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民の望んだ皇妃  作者: 界軌
本編
73/85

73.微笑

 スウリがフォール大陸を去ってから三日後、一台の馬車と共に皇帝ノールディンがひっそりと帝都に帰還した。


 夜陰に紛れてその馬車から降りたのはベールを被った女性で、皇妃フェリシエの出奔を知る者達は皇妃が戻ったのだと噂した。 


 ところが彼女は一向に表には出てこない。


 元の侍女達も遠ざけて奥に籠っているのだ。


「陛下、皇妃様はどうなさったのですか?」


 城に戻った翌日の昼、執務室で溜まった書類にサインしていたノールディンに困り果てた顔で言ったのは宰相のドルド・バセフォルテットだった。


 方々から皇妃の件について問い合わされてはそれをはぐらかし続けてきた宰相閣下にも限界が訪れていた。


 どんなに城内で厳命しようとも、皇妃フェリシエが皇帝に離縁を申し出た一件は帝都中に知れ渡っていた。恐らくは、既に主要な都市にも広まっているだろう。


 それも当然だ。皇妃フェリシエを良く思わない人間にとってこれを流布すればする程彼女を追い落とし易くなるのだから。


 何とか皇帝が帰還するまでは、と宰相も尽力したが、通常の仕事や皇妃への贈り物の処理で、宰相執務室はパンク寸前だった。


 そんな宰相に、ノールディンは顔を上げもしないでこう命じた。


「明日、バルコニーに出る。準備を進めよ」


「は……?」


 唐突なその命に、宰相は目を丸くする。


 バルコニーに出る、ということは、民を集めてその前で何事かを発表するということだ。


「こ、皇妃様も出られるのですか?」


「その皇妃の件で出るのだ。当たり前だろう」


 全く姿を見せない皇妃に対して早くも偽物説が出ていた為、ノールディンのその返答は宰相にとって驚くに値するものだった。


 俯いて書類を片付ける皇帝の顔は全てが見える訳では無いが、その冷静な無表情はいつも通りに見える。


「で、では、そのように手配しましょう」


 色々と疑問は残るが、それでも宰相は準備にかかった。


 大きな不安は、バルコニーが面する広場に、詰め掛けた民の全ては入り切らないだろうということだ。


 ああ、皇妃様の近衛騎士の手も借りたい! 


 内心で叫びながら、宰相は自身の執務室へと足を速めた。





 翌日、宰相の予想通り、広場に詰め掛けた民の数は定員の数倍に上り、人々は城壁の外に幾重にも人垣を作った。


 前日の夕方に帝都の各所に知らせの張り紙をさせたのだが、この現状は帝都民の情報網と皇妃の人気の凄まじさが窺い知れるものだった。


「いいか、陛下がまずお出ましになられるから、それまでに人を整理するのだ!」


 バルコニーの脇にある一室で、宰相は部下に向かって声を張り上げた。外の喧噪が室内にまで届いている為、大声を出さないとどうしようも無いのだ。


 指示を受けた部下は待機していた伝令兵にその旨を伝え、彼は上司にそれを伝える為に駆けて行った。


 ふうっ、と一息を吐いた宰相の背後で扉が開き、皇帝が姿を現した。


「もう良い頃合いだろう」


「陛下……」


 彼は普段通りの瞳で窓の外の様子を眺めていた。


 その視線につられる様に、宰相も外に目をやる。


 伝令を送るまでもなく、衛兵達は仕事をしたようだ。広場に入れぬ者達は城門の前で塞き止められ、広場にいる者達は落ち着きを取り戻していた。


「そのようですね。では……」


 右手を胸に当てた宰相は一礼して、背中を向けた皇帝を見送った。


 彼らのいる控えの間を出て、誰もいない廊下を通り、ノールディンはバルコニーに通じる一室へと一人で入る。


 暖かな部屋を歩き、開かれたガラス戸を抜けて、ゆったりと進み出た。


 皇帝の姿を目にした民衆が、こちらを見上げて、それぞれに何事かを口にする。それらは混ざり合っていて良く分からないが、切れ切れに「皇妃様」や「フェリシエ様」といった単語がノールディンの耳に届いた。


 彼は右手を軽く上げた。


 その仕草一つで、広場はしん、と静まり返る。


 広場にいる民衆だけでは無い。城内のバルコニーに面する部屋という部屋に籠った貴族達までが自分の挙動に集中していることを、ノールディンは感じていた。


 そしてしばしの沈黙の後、彼は口を開いた。


「今日、皆に集まって貰ったのは、他でも無い皇妃フェリシエの噂の件についてだ」


 ごくりと誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。


 重々しくノールディンは先を続ける。


「皇妃フェリシエから離縁の申し出があったのは、事実だ」


 ざわり、と民衆の半数程が身じろぐ様な気配がした。


「だが、皇妃が申し立てた離縁の理由は事実では無い。あれは、フェリシエが、自身が皇妃に相応しく無いからと思い悩んだ末の偽りだ」


 今度はその場にいる誰もが、はっきりと戸惑いを露にした。 


「……フェリシエ」


 左半身を少し下げて、ノールディンが皇妃の名を呼ぶ。


 するとガラス戸の奥から、一際小柄な女性が姿を現した。


 高貴ながらも控えめな装いの変わらぬ、皇妃フェリシエだ。


 彼女は皇帝の促すままに、バルコニーの中央へと歩を進めた。


 誰もが皇妃フェリシエの姿に意識を集中している中、ノールディンは束ねられたカーテンのドレープが揺れていないのを視界の端で見た。


 佇むフェリシエは、広場の端から端までに視線を送り、ドレスの裾をつまんで小さな礼をした。


「此の度は、私の浅慮故の行動で皆様をお騒がせ致しました。心よりお詫び申し上げます」


 顔を上げた彼女は皇帝と視線を交わし、それを受けた彼は、彼女に代わって口を開いた。


「今回の一件の真相を明かそう。まず、公式の発表はしていなかったが、フェリシエは『界渡り』、つまり異なる世界からの訪問者だ」


 民衆にも、貴族達にも動揺は無い。


 暗黙の了解となる程に、誰もが一度はその噂を聞いた事があったのだ。


「界渡りの多くは終生を聖域の近くで過ごす。だが、皇妃のような例外もいる。そしてフェリシエは、他の界渡りとは異なり、再びの界渡りを求められた」


 皇帝の傍らで、皇妃フェリシエは瞳を伏せて苦しげな表情を浮かべる。


 それが、皇帝の言葉に真実味を持たせた。


 再度、広場が騒がしくなった。


 フェリシエは伏せていた瞳を上げ、一歩進み出る。


 すると潮が引く様に、広場はまた静けさを取り戻した。


「求められた再びの界渡りを、拒む術はありませんでした。それ故に、この世界に、いいえ、この国に居られなくなる私が皇妃の地位に留まる訳にはいかないと思ったのです」


 その苦しげな様子は、帝国の民が初めて見る、皇妃フェリシエの負の感情だった。


「ですから、なんらかの理由をつけて離縁を申し出て、他の方に皇妃の座を譲ろうと考えたのです。けれど、皇帝陛下は私の愚考を諌め、真実を知ろうとして下さいました」


 柔らかな微笑みを浮かべて、フェリシエは続ける。


「そして、皆様に全てをお話しするようにと命じられました」


 一瞬、フェリシエの瞳がノールディンを見つめ、また広場へと戻っていった。


 胸の前で手を重ね、彼女は言う。


「時はあまり残ってはおりません」


 悲しげに、眉がひそめられる。


 哀切の籠った声が広場に響く。


「私は、何処にいようとも、この国の安寧を祈っております。至らぬ皇妃ではありましたが、どうか、私が皆様を愛していることを忘れないで下さい」


 すっと細く息を吸って、彼女は続ける。


「愛しています。この国を、この国の民を、そして……」


 細い指先が、そっとノールディンへと伸ばされる。


「ノールディン、貴方を…………」


 潤んだ瞳を細め、彼女はそれでも笑みを浮かべた。


 公の場で皇帝の名を呼ぶという事は、一種の禁忌である。それを破った皇妃フェリシエの言葉に、誰もが声を失った。


 だが、ノールディンにとってそんな事はどうでも良かった。


 差し出された小さな手が淡い光に包まれている。


 酷い焦りを感じて、彼は手を伸ばした。


 その指の先で、皇妃フェリシエの姿が光の固まりとなって、……崩れた。


 光の粒子が散って、雪のようにちらちらと舞う。


 ノールディンはそれを手の中にぐっと握り込んだ。


 拳を握ったまま、彼は沈黙する民へと振り返る。


 翻った外套の動きで、皆、目の覚める様な思いを感じた。


 ノールディンは皇帝として、威厳に満ちた声を発する。


「我が民よ、皇妃フェリシエは失われた。だが忘れるな。皇帝ノールディンの皇妃はフェリシエ只一人であり、彼女の功績は我が国の誉れであるということを!」


 瞬きの間程の沈黙を挟んで、わっ、と広場が沸いた。


 皇妃が失われた事を嘆く者や皇帝の宣言に感じ入る者、多様な人々の抱く多様な想いが熱となる、そんな喧噪が長く長く続いた。


 一頻りその様子を眺めていたノールディンだったが、やがて彼は室内へと戻った。


 背後での騒ぎとは裏腹に、応接セットと小卓があるだけの空間は静謐な空気に包まれていた。


 その中で例外は二つ。赤々とした炎を灯す暖炉と、小卓の上に置かれたものだけだ。


 暖炉は、ノールディンが指示しておいた通りに熱を放っている。夕方になると冷え込む様になったこの時期、侍従達がこの命に疑問を抱く事は無かった。


 もう一つの、小卓に置かれたものは、不思議な事にほんの僅かに輝いていた。卵に足を三つ付けた様な形したそれは、卵の部分の中心からぼんやりと光を放っているのだ。


 これは皇家の所有する魔具の一つで、目録にも載せない程特別なものだ。


 その名を『シエタ・エイス』という。一人の人間の動きと声を記録して、あたかもそこにその人が居るかのように再現する事が出来るという、世にも稀な魔具だ。


 先程バルコニーに現れた皇妃フェリシエはこの魔具によって再現された、過去の彼女の姿だったのだ。


「我ながら、危ない橋を渡ったものだ……」


 ぽつりと呟いて、ノールディンはその魔具を手に取った。


 完璧に再現出来るとは言っても、現実にいる人間とはどうしても齟齬が出てしまう。


 例えば、人が通れば揺れるはずのカーテンが揺れない。例えば、太陽の光による影が出来ない。


 人々の視線が皇妃フェリシエの動きに集中し、また、バルコニーという見下ろされる事の無い環境でこそ役に立ったのだ。


 どんな危険が孕んでいても、それでも、こんなやり方が必要だった。


 皇妃フェリシエが帝国の皇妃であり続ける為に。そして、この世界から彼女が姿を消したと帝国の民に思わせる為に。


 魔具を手にして歩き出していたノールディンの足が暖炉の前で止まる。


 彼は迷い無く、『シエタ・エイス』を炎の中に投げ入れた。


 ぱちぱちっ、と音を立てながら、炎の色が緑や青に変わり、やがて卵の形は崩れて融け去った。


 こんな魔具がこの世にあった事は、誰にも知られる訳にはいかないのだ……。




 

 皇帝が下がったバルコニーを臨む部屋は幾らでもあったが、最も見通しの良い一室で、一人の女性が床にしゃがみ込んでいた。


 窓に掛けられたカーテンにしがみつく様にして、彼女は嗚咽を漏らしている。


「ユーシャナ様……」


 その背中に、控えめに声を掛けたのは、ソファに腰掛けたエルディーザ・オルナド・バーリクだ。


 彼女こそ、一昨日の晩に馬車で城に入ったベールの女性である。


 それから今日までを城の奥まった一室に籠って過ごしていた。


 領地の管理は義息子であるラズリードに任せて来たが、そう長くも空けられない。


 その長くは無い時間の中で、この若き側室にどんな助言をしていけば良いのか戸惑い、エルディーザは密やかに眉を顰めた。


 一方で、彼女の呼びかけに対してぴくりと肩を揺らしたユーシャナは、幾度も瞬きながら顔を上げた。


 視線はバルコニーに向けられている。


「エルディーザ様。私は、後悔さえも許されない罪を犯したのですね……」


 自分には出来ないと言い訳を続けて流されて来た結果が、今、目の前に広がる光景。


 皇妃フェリシエの喪失だ。


 再びの『界渡り』を自分の責任だなどとは思わないまでも、時がいずれもたらしていたのは、これとそう変わらない状況だっただろうと、ユーシャナは感じていた。


 まだ震える体を叱咤して、彼女は立ち上がる。


「けれど、私には時が残されています」


 そう、喪われたあの方とは違って……。


 握りしめていたカーテンから手を離し、フェリシエがそうしていた様に胸の前で手を重ねた。


 そうすると、ほんのりと暖かいものが伝わって来る。


「私は、私に為せる償いを……」


 まだ涙の滲む瞳で、ユーシャナは胸にその決意を抱いた。





 未だに音を立てる暖炉の火を見ながら、ノールディンはオンドバルでの事を思い出していた。


 あの時、エルディーザに頼んで、スウリは再び『皇妃フェリシエ』となった。


 その際に、スウリが望んで、ノールディンが立つべき場所にラズリードが立ったのだ。


 事前に皇妃フェリシエの台詞を知っていては、皇帝の所作が不自然になる、というのがスウリの言い分だった。


 彼女の発言は間違ってはいないし、ノールディンとラズリードの身長は対して変わらない。だから、視線や体の位置関係について打ち合わせておけば問題は無いと判断して、彼はそれを許可した。


 つまり、スウリはラズリードに向かって、あの『皇妃フェリシエ』としての台詞を言ったのだ。


 オンドバルの城館でラズリードが言っていた言葉を思い出す。


『私は見事に振られていますよ』


 そう言って、彼は苦く笑っていた。


 こんな形でラズリードの台詞の意味が知れるとは、思いもしなかった。


 スウリに変わらぬところがあるとすれば、きっとそれは、あの真っ直ぐな瞳と、ノールディンの考えを超えた行動を起こすところだろう。


「次は、俺が為す番だな」


 外へと向けられたノールディンの瞳は、近く、遠く、数多の民が住まう帝国の地を見据えていた。









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