束ねられた花々がきちんと染みの部分を覆ってくれていた。
自分の元から離れて行く指に小さな傷が出来ているのに、ルミアは気が付いた。
「……あ、あのっ」
お礼を言わなくちゃ、とルミアが声を上擦らせたところで、別の声が聞こえた。
「フェリシエ、何処だ?」
その低い声には聞き覚えがあった。
少女は声の方向に体の向きを変えると、そちらへ声を掛けた。
「ノール、こちらよ」
茂みの奥から姿を現したのは、ルミアの予想通り、皇太子ノールディンだった。
冷ややかな視線が少女と自分を映す。
ルミアは思わず肩を震わせてしまったが、それでも何とか立ち上がって礼をとる。
けれどフェリシエと呼ばれた少女は何の躊躇いも無く彼に近づいて行った。
上目遣いでその光景を見ていたルミアの目に、皇太子の瞳が僅かに細められるのが見えた。まるで、安堵したとでも言うように。
信じられなくて、ルミアは何度も瞬く。
そんな彼女に気を払うことも無く、ノールディンはフェリシエに手を差し伸べる。
「こんなところで何をしていた」
聞かれた彼女はちょこん、と首を傾げて、ちらりとルミアを見やる。
怯えた様な瞳をした彼女に小さく微笑むと、フェリシエは再びノールディンを見上げた。
「こちらのご令嬢と少し歓談させて頂いていたの。もう、会場に戻った方が良かった?」
「いや、今日はもう良い。伯爵家まで送ろう」
重ねられた手を引いて、ノールディンは言った。
その言葉にフェリシエは小さく頷いて、歩き出した彼に続いた。
けれど途中で振り返り、ルミアに向かって小さく会釈を送ってくれた。
そんな彼女の少しほつれた髪をノールディンが指で梳いている様子が茂みの向こうに隠れるまで、ただ呆然とルミアは見つめていた。
ややもして、彼女は立ち上がった。
ドレスの裾をつまんで、胸を駆け巡る衝動に任せて猛然と歩き出す。
そして辿り着いたのは、父である宰相の控え室。
取り次ぎを待つのももどかしく、ルミアは部屋に入った。
「おお、ルミア。殿下にはお会いできたか?」
正装をした父が、目尻の皺を深くして笑いかけて来た。
「ええ、お会いできました」
「そうか。それで、どうだった!」
娘の即答に、父は勢い込んで結果を聞いた。
上手く気に入られれば側妃ならいけるだろう、という考えは何時でもドルドの頭にあった。
ところが娘であるルミアの頭の中は先程出会った少女のことでいっぱいだった。
「フェリシエ様にもお会いしましたの!」
ここで父は娘の反応に首を傾げた。
『普通、ここは、皇太子殿下の美貌にどうにかなるものではないのか?』と。
けれど、娘であるルミアはそこから大分かけ離れたことを叫んだ。
「私、あの方の侍女になりますわ! ご自分の指が傷つくのも構わずに、私の為にこの花束を作って慰めて下さったのです。あんな素晴らしい御方はこの世のどこにもおりませんっ」
まるで伝説の女神様ですわ!
握りこぶしを作って断言する娘に、宰相は固まった。
「お父様、私は一生あの方にお仕えしますわ!」
目指すは侍女長です!
そう宣言して部屋を飛び出して行った娘に、がっくりと宰相は肩を落とした。
「……お前たち、誰かあの娘を嫁にもらってくれ」
もう誰でも良い、と絶望した彼は、室内にいた補佐官と騎士たちに向かってそう言うが、視線を合わせようという者はいなかった
。
バセフォルテット家の一人娘の夫とは、つまり次期バセフォルテット家当主も同然であり、次期宰相になれる可能性もある。これ以上無い優良物件だ。
野心無き者でも心惹かれざるを得ないというのに、その場にいた男たちは皆こう思っていた。
『宰相の婿は魅力的でも、あの変な娘の婿は、ちょっと……』と。