77.夢現
幼い頃、母様が遠くを見る様にして大切そうに話すから、僕は『その人』になりたいと思った。
城の皆がその人の事を知っていたから、僕が『その人』に近づくのは簡単だった。
話し方を知りたければ侍女に聞けば良かったし、笑い方を知りたければ肖像画を見れば良かった。どんな花が好きかは庭師に聞けば良かったし、どんな仕事をしていたかは騎士に聞けば良かった。
その人を真似ると、母様は微笑んだし、皆が懐かしそうに目を細めた。
……でも、誰もが、何処か悲しそうでもあった。
『シエルディーン、私の王様』
細やかな愛情を感じる柔らかい声音が彼を呼んだ。
その声に導かれ、シエルディーンは幼い足を動かして母に駆け寄った。
『母様』
足元にしがみつけば、ソファに座る彼女はシエルディーンの脇を持ち上げて膝に抱き上げてくれる。
そうしていつもと同じ様に優しい表情を浮かべて彼の髪を撫でながら、語りかける。
『シエル、フェリシエ様のお話は覚えている?』
何時もお伽噺の様に聞かされる『その人』は、幼いシエルディーンにとって父である皇帝陛下より良く知っている人物だった。
『はい、母様。優しくてお強い方です。えっと……』
シエルディーンは最近習いたての言葉を必死で思い出した。
『そう、完璧な方です!』
母に褒められたいと、彼はその言葉を口にした。
けれど母、側妃ユーシャナは緩く首を振った。
『いいえ、シエル。あの方は決して完璧では無かったわ。成功もするし失敗もする。喜びもするし悲しみもする』
『……普通です』
きょとん、と瞬いて、シエルディーンは言った。
今まで聞いていた話では、まるで『約束の指輪』に出て来る英雄王バルスのお妃様みたいな人だと思っていた。勇敢で、何にも失敗せず、皇帝陛下をお助けしていたのだと。
そんな息子の反応に、ユーシャナは苦く笑った。
『そうね。……私もずっと、あの方は完璧な皇妃様なのだと思っていたわ』
膝に大人しく乗っている息子と瞳を合わせて、彼女は複雑な表情を浮かべた。
いつも母と一緒にいるシエルディーンも正面から見るのは初めての表情だった。
『シエル。完璧な方と、完璧であろうとする方は違うのよ。あの方は完璧であろうと努力する普通の女性だった。だからこそ、私たち貴族には見えないものを見て、知り得ないものを知ろうとする事が出来たのだと思うわ』
……難しいかしら?
彼女は小さな顔を覗き込んで、首を傾げる。
シエルディーンは、母の真摯な眼差しを受けて、懸命に考えた。
けれど、良くわからない。
『ごめんなさい、母様。よくわからないです』
眉を下げてしょんぼりとしたシエルディーンに、ユーシャナは再び優しい微笑みを浮かべた。
『気にしないで、きっと、いつか分かる日が来るわ』
息子を胸に抱き締めて、彼女は歌う様に囁いた。
『初めから完璧で強い方なんていらっしゃらない。弱さや脆さを知って、そこから優しさや強さを身につけた。そういう方だったから、私はあの方をお慕いし続けているの。……シエル、可愛い子。あの方にならなくってもいいの。貴方は貴方の優しさと強さを身に付けてくれればいいのよ』
それから十年もたたないある春の日こと。
シエルディーンは焦って早足で城の廊下を歩いていた。
ずっと手を握っていた筈の妹の姿が、少し目を離した隙にいなくなっていたのだ。
幼く、母に甘えてばかりいた妹だ。
愛する母親を亡くしたことさえ良く分かっていない様子だったのに、唐突にいなくなってしまったのだ。
フェルディーナの部屋もお気に入りの小部屋も見たが、彼女はいない。
最後はここか、とシエルディーンが訪れたのは、小さな庭園だった。
春の花が淡い色のグラデーションを作り、溢れる緑に満ちたその庭は、皇妃の居室の外に作られたプライベートな庭園だった。
この世界を去って久しい彼の人を慕う庭師が、変わらぬ風景を残す為に手を尽くしている場所だ。
そんな美しい庭園の真ん中に、膨らんだ蕾を付けた薔薇のアーチがあった。
シエルディーンはそこまで辿り着いて、細く息を吐き出した。
まだ生け垣に隠されたそのアーチの下にはベンチがあって、そこもフェルディーナのお気に入りの場所だ。ここにもいなかったら、今度こそお手上げなのだ。
僅かな緊張感を保ちながら彼は足を進めた。
すると、人物の頭が見えた。
「フェルっ!」
妹の名を呼びながら足を速めると、そこにいたのは小さな妹では無く、一人の女性だった。
淡色のドレスに身を包み、瞳を僅かに伏せている。
その姿に、シエルディーンは見覚えがあった。
しかし、あまりにも想定外の人物に、彼は瞠目して、口を開いて固まってしまった。
女性は、直ぐに彼に気が付いた。
顔を上げて、大きな瞳でシエルディーンを真っ直ぐに見る。
すると、彼女はその美しい瞳を一層大きく見開いた。
「……………………」
声にならない声で何事か呟くと、彼女は、皇妃フェリシエはぱちぱちと瞳を瞬いた。
それから、ほんの少し間を置いて彼女は唇に笑みを浮かべた。
「……フェルというのは、この子の事かしら?」
膝元に落とされた彼女の視線を追って、シエルディーンはそこに妹が横たわっている事に気が付いた。
「フェルっ!」
駆け寄ると、フェリシエが「しーっ」と唇の前に指を立てた。
「さっき泣き疲れて眠ってしまったの」
確かにフェルディーナはこちらに顔を向けて寝息をたてていた。
その瞳は赤く腫れぼったい。
床に敷かれたタイルの上に膝を付いて妹の顔に手を伸ばしたシエルディーンは、彼女の頬を撫でた。
何度も擦ったのだろう、僅かに熱を持っているのが痛々しい。
そっと視線を上げると、穏やかな表情でフェルディーナの髪を撫でるフェリシエと目が合った。
「あ、あの、妹はずっとここに?」
思わず上擦りながらシエルディーンが尋ねると、フェリシエは静かに頷いた。
「ええ、多分。私が彼女を見つけたのはつい先程だけれど、その時にはすっかりくたびれてしまっていたわ」
悲しみでいっぱいの妹に両手を差し伸べるフェリシエの姿は容易に想像がついてしまった。
一人ぼっちで泣かせてしまった事に不甲斐なさを感じて、シエルディーンは俯く。
そこに少し強い風が吹いた。
片手で髪を押さえたフェリシエは空を見上げた。
「風が冷たくなって来たわ。……このままではこの子が風邪をひいてしまうわね」
そう言うと、眠るフェルディーナの身体を抱き上げた。
危なげなく小さな身体を胸に抱いて、彼女は立ち上がる。
その様子に慌てたのはシエルディーンだ。
「あ、僕がっ」
妹を連れて行きます、と言おうとするが、それはフェリシエの小さな仕草で遮られる。
「大丈夫。代わりに、ベランダのドアを開けてもらえるかしら?」
柔らかに頼まれて、それを否とは言えなかった。
歩き出した彼女について行き、皇妃の居室に続くガラスドアを開くと、フェリシエは迷いも見せずにフェルディーナを寝室へと連れて行った。
「……皇妃、様」
少女の身体に掛布をのせたフェリシエは、シエルディーンの呼び掛けに振り向いた。
「なあに?」
ベッドの端に腰掛けて、やはり彼女は微笑んでいる。
その笑みに、シエルディーンは違和感を抱いた。
幼い頃から見て来た肖像画にそっくりだ。けれど、皇帝陛下の寝室にある絵とは全く違う笑みなのだ。
「どうして、僕らを怪しまないのです」
どうして、固まった様な笑顔を浮かべているのです。
もう一つの問いは、流石に口にするのを躊躇われる。
すると、フェリシエの表情が一変した。
あどけなさを覗かせる、きょとんとした顔。それから、ぱっと、花咲く様な笑顔になったのだ。
そして、くすくすと笑い出す。
「……………………」
言葉も無く呆然とするシエルディーンに、「ごめんなさいね」と彼女は言った。
一頻り笑うと、胸に手の平を乗せて、自分を落ち着かせる様に深呼吸をする。
「はあ……。本当に、急に笑い出してしまってごめんなさい」
「いえ、あの……」
「貴方の問いに答えるわね」
その一言に、シエルディーンの背筋がしゃんと伸びた。
彼の様子に、フェリシエはますます相好を崩した。
「疑う余地がね、ちっとも見当たらないの」
「…………?」
黙って首を傾げるシエルディーンに、フェリシエは手を伸ばす。
「目を見ればわかるわ。貴方達は嘘なんてついていないし、私を騙そうとも思っていない」
細く柔らかい指が彼の頬を撫でた。
じんわり伝わる温もりに、シエルディーンは一瞬、すがりつきたくなった。
自分の内に沸き上がった衝動に戸惑いながら、彼は問いを重ねた。
「嘘?」
そこでフェリシエは笑みを消した。
「……お母様が亡くなったのでしょう? そんな嘘を吐く子達には見えないもの」
泣きじゃくりながらフェルディーナはこう言ったという。
『お母様、もう、フェルといてくれないって、侍女が言うの! お母様、眠ってしまって、それで、会えなくなっちゃうって!』
すっかり枯れた声で少女はそう繰り返したのだという。
「フェルは、たくさん泣きましたか?」
こんなに瞼が腫れているのだからそうに決まっていると、分かっていても、シエルディーンはそう聞いていた。
痛ましそうに伏せた瞳でフェルディーナを見下ろして、フェリシエは頷いた。
「ええ」
そして再びシエルディーンを見上げると、彼女は少年の瞳を見つめた。
「貴方も、泣いているわ」
その言葉に、彼は瞠目した。
シエルディーンの目に涙は無いし、母が亡くなる前から、泣く事などすまいと決めていた。
「……僕は、泣いていません」
力無い反論だけが、口から漏れた。
フェリシエは首を振る。
頬に当てていた手をシエルディーンの胸に当てて、囁く。
「心が……」
今度はシエルディーンがそれに首を振った。
「そんな訳は無いです。僕は皇太子です。フェルみたいに、子どもみたいに泣いてはいけないんです。皇太子に相応しい態度を取らなくてはいけないんです!」
語気強く言い放ったシエルディーンは、大きく息を吐いた。
そんな彼の頬をフェリシエの両手が包み込んだ。
大きくて真っ直ぐな光がシエルディーンの瞳に飛び込む。
「大切な人を亡くして悲しむ想いに、大人も子どもも、皇太子も皇帝も無いわ。泣いたっていいし、泣かなくたっていいのよ。悲しみの表現は人それぞれだもの」
熱を感じる指先がシエルディーンの目元をなぞった。
「でもね、きちんと悲しんで、その後で前を向く為の力を溜めるの。だから、今は、少しだけ頑張るのをお休みしましょう、ね?」
こつん、と額と額が合わされる。
俯いた拍子に、シエルディーンの瞳から雫が落ちた。
「母様が……」
「ええ」
「死んでしまいました」
「……ええ」
「僕は、貴方になりたかった。そうしたら、母様が喜ぶと思って」
「…………」
シエルディーンの言葉の意味は、フェリシエにはわからなかった。
それでも、この少年が母親を愛して、彼女の為に努力をした事は伝わった。
かつて、泣いてばかりいた母の為に『泣かない』と決めた自分の様に……。
「でも、母様は悲しそうで、……僕は間違えてしまったんだ、きっと。母様は、僕みたいな子どもがいて、良かったのかな? 僕は母様の誇れる子どもだったのかな?」
消え入りそうにそう言った。
シエルディーンがこんな事を口にしたのは初めてだった。
周囲が側妃としての母親に求めているのは、皇家の血筋を繋ぐ事だと、ぼんやりと理解していた。
その務めを懸命に果たそうとしていた母の息子として自分は相応しいのか、皇太子として、皇帝の後継としてこれで良いのか。
押しつぶされそうなプレッシャーの中で、シエルディーンには母の死を素直に悲しむ余裕は無かった。
黒々とした感情が胸に滞る。
その時、ぐい、と顔が上げられた。
そこには穏やかな表情を浮かべるフェリシエの顔があった。
「貴方のお母様は、我が子を心から慈しんでいたわ。それは、貴方達を見ていればすぐに分かる事よ」
きっぱりと、彼女は言い切った。
「フェルはお母様の為に精一杯悲しんでいたわ。そんな風に出来る程の愛情をきちんと注がれていたのよ。……私になる必要なんて無い。シエルディーン、貴方はただ貴方であればいい」
幼い頃、母に言われた言葉が胸に蘇る。
『あの方にならなくってもいいの。貴方は貴方の優しさと強さを身に付けてくれればいいのよ』
溢れ出した涙が止まらない。
喉の奥に詰まった嗚咽が零れる前に、シエルディーンは抱き寄せられた。
「かあさま、大好きです……」
「…………」
フェリシエは黙って頷いた。
シエルディーンは、『私も愛しているわ』と母に言われた様な気がした。
「ここにいたのか」
低い声が頭上に聞こえて、はっとシエルディーンが顔を上げた。
そこは薄暗い室内で、幾度か忍び込んだ皇妃の寝室であることはすぐに気が付いた。
きょろ、と視線を動かすと、彼が寝ていたベッドの縁に父である皇帝ノールディンが立っている。
黒い喪服を身に纏い、その瞳には変わらない怜悧な色が浮かんでいた。
「ち、ちちうえ……」
僅かに動揺しながらも、シエルディーンは彼を呼んだ。
「侍女や騎士が探しまわっていたぞ」
「すみません……」
悄然と呟いて、そこで妹の事を思い出した。
「フェルっ」
慌てて振り返ると、掛布に包まったフェルディーナがすぐ傍で眠っていた。
ほっと息を吐いて覗き込んだその顔は先程よりずっと安らかで、更にシエルディーンは胸を撫で下ろした。
このままここで寝かせてあげる事は出来るだろうかと思って、彼はすぐにその考えを打ち消した。
ノールディンは皇妃フェリシエの遺したものに手を触れられるのを嫌うのだ。
現に、皇妃の居室も庭園も、彼女がいなくなって久しい今でも必要な手入れを除けば当時のままに残されている。
フェルディーナがここで眠り続ける事も好まないだろう。
「父上、侍女か侍従を呼んで来るまでフェルを少し寝かせてあげてもいいでしょうか?」
今すぐ起こせと言われないか気にしながら、シエルディーンは父にそう尋ねた。
すると、彼は片眉を僅かに上げる。
そしてこう言った。
「呼ぶまでも無い。私が連れて行こう」
「えっ?」
シエルディーンは耳を疑った。
父帝ノールディンは基本的に子ども達に関心が無い、と彼は思っていた。
自ら後宮に足を運ぶ事は殆ど無く、ユーシャナに連れられて挨拶をする程度の関わりしかない。
シエルディーンもフェルディーナも、皇帝ノールディンが父親であるという意識、更に言えば父親がいるという意識は薄かった。
ところが彼はシエルディーンの困惑を置き去りに、さっさとフェルディーナを敷布に包んだまま抱き上げてしまった。
「ここは侍女の手が足りん。フェルディーナの部屋の方が余程休まるだろう」
「…………」
意外な程、ノールディンはフェルディーナを丁寧に抱いていた。
彼女は目覚める事無く、父の肩に頭をもたれてすうすうと可愛らしい寝顔を見せている。
呆然としたまま、シエルディーンは二人を見上げた。
すると、ノールディンが彼を見下ろして、怪訝そうな顔をする。
「どうした、部屋に戻るぞ」
「は、はい!」
その言葉に、わたわたとシエルディーンはベッドから降りて、父に近づいた。
けれど足はその少し手前で止まった。
俯いた彼に、ノールディンは首を傾げた。
どうした、と声をかけられる前に、シエルディーンは口を開いた。
長身の父を見上げる顔に浮かぶのは、ほんの少しの遠慮と、確かな決意。
「父上、いえ、……陛下。お聞きしたい事があります」
その真摯な様子に、ノールディンは表情を少し改めた。
娘を抱いたまま、シエルディーンを正面に捉えて見下ろす。
「母様は、……いえ、母様を、どう思っていますか?」
息子からの問いを受けて、ノールディンは暫し黙った。
そして、おもむろに膝を折る。
シエルディーンと視線を同じくして、彼は口を開いた。
「不足無き側妃だった」
迷いの無いその台詞に、シエルディーンは息を呑んだ。
「子を産み、慈しんだ。……私の認識は間違っているか?」
最後の問いは疑問では無く確認だった。
シエルディーンは大きく首を振る。
自分たちが母に愛されていなかったなんて、そんな事は有りはしない。
間違い無く、彼女は全力でシエルディーンとフェルディーナを愛して守ってくれていた。
「いいえ。お答え頂き有り難うございます、父上」
軽く頷いて、ノールディンは立ち上がった。
そのまま皇妃の居室を出て行く。
シエルディーンは振り返った。
夕日が差し込む、静かな部屋だ。
そこに人の気配は無い。
けれど、暖かくて美しいあの人の笑みがほんの少し残っている、そんな気がする。
そして、夢とも現ともつかない思い出を胸にしまって、シエルディーンは部屋を後にした。