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民の望んだ皇妃  作者: 界軌
番外編
79/85

父と慕う人

 彼の人に会ったのは只の一度きり。


 ほんの一時間程の短い時だった。


 けれど間違い無く彼は、スウリにとって父親となったのだ。





 雲が厚く垂れ込めて、雨が強く降っていた。


 そろそろ就寝しようと準備していたスウリの元にノールディンが訪れたのはそんな天気の夜だった。


 その頃、彼女は養子縁組をした伯爵家の離れで暮らしていた為、そこに時折彼が訪れるのはおかしな事では無かったが、夜に訪ねて来たのは初めてだ。


「ノール!? 大変、ずぶ濡れだわっ」


 唐突に現れた婚約者の姿に、スウリは慌てて傍にあったタオルを水の滴る彼の髪に当てる。


 すると、逆にその手を取られた。


 ぎゅっと握って、ノールディンは物言いたげな眼差しでスウリを見下ろして来る。


 彼女は言い難い事があるのだと直感した。


 そして、静かに、穏やかな声になる様に心がけて、ノールディンに語りかけた。


「……ノール、何かあったのね?」


 一瞬眉間に皺を寄せたノールディンは少し俯いた。


「……頼みがある」


「ええ」


「父が、もう、保たない……」


 はっとスウリは息を呑んだ。


 ノールディンの父である皇帝オルディーンが病弱である事は知っていたが、そんなに酷くなっているとは思いもしなかった。


「伯爵に外出の許可は貰った。公式な場ではなくて悪いが、父に会ってもらえないだろうか」


 こんな天気の中来るくらいだから、余程なのだろう。


 スウリは小さく何度も頷いた。


「勿論よ。すぐに用意するから、少しだけ待っていて」


 ノールディンを無理矢理椅子に座らせて、スウリは外套を取りに行った。寝間着に着替えてはいなかったから、外出の準備はこれで十分だ。


 外套が着込んだスウリを自分の馬に乗せて城まで走らせる間、ノールディンは一言も口をきかなかった。背後に従うクゥセルも同じだ。


 城内に入り、ノールディンに手を引かれるままスウリが進んだ先は、これまで来た事も無い程奥まった場所だった。


 大きな扉を開いて中に入ると、クゥセルは何も言わずに外に残った。


 薄暗い室内は、消毒薬や薬の苦みを帯びた香りがする。その香りが、ここが病人の部屋なのだと言う事をありありと示していた。


 長椅子などの応接セットの横を通り抜けると、今度は少し小さな扉があった。


 ノールディンはその扉の前で足を止め、スウリに外套を脱ぐように促した。


 脱いだ外套は彼が長椅子の方へ、ぽいっと放ってしまう。


「濡れたな。……すまない」


 そう言って、ノールディンは湿ったスウリの横髪を袖で拭った。


 その不器用な仕草に、スウリが小さく笑いを零すと、彼も目尻を少しだけ下げた。


 小さな嘆息の後、ノールディンは傍らの扉に向き直ってノックした。


「父上、お休みですか?」


 すると微かな声が扉の奥から聞こえた。


 どうやら入室の許可をしてくれたらしいので、ノールディンは中へと進んだ。


 彼はスウリの小さな肩を引き寄せて、後ろ手に扉を閉じた。


 再びノールディンが手を引いて、二人は部屋の中心に置かれた寝台に近づく。


 すると、僅かに掠れた、おっとりとした声が寝台の奥から聞こえた。


「やあ、ノール。こんな時間にすまなかったね」


 対するノールディンの声はいつもと変わりない。


「いいえ、構いません。……スゥリを連れてきました」


 そう言うと、彼は寝台の横に立ってスウリの肩を抱いた。


 そんな状態なものだから、スウリは正式な礼も出来ず、仕方無しに会釈だけをした。


「お初にお目に掛かります。スウリと申します」 


 彼女の挨拶に、ふふっと笑い声が返される。


 笑い声の主は寝台の中で、枕に埋もれる様に横たわっていた。


 傍らに置かれたランプの光に照らされたその人は、ノールディンに良く似ている。けれど病人故の線の細さと儚さが酷く際立っていた。


 ところがその微笑みはとても柔らかい。尚かつ力強ささえ感じられた。


 体は病に侵されてはいても、心まで侵されてはいないのだ。


「そんなに改まった挨拶など必要ないよ」


 瞳を細めるその表情は、息子であるノールディンが浮かべるものとは大分印象が違う。


 次の言葉を紡ごうと、彼は口を開いて息を吸った。


 しかし喉に引っかかったらしく、けほっ、と咳をした。病的な咳が繰り返される。


「父上、お話になるのは止められた方が良いでしょう」


 ノールディンが父の肩に手を置くと、オルディーンは彼の手をぽんぽんと叩いて落ち着きを取り戻した事を知らせた。


「すまないが、水を貰って来てくれないか? 先程飲み切ってしまって、それで喉が乾燥してしまったのだ」


 頷いて部屋を出て行くノールディンを見送って、オルディーンは「よいしょ」と言って体を起こしてしまう。


 驚いたスウリは慌てて彼に駆け寄った。


「お体の具合が悪いのでしたら、体は起こされない方がっ……」


 一体どう対処すれば良いのか分から無くてまごついていると、オルディーンが朗らかな笑いを漏らした。


「大丈夫だよ。さっきのアレは、あの子を追い出す為の演技だからね」


「えっ?」


 呆気に取られるスウリとは反対に、オルディーンは悪戯の成功した子どもの様に笑う。


「大成功、だろう?」


 それでも体は辛いのか、彼は寝台のヘッドボードに背を預けようとする。


 スウリはそこにすかさず枕を挟んだ。


「これがあった方が楽かと思います。もう一つ使いましょうか?」


 尋ねながらオルディーンを見ると、彼はとても楽しそうに微笑んでいた。


「これで良いよ、どうもありがとう。貴女も椅子を持って来て、近くに座って」


 促されるままに、スウリは部屋の隅にあった椅子を寝台脇に持って来てそこに腰掛けた。


 それを見届けると、オルディーンは再び口を開いた。


「まずは、急に呼び出した事を謝罪しよう。私にはあまり時間が無いから、つい急いでしまった」


 その言葉に、スウリは緩く首を振った。


「いいえ。お会い出来て光栄です、陛下」


 ところがオルディーンは酸っぱいものでも口にした様に顔を顰めてしまった。


 何か粗相をしたかとスウリは焦ったが、彼が口にしたのは思いも掛けない台詞だった。


「うう〜ん。陛下じゃなくて、良かったら父と呼んで欲しいなあ」


「…………えっ?」


 瞠目するスウリに、オルディーンは朗らかに微笑む。


「息子のお嫁さんになるのだから、貴女は私の娘になるのだよ? それなのに他人行儀に『陛下』なんて」


 やれやれと言いたげに首を振って肩を竦める。


「ですが、……その」


 戸惑うスウリに、オルディーンは「お義父様、とかが良いかな」なんて真剣な表情で言う。


 ぐるぐると考えて、結局スウリが言えたのはこんな言葉だった。


「あの、恐らく、『光栄です』と言うのが相応しいと思うのですが……」


 言い淀むスウリに、オルディーンは首を傾げる。


「うん?」


「ですが……。その、私は父が出来るのが初めてで、その、どうしたら良いのか……」


 本気で途方に暮れているスウリに、オルディーンは優しく微笑んだ。


 細くて白い手が、スウリの頭を静かに撫でる。


「素直な子だ。あの子の、ノールディンの心を掴んだのは、その素直さかな? それとも、その真っ直ぐな瞳かな?」


 オルディーンを『皇帝陛下』と知りながらも、出会ってから一度もスウリは彼から視線を逸らしたりしなかった。


 普通はその身分に恐れ入ったり、このあからさまに弱った体に対する同情や蔑みを誤魔化したりする為に視線を下の方に落とすものだ。


 けれどスウリはそうしない。


 オルディーンの心にすとん、と彼女は可愛らしい存在として受け入れられた。


「ねえ、スウリ」


「はい」


 語りかければ、美しい瞳がこちらをひたむきに見つめて来る。


 自然とオルディーンの頬は緩んでいた。


「ノールディンを宜しく頼むよ」


 きょとん、と瞬く姿はどこか幼さを滲ませる。


 こんな少女に、二十歳も過ぎた息子の事を『頼む』なんて変な話だ。


 オルディーンの胸中にそんな想いが過る。


「あの子は母親に似て不器用で、私に似て鈍いから、貴女を傷つける事もあるだろう。それでも、どうかノールディンの傍らに居てあげて欲しい」


 変な話だろうと何だろうと、オルディーンは息子が自ら望んだこの少女が、彼を支えられると信じていた。


 あまり表に出る事の無い皇帝だったが、それでも貴族の中にある浅ましい欲は理解しているし、それが息子を煩わせているのも知っている。


 そして、そのせいでノールディンは女性を遠ざけて来たから、彼は一生独身か愛の無い結婚をするかのどちらかだろうと危惧していた。


 自分は後者で、それでも幸運にも皇妃となった女性を愛する事が出来た。


 だがノールディンは結婚したとしても、妻に心を許せるとは思えなかったのだ。


 それが、どうだ。


 クゥセルに聞けば、スウリに初めて会った時からノールディンは彼女に夢中で、彼の目の前で熱烈な求婚をしたと言うでは無いか。……まったく想像はつかないが。


 頭を撫でてから目の前まで降りて来た手を、スウリはそっと握った。


 ひんやりと冷たい手が、何だか彼が今にもここから消え去ってしまう象徴の様で、彼女は恐ろしくなった。


 少しでも熱を与えようと、無意識にその手を両手で弱い力でさすっていた。


 そして言葉を紡ぐ。


「ノールは、あっ。ノールディン様、は……」


「ノールで良いよ」


 自分の手をさするスウリの動きを不思議そうに見ていたオルディーンは、彼女の言い直しを遮ってその手を握り返した。


 そして、照れくさそうに微笑む少女を、暖かく見守る。


「……ノールは優しい人です。私は、彼がとても好きです」


 薄暗い室内でも、スウリの頬が僅かに赤らんでいるのがわかった。手の平も熱くなっている。


 それを知って、ますますオルディーンは瞳を和らげた。


「彼はいつも自分を殺して努力をしているように見えます。だから私は彼を支えられるような、そんな人になりたいと思っています……」


 彼女の頬はますます熱を持ち、居たたまれなくなったスウリは身を縮ませて視線を落とした。


 ゆっくりゆっくりとオルディーンは息を吐いた。


 安堵の息だった。


「ありがとう、スウリ」


 ぱっ、と彼女の顔が上がり、小さく首を振る。


「いいえ、いいえ。お礼なんて必要ではありません。私がそうしたいだけです、…………お父様」


 少しの逡巡の後で、言い慣れない様にぎこちなく、スウリはオルディーンをそう呼ぶ。


 すると彼の顔はとても嬉しそうな笑みを浮かべた。





 ノールディンが水を持って戻って来た時、オルディーンはスウリの手を離さないまま、彼女と何気ない会話を続けていた。


 もう一つ椅子を持って来て、彼はそこに腰掛ける。


 そして、ただ黙って二人の会話に耳を傾けていた。


 団欒めいたそんな時間は長くは続かず、オルディーンの疲れが見えたところで、スウリ達は部屋を立ち去った。


 その数日後、皇帝オルディーンは眠る様に息を引き取った。


 結局、公式の場で、彼とスウリは父子の関係となる事は無かった。


 けれど、ほんの僅かな時間でも、間違い無く彼はスウリの愛する『父』となったのだ。









 旧き物語、『約束の指輪』で、闇帝が英雄王バルスに問う一節がある。



『闇の奥に横たわりし幸明、其は何ぞ……』


『其は、光の父たらん』



 ――闇の、私の、その奥に横たわる、幸せの様なあの明かりは何だ……?


 ――それは、光の父、そして貴方の父であろう。









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