8.冥漠
港湾都市オンドバル行きの馬車が帝都を出発したその日の正午過ぎ、皇帝ノールディンが城に帰還した。
馬丁に馬を預け、共に視察に出向いた近衛騎士を引き連れて彼は皇帝執務室へと向かっていた。
城内がやけに騒がしい。
城門の衛兵も、馬の手綱を掴んだ馬丁も、廊下で遭遇した侍女たちも、無礼な態度は決して取らないのに、皇帝の視線が外れるや、物言いたげな視線をこちらに送ってくる。
城内の奥に行くにつれてその騒がしさも静まっていったが、それでもその奇妙な気配にノールディンは眉を顰めた。
腹心の部下でもある近衛騎士団長ハインセル・イマジアが「調べさせましょうか」と声を掛けてきた。
しかし、ノールディンがそれに答える前に、正面から人影が近づいてきた。
片手を小さく上げて停止することを告げ、廊下の途中で正面の人物が近づいてくるのを待つ。
現れたのは皇帝を出迎える為、早足で廊下を進んできた宰相だった。
「陛下。無事のご帰還、お喜び申し上げます」
廊下の脇に寄り、左手の指を揃えて胸に当てる旧式の礼をしてきた。
宰相が言いにくいことがある時のサインだ。
「留守中、変わったことは無かったか」
お定まりの台詞をいつも通りに口にした。
宰相が「万事滞り無く」、そう言ってしまえばそれで済んでしまう。
だが、やはり今日は違った。
宰相は言い淀み、視線を揺らして中々顔を上げない。
「宰相閣下?」
流石に不審に思ったハインセルが声を掛けると、廊下の奥から軽い足音が聞こえてきた。
「お父様!」
侍女服を着た少女が宰相目掛けて駆けて来たのだ。
ハインセルがノールディンの前に立ち、背後の騎士たちも警戒する。
「ルミア! ……申し訳ありません、娘です」
駆けて来た少女の名を呼び、それから皇帝に向かって宰相は謝罪した。
ハインセルの大柄な身体で隠された皇帝に気付かない少女はそのまま父親に詰め寄った。
「お父様っ、どうして皇妃様をお止め下さらなかったのですか!?何故黙って出て行かせてしまったのです!」
宰相の娘であり、皇妃付き侍女でもあるその少女は小柄な体を震わせ、目には涙が浮かべていた。
皇帝の側妃にまでしようと思った愛娘の泣き顔に宰相は弱りきった顔をしていたが、彼女の言葉に顔色を変えた。
今まさに皇帝に話そうと覚悟した事柄を言われてしまったのだ。
「ルミアっ皇帝陛下の御前だぞ!」
険しい顔で娘を叱責する。
その言葉に我に返ったルミアは、ハインセルの方を振り返った。
そこにはハインセルの背後から進み出てきた皇帝ノールディンの姿があった。
白皙の美貌に、訝しさと怒りの表情が浮かんでいる。
「……どういうことだ」
低い声音に、ルミアは声も無く崩れるようにその場に跪いた。謝罪を口にすることもできず、ただ頭を下げる。
娘のその姿に一瞬視線を滑らせた後、宰相は鋭い瞳で口を開いた。
「そのことについて、重臣会議を召集しております。どうか詳細はその場にて説明させてください」
目を細めたノールディンは一言命じた。
「ならばここで概略を言え」
一度瞳を瞬き、宰相は答えた。
「皇妃フェリシエ様が今朝城を出られました。私の独断で行った事です。責任については重臣会議にて承りたいと存じます」
ノールディンの冷えた視線が宰相に注がれるが、やがて彼は廊下の先にそれを移した。
「そうするとしよう」
澱みない足取りで廊下を進む皇帝の背中に宰相は細く息をついた。
跪いたままの娘の肩に手を添える。
びくりと震えた後、そろそろとルミアは顔を上げた。
「お父様、陛下はお怒りでしたよね……」
竦然とした様子の娘に微笑み掛ける。
「お前に怒っていた訳では無いよ」
「では、お父様に?」
「そうだね、それもあるだろう。だが、それ以上に……」
「まさか、……皇妃様に?」
「………………」
ルミアは父の沈黙が怖かった。
「もう、仕事に戻りなさい。陛下へは私からもう一度無礼を謝罪しておこう」
「皇妃様はっ」
「もう皇妃様付きの侍女であるお前が関知出来ることではないよ」
皇帝へ無礼を働くという失態よりも、ルミアは皇妃のことを気に掛けた。
だからこそ宰相は娘に「これ以上口を挟むな」と言外に命じた。
涙を堪え、唇を噛み締めたルミアは、立ち上がった。皇妃の侍女として最後の意地で美しい礼をして父に背中を向けた。