75.奏功
ノール……
ノール、起きて……
柔らかい声が、夢うつつのノールディンを呼ぶ。
一瞬、脳裏に、現実にあった出来事とそれを見た夢とが甦る。
美しい緑の光景が頭の中を駆け巡り、しかし今度はあの時の様にはならなかった。
ぱちり、と彼は自分の力で瞳を開く事に成功したのだ。
眩しい光と、逆さまにこちらを覗き込む顔が見える。
「わっ……」
上からノールディンを見下ろしていた顔は驚いて、目を見開いた。
それから苦笑を浮かべる。
「相変わらずの起き方ね」
呆れた様に言う。
その頬に、ノールディンは手を伸ばした。
暖かなその感触に指を滑らせると、スウリはくすぐったそうに目を細める。
「……どうしたの?」
穏やかな問い掛けに、ノールディンはぼんやりと呟いた。
「夢、かと思った……」
「夢?」
尋ねて来る彼女に小さく頷いて、ノールディンは体を起こす。
「昔、こういう夢を見た。エダ・セアの森でスゥリに起こされる夢だ」
「ふうん……」
「起きて、話をして。だが、それは、昔の光景を夢に見ただけだった」
ベッドから足を下ろして靴を履きながら、ノールディンは言った。
それを眺めながら、スウリは静かに彼の言葉を聞いていた。
靴を履き終えたノールディンは立ち上がり、彼女に歩み寄り、再び指を伸ばした。
「夢では無くて良かった」
目元を掠めるその指先を厭う事無く受け入れて、スウリは笑う。
「朝食が出来ているわ。食べるでしょう?」
「寝過ごしたか?」
少し眉を下げてノールディンが問うと、彼女はくるりと背中を向けた。
「長旅で疲れている時くらいは仕方が無いわ」
それから顔だけ向けて、スウリは悪戯する様に笑った。
「でも、これからはがんがん扱き使うんだからね!」
ノールディンも自然と目元を緩めて言った。
「好きに使え」
朝食を終えると、スウリは早速ノールディンに食器の洗い方から教え込んだ。
手先が器用なノールディンは手順をあっさりと覚えて、直ぐに彼女の手伝いを必要とはしなくなった。
その後はのんびりとしたものだ。
暖炉に火を入れて、暖かな居間で思い思いに本を読んでいる。
スウリの家は実にこじんまりとした平屋で、居間と食堂が兼用で、その隣に台所、後は風呂場にトイレ、寝室が二つあるだけだ。
この家について、ノールディンが呆れた事は一つだった。
それは、山の様な本たちだ。と言うか、まさしく山を為している。
玄関から真っ直ぐに家を貫く廊下、スウリの使っていない寝室、どこを見ても本、本、本だらけなのだ。
本棚に納まり切らずに何十冊と積まれた本の山は、何かの拍子に雪崩でも起こしてしまいそうだった。
スウリはそんな山の中から目当ての本を掘り出しては、黙々と読み続ける。
何かする事は? とノールディンが聞けば、「冬支度は男手が帰って来てからするから、今は特に無いわ」と答えられてしまい、だから彼も目についた本を手に取って読むくらいしかする事が無かった。
ノールディンが長椅子の片端に座って、「何故こんなものが居間にあるのか」と首を傾げながら、兵法の本を流し読みしていた時だ。
ふと、肩に重みを感じた。
見れば、スウリがノールディンの肩に背中を預けている。
彼女は長椅子に横向きに腰を下ろしてい、その膝には三冊の本があった。
それらを代わる代わる開きながら、スウリは何事かぶつぶつと呟いている。
考え込む時の癖である、人差し指を唇に持って行く仕草が出ている事実からも、彼女が『仕事中』である事は明白だ。
長椅子の、ノールディンが座っている側にクッションが積んであったのは、どうやらスウリがいつもこういう姿勢で思索に耽っているからのようだ。
もしかしたら、彼がそこに居る事も忘れているのかも知れない。
実際、ふとスウリは立ち上がり廊下側の壁にある棚から筆記具を持って戻ると、元の姿勢に戻って書き付けを始めてしまった。その間、全くの無言である。
長椅子に戻って来たスウリを眺めていたノールディンも、小さな笑みを漏らして、手元の本へと視線を戻した。
そんな風に穏やかに時を過ごしていると、ある時、窓の外がにわかに騒がしくなった。
ぱっと顔を上げたスウリは立ち上がり、窓辺に寄る。
「……なんだ?」
彼女の背後から外を見たノールディンが不審に思って聞くと、彼女は明るい表情を浮かべて言った。
「さっき言った男手が帰って来たのよ。意外と早かったわ」
スウリの声が弾んでいる。
何だか少し、面白く無い思いがノールディンの胸に浮かんだ。
それを大人しくさせて、彼は外套を手に外に行こうとするスウリを追う。
すると彼女は足を止めて、くるりと振り返った。
「ノール、それを持って行って」
スウリが指で示したのは、壁に立てかけておいたノールディンの愛剣だ。
何故、帰って来た村の男たち相手に剣が必要だと言うのか。
ノールディンは疑問を抱くが、スウリはただ剣を指差すばかりだ。
だから彼は黙ってそれを手にして、彼女の後に続いて家を出た。
家の前に広がる広場には数十人の人間が既に居た。女性が多い。後は子どもと老人が数人、それからまだ幼さの残る少年たちだ。
スウリと一緒に広場に足を踏み入れたノールディンに送られる視線は多かった。
彼は人に見られる事に慣れている為、大して気にも止めていなかったが、周囲はそうでは無いようだ。ひそひそと話を交わしたり、その秀麗な顔をまじまじと見て来たりする。
誰が先にスウリに声を掛けるか、そんなタイミングを見計らう様な空気が流れ始めた時、一人の少年が森の奥から駆けて来た。
「来たよ! 帰って来たよ!!」
頬を赤く染めた彼は、嬉しそうにそう報告する。
その言葉に、皆の意識は一気に森の向こうへと切り替わった。
やがて、馬と人の気配がし始める。
そこでふと、ノールディンは幼馴染みの事を思い出した。
「そうだ、スゥリ。あの馬鹿はどうしたんだ?」
そう問い掛けると、スウリは、少し視線をさ迷わせた。
「う〜ん。……本人に聞いた方が早いかな?」
曖昧に笑いながら、彼女は森の方に体を向けた。
最初に姿を現したのは、騎乗した青年だった。精悍な顔立ちに、鋭い瞳が印象的だ。馬の足元には、付き従う様に大きな犬がいた。
青年と犬の後から、次々と男達が広場に入って来る。全部で二十人ばかりだろうか。
村の住人たちが彼らに駆け寄る。
それぞれ家族毎に輪を作る様に集まって行った。
その輪に入らなかった青年が、馬の上で視線を巡らせる。
皆が皆、彼に声を掛け、青年はそれに笑みを持って答える。
やがて彼はその視線を一カ所に止めた。
視線の先には、スウリがいた。
青年の足元の犬が先に彼女の元に寄って来て、体をすり寄せた。慣れた仕草でスウリも犬の首もとを撫でる。
「お帰り、トーガ」
犬は甘えた声をあげる。
その様子を見て馬を下りた青年は、こちらに歩み寄りながら口を開こうとして、直ぐにノールディンに気が付いた。
瞳が更に鋭く尖りを帯びる。
じりっとした緊迫した空気が流れる。
がしかし、その空気を能天気な声がぶち壊した。
「あれ〜、ノール?」
近づいて来るのは、案の定というかなんというか、クゥセルだった。
こちらもあまり容色に変わりは無い。いや、頬に傷が増えているが、ノールディンには違いはそのくらいに見えた。
「お前、何時こっち来たんだ?」
十数年のブランクも何のその。
昔と変わらぬ調子でクゥセルは話しかけて来る。
「クゥセル。……っ!」
昨日来たばかりだ、とそう言おうとした瞬間、風が走った。
ノールディンは咄嗟に左手を上げて、持っていた鞘入りの剣を眼前に持ち上げる。
がきんっ、と固いもの同士がぶつかる音が響いた。
間を空けて、女性の悲鳴じみた小さな声と、男の低い怒号、いや、歓声が上がった。
「あいつ、頭領の不意打ちを防いだぜ!」
「すげぇっ」
因みに、スウリとクゥセルの反応はこうだ。
「ふむ?」
「おおう。過激だね〜」
上部からの圧力を腕力で凌ぎながら、ノールディンは声を低めた。
「……何のつもりだ」
答えるのは、切り掛かって来た鋭い瞳の青年だ。
「お前、フォール大陸の帝国皇帝、ノールディンだな」
強い力で押して来る彼の剣戟は鋭かった。彼はかなり強いと、ノールディンは理解した。
そして青年は、その剣の腕と同じか、それ以上の敵意を放っていた。
「元、が付く。だが、だったら、どうした」
認めると、周囲がざわめいた。
ぎんっ、と音を立てて青年は一度剣を引いて、それを振る。
身を切る様な殺気が漂った。
「スウリを泣かせた奴が、今更何の用だ!」
どうやらスウリとノールディンの経緯を知っているらしい、彼の激情が空気を震わせる。
しかしノールディンとて、それに怯むつもりは毛頭無い。
「お前には関係無い」
自分の行為は、全てスウリと自分の間の話だ。口を挟まれる謂われは無い、とノールディンは告げた。
その言葉に、青年は眉間に皺を寄せて、剣を握り直した。
速い。
身体能力自体が高いのだろう、驚くべき速さで一気に距離を詰め、彼はノールディンに切り掛かった。
それを再びノールディンが鞘で防ぐと、青年は絞り出す様な声で言った。
「関係があるから言っているんだ。お前の様な奴は、スウリに近づくなっ」
再び離れると、今度は剣先からの突きが来た。
身を捻って躱すノールディンの動きに、また男達の歓声が響く。
「ひゅう〜。こりゃ、まぐれじゃないぜ」
「やれやれー!」
歓声も次第に、囃し立てる様な声に変わってしまう。
青年の攻撃をいなしながら、ノールディンは顔を顰めた。
「なんなんだ、一体……」
困惑するノールディンの耳に、ぱんぱんっ、という軽やかな音が聞こえた。
青年の攻撃が止んで、彼は数歩後退する。
そして、不満そうな顔でスウリを見た。
彼女は両手を合わせた姿勢でこちらを見ている。
先程の音はスウリが手を打ち合わせた音だったのだ。
「はい。そこまで」
その一言に、青年が険しい顔を曇らせる。
「何故だ、スウリ」
ことり、と首を傾けたスウリはにっこりと微笑む。
「ベル、あんまり私の旦那様をいじめないで頂戴?」
その台詞に、誰もが言葉を失った。
「だん、……だんな?」
完全に困惑した青年が困惑気味に呟く。
ぶはっ、と誰かが噴き出した。
「あははははははははははは! あはははははは!」
腹を抱えて笑っているのはクゥセルだ。
「やっぱ、スウリ、最高!」
自分の膝を叩いては、大笑いしている。
それを見て、奇妙な表情を浮かべた青年はスウリに歩み寄る。
「スウリ……、まさかあいつを待っていたとでも言うのか?」
あいつ、のところでノールディンを睨み付ける。
すると、スウリは満面の笑みでこう答えた。
「いいえ、全然」
呆気に取られた様な顔をした青年の頬に手を当てて、彼女は続ける。
「私は、私の生きたい様に生きているわ。『私』を、生きているの。そこに、昨日からノールが加わったというだけよ」
彼女の意思の強さと頑固さを知る青年は深く息を吐き出し、やがて静かにノールディンへと視線を移した。
ノールディンはその瞳をただ受け止める。
スウリの考えはうっすらわかっていた。
彼女はノールディンの「いずれまた……」という台詞を覚えてはいるが、それを約束だと思ってはいないと。ノールディンが来ようと来まいと、スウリはただひたすらに自分の道を進むだけであると。
そんな彼の思いを読み取ったのか、はたまた諦観の念の様なものを見たのか、青年は小さく肩を竦めると、スウリに向き直った。
「口を出すな、という事か……」
拗ねた様な口ぶりに、スウリは苦笑を漏らす。
「心配してくれたのでしょう? それは有り難う。でも、大丈夫よ」
ぽんぽん、と小さな手の平が高い位置にある肩を軽く叩く。
それからその肩を抱いてスウリは言った。
「ともかく、お帰りなさい、ベル」
屈んでその抱擁を受け入れた青年は「ただいま」と返した。
体を起こすと、彼はそれでも嫌そうに横目でノールディンを見ながらスウリに問い掛ける。
「あいつと住むなら、あの家は手狭だろう?」
それに対して、スウリ頷く。
「そうなの。だから前にベルが用意してくれた家に移ろうかと思って。流石に子どもとか出来てしまうと困るものね……」
特に集中して聞いていた訳では無かったが、最後の一言に、ノールディンは目を剥いた。
まだ笑っていたクゥセルも、「は?」とか言って笑い止んだ。
二人の男からの視線を受けたスウリは不思議そうに首を傾けた。
「……あ。話していなかったわ、ね」
と、困った様に笑う。
その様子に、ノールディンとクゥセルの瞳がある人物を探す。
その人物は直ぐ近くにいた。
夫らしき男性の前に立ち、ウィーティ―を抱き上げてこちらを見ていた。
二人の知己の視線に気が付いたウィシェルは、自分が注目されている事に疑問を覚えて不思議そうな顔をした。
けれど親友の戸惑いの笑みを見て事情を察したのだろう、さっと顔色を変えて俯いてしまった。
直ぐにスウリが間に入る。
「ウィシェルを責めないで。私が頼んだ事だったのだから」
少し間を空けて、ノールディンが恐る恐る問う。
「つまり、子どもは生めるのか……?」
スウリは少し逡巡した後、こくりと首を縦に振った。
肯定の仕草に、ノールディンは全身の力が抜けるの感じた。
剣を支えに、地に膝を付く。
驚いたスウリが傍に駆け寄って来た。
「ノール?」
その細い腕を掴んで、ノールディンは呻く様に言った。
「取り返しのつかない事なのだと気が付いたのは、随分後だ」
「……あの子のこと?」
スウリの問いに、苦しげにノールディンは漏らす。
「喪われた命が戻らないと、知っていた筈なのに、あの時の俺は分かっていなかった」
苦痛も、悲しみも……。
そして、二度と子どもが得られないという絶望も。
絞り出す様に付け加えられた言葉に、スウリはそっと手を伸ばした。
その時、広場に大きな声が響いた。
「阿呆らしい! いちゃつくなら家でやれ!!」
叫んだのは、スウリにベルと呼ばれた青年だ。
目を眇めてスウリとノールディンを見やると、彼は踵を返して広場の外れへと歩き出した。スウリの傍で大人しく座っていた犬も彼を追い掛けて行ってしまう。
二人の挙動に見入っていた周囲の人間たちも、それに釣られる様に各々の家族と共に家路に付き始めた。
クゥセルが、ベルの背中にけたけたと笑いを向けた。
「ヘタクソな気の使い方もあったもんだなぁ」
スウリも顔を上げて、その事を認めた。
「そうね。あの子はいつも不器用だから」
事情が良く飲み込めずに瞬くノールディンに、彼女は立ち上がって手を差し出した。
「続きは家で話しましょう。ベルが気を使ってくれたのよ」
その手を取りながら、ようやくノールディンは合点が言った。
あれだけの人間の前で昔の事を話し出そうとしたノールディンを見かねたベルが、人々の関心を彼らから引き剥がしてくれたのだ。
「後で、礼を言わなければな……」
「そんなものを受け取る様な子じゃないのよ」
くすくすと笑いながらスウリは言う。
「あいつは、スウリにとって、何者なのだ?」
ノールディンが何気無く尋ねると、スウリは「う〜ん」と少し考え込んだ。
そこにクゥセルが口を挟む。
「ベルガウイはスウリの可愛い可愛い息子だよ、な」
「息子!?」
驚いて声をあげるノールディンに、スウリはますます難しい顔をした。
「息子というか、弟みたいというか……。とにかく、大切な家族ね」
「家族……」
呆然と言うノールディンに、スウリは笑った。
「凄く良い子よ。そのうち仲良くして、ね?」
ちゃかす様にクゥセルがまた口を挟んだ。
「お前ら、仲良く喧嘩するんだろうな」
にやにやと笑う彼に、スウリも特に異論は唱えない。
「じゃあ、俺はこの辺で」
またなノール。
そう言ってクゥセルは背中を向けた。
スウリは彼に声を掛ける。
「夕食はベルと食べに来て。沢山作っておくから」
了解、と言う代わりにクゥセルは両手で大きく丸を作ってみせた。
その様子を見送りながら、ノールディンは呟く。
「あいつは何処に住んでいるのだ?」
ぱちぱちと瞬いたスウリは、躊躇いがちに答えた。
「そうね、主に酒場の二階、かしら……」
「主に……」
「主に」
神妙に頷くスウリに、ノールディンは盛大な溜め息を吐いた。
どうやら近衛騎士団長に任命される前の様なふらふらとした生活を送っているようだ。
考え込むノールディンを面白そうに覗き見ていたスウリだったが、やがて彼女は彼に声を掛けた。
「そろそろ私たちも戻りましょう」
「あ、ああ」
ノールディンが歩き出したスウリについて行くと、彼女が見上げて来た。
「さっきの続き、聞かせてくれる?」
懺悔の様な、ノールディンの台詞の事だろう。
ノールディンは戸惑った。
そして、自分には珍しいと意識しながら、萎縮する心を持って尋ねた。
「……聞いて、くれるのか?」
スウリはその問いに、少し淋しそうに笑う。
「そうしないと、きっと私たちは互いを理解出来ないままだもの」
「……そうだな」
静かに頷いて、ノールディンは十数年の間で思った事、考えた事、まだ愚かにも理解出来ていない事を思い起こす。そして、その全てを少しずつでも話す覚悟を決めた。
そんな彼に、スウリが囁く様に言った。
「それから、私の話も、聞いて……」
怖々と瞳を上げて、それでも、はっきりと彼女はノールディンを見つめた。
その瞳に、彼は小さな笑みを浮かべて頷いた。