78.終章
時は等しく重ねられ、帝国は穏やかな日々を謳歌していた。
そんなある日、午後のお茶の時間になろうかという頃、皇帝執務室に皇太子シエルディーンが訪れた。
書類にサインする手を止めてノールディンが顔を上げると、十六歳になったシエルディーンは扉の前に立っていた。
「……どうした」
言葉少なにノールディンが問うと、シエルディーンは柔らかく微笑んだ。
容貌は父親にそっくりだが、その微笑み方は父親のものとも母親のものとも違う。人によっては、皇妃フェリシエに良く似ていると言う。
その筆頭が母親である側妃ユーシャナだった。
彼女や、皇妃フェリシエを慕う者達は、時折シエルディーンを彼女の生まれ変わりの様だと言ったものだ。
そんな穏やかな笑みで彼はあっさりと言った。
「そろそろ皇帝位を譲りませんか、陛下」
不快ではなく、不可解で、ノールディンは顔を顰めた。
「なんだと?」
これまでそんな素振りを欠片も見せなかった皇太子が突然こんな事を言い出せば、誰だって似た様な反応をしただろう。
確かに次期皇帝として相応しい様に教育はしてきたし、シエルディーン自身にもその自覚と責任が芽生えているのは知っていた。
だが、彼はまだ十六歳だ。
故に、ノールディンは譲位を行うのは早くても数年先の事と考えていた。
「陛下がこの国を愛し、その為に粉骨砕身していらしたのは知っています。そして、これからもそうするおつもりなのも……」
「ならば何故そんなことを言い出した」
椅子の背もたれに背を預け、ノールディンは腕を組んだ。
シエルディーンは小さく首を傾げる。
「そうですね……」
少し宙を眺めてから、再び視線をノールディンへと戻す。
「まずは、私が皇帝という地位、或いはこの国を治めるという行為に、強い興味を抱いているからです」
普通の人間が口にすれば、野心や欲望を意味するであろう台詞も、シエルディーンの朗らかな笑みと共に言われると、そんな俗物めいたものとは無縁に思えるから不思議だ。
そして彼の言葉が暗示するものに、ノールディンも覚えがあった。
父オルディーンが皇帝であった頃、「今この時に権力が欲しい」、「国を動かす力が欲しい」、と望んだ事があったからだ。
「まず、と言うからには、他にもあるのだな?」
尋ねれば、あっさりとシエルディーンは首を縦に振る。
「はい。もう一つは、いい加減、陛下の我慢も限界かと思いまして」
「…………我慢?」
何の事かと内心で首を捻ると、皇太子は爆弾のような一言を告げた。
「フェリシエ様にお会いしたいのでしょう?」
静かに驚きを見せる父親に、シエルディーンは表情を崩さずに相対する。
そして、ある考えが頭に浮かんだノールディンは浅く息を吐き出した。
「……また、ハインセルを脅したな」
その台詞には、流石のシエルディーンも目を見開いた。
「また、とは……」
「私の寝室に黙って入っていただろう。その時に一度、だ」
まだ幼い子ども達がハインセルと共に皇帝の寝室に忍び込んだ後、微かな違和感を得たノールディンは近衛騎士団長を問い詰めた。
彼は隠しきれないと分かっていた為、直ぐに忍び込んだ事実を認めたのだ。
ハインセルの態度から、彼が皇太子や皇女に逆らいきれず、脅されたも同然で侵入するに至った事は簡単に推測出来た。
「ばれていましたか……」
そう言って、シエルディーンはぺろりと舌を出した。
悪びれないその態度に、ノールディンは渋面を作る。
「その後も何度か忍び込んでいたのはお前だな」
にこにこと笑いながら、シエルディーンは「僕の初恋はフェリシエ様なのです」などと言ってのける。
「それで、フェリシエのことも、か」
話を戻すと、皇太子は頷いて見せた。
「そうです。陛下は今でもフェリシエ様だけを愛していらっしゃる。だから、少し、例の一件に疑問を抱きまして。ハインセルには丁重に聞いたつもりですよ?」
シエルディーンは、両親の間に男女の愛情が無い事に気が付いていた。むしろ、二人はある種『同志』の様な関係だと感じていたのだ。
ならば皇帝ノールディンが想う人とは誰か、と考えれば、それは皇妃フェリシエ以外にいなかった。
そうして彼は皇妃フェリシエの一件に疑問を持つ事になる。
もしも隠された真実があるとすれば、それを知るのはノールディンと皇帝付き近衛騎士団長ハインセル・イマジア以外にいない。シエルディーンがそう結論付けるのは全く自然な流れだった。
実際、この城の中で皇妃フェリシエの一件の真実を知るのはノールディンとハインセルの二人だけだ。
港湾都市オンドバルで行動を共にしていた近衛騎士団長に全てを隠す事など決して出来なかった為、概要だけは話してあった。
しかし、どうしたらこんなに強かな皇太子になったものか、とノールディンは我が子をうっそりと見る。
彼の微笑みは変わらない。
その奥にある決意と信念もまた然り。
問うまでも無く、冗談めかした物言いとは裏腹に、彼は本気で譲位を望んでいるのだ。
「ああ、勿論二年程は私を支えて下さいね。優秀な臣下に囲まれているとは言え、慣れないことは難しいですから」
ここまで言う事に少し緊張していたシエルディーンは、早口でそう付け足した。
それに気が付いたノールディンは立ち上がり、机を回って彼の前に立つ。
「その二年の後は?」
そう聞けば、シエルディーンはあと少し父には足りない身長で胸を張った。
「どうぞ、お好きに」
まあ、そう易くはいかないだろうが、『自由になれ』と彼はそういう意味を持って言った。
ノールディンは苦く笑う。
「私は、決してお前たちの父親に相応しくは無かっただろう」
彼はどうしても自分の父親のようには、子ども達と接する事が出来なかった。
飽くまでも、皇帝と皇太子と皇女。私的では無く公的な態度しかとれなかったのだ。
すると、シエルディーンは目を細めて首を振った。
「いいえ。母上が亡くなられたあの日、陛下はフェルを、フェルディーナを抱きしめて下さった。私にはそれで十分でした」
何処までも皇帝であったノールディンが、泣きながら眠り込んでしまった妹を抱き上げて寝室まで運んでくれた事があった。
母親を亡くしたその時に、侍従や侍女では無く『皇帝ノールディン』がそうしてくれた事は、シエルディーンにとって彼を父親として慕うに足りる光景だったのだ。
それまでは希薄だった父親という存在が、彼にとって身近に感じられた大切な出来事だった。
「……そうか」
一つ瞬きをしたノールディンは、シエルディーンを見下ろして小さく笑った。
「ならばアンジェロに行って来い」
その言葉に、シエルディーンは驚いた。
「不要な慣例だと思っていたのでは……?」
以前、騎士団総長ゴールゼンや先代のオルナド・バーリク伯爵がそんな事を言っていたのを思い出して聞くと、ノールディンはくるりと彼に背中を向けて机に歩み寄った。
机の引き出しから紙を何枚か出して、そこに書き付けを始める。
そして、言った。
「何事も経験と言うだろう。……出来るうちにやっておくべきだ」
ところが直ぐに、ふっ、と彼は笑い声を零した。
父親には珍しいその行為に、シエルディーンは目を丸くする。
「まさかゴールゼンと同じ台詞を自分が口にするとは思わなかったな……」
ノールディンは、自分が要塞都市アンジェロに赴く事になった時、「出来るうちにやっておけ」とゴールゼンに言われたのを思い出したのだ。
ゴールゼンなら平気でそんなことを言いそうだと思ったシエルディーンも、思わず笑ってしまった。
要塞都市アンジェロでの半年間を経て、皇太子シエルディーンは皇帝となった。
彼は、父ノールディンのやり残した事業を引き継ぎ、皇妃フェリシエの残した構想を実現するべく尽力した。
その結果、皇帝シエルディーンの治世で、帝国はフォール大陸で文化的にも技術的にも最も発展を遂げた国となる。
一方で、彼は妻と子を慈しむ良き夫、そして良き父としても知られた。
自身の寝室に度々子ども達を招き、そこに飾られた美しい絵を見せ、柔らかに微笑みながらこう言ったという。
「この方こそが、民の望んだ皇妃、フェリシエ様だよ……」と。
〜 完 〜
これにて『民の望んだ皇妃』本編は完結となります。
此の度は、拙作『民の望んだ皇妃』の本編を最後までお読み頂き有り難う御座いました。
番外編を数話投稿した後で、完結済とさせて頂きます。
正直に言いますと、長編と言える様な作品を完結まで書いたのは、この作品が二作目になります。(※一作目は公開していません)
一度思い立つと勢いに任せて書きだしては途中で飽きる、という事を繰り返して来た私にとって、『民の望んだ皇妃』を最後まで書き上げられた事は奇跡か何かのようです。
本当に、読んで下さった方々の応援に背中を押して頂いて、それでようやく書き上げられたのだと実感しております。
ですが、現状が最善の内容だとは思っていません。力不足を実感していますが、これが今の私に書ける精一杯でした。いつか私が少しでも成長出来た時に、もっと良い話に出来ればと思います。
お気に入り登録・評価・感想を下さった皆様、ランキングタグをクリックして下さった皆様を含め、この作品に、そして私に関わり、支えて下さった皆様に、心より感謝致します。
(二月九日時点でのお気に入り登録件数は5,810件、評価人数は674名、総合評価は17,800ポイント強、感想を下さった人数は152名、ユニークアクセス人数は1,300,000名強となっております)
※『物語のご案内』という作品の方で『後書き』を掲載しています。
この『後書き』では、『民の望んだ皇妃』を書くに至った経緯や裏話、本編では使用できなかった裏設定などを徒然に書いていきます。
ここで書かなければ、一生明かさないと思いましたので、書いてみました。(ちょっとおおげさですか……。笑)
注意事項としては、本編の雰囲気を壊す記載が多いという点があります。本編の雰囲気を壊したく無い方は是非是非お避け下さい。