72.船出
少し雲はあるが、青空の広がる良い日だった。
「いい天気だな」
「ええ。出航日和だわ」
向かい合ったスウリとノールディンは空を見上げながら話していた。
彼女の背後には大きな船がある。チルダ=セルマンド大陸へ向かう船舶だ。
スウリは当初から決めていた通り、彼の大陸へ渡る事を希望し、クゥセルとウィシェルもそれに同行すると決めた。
この渡航をノールディンに話した時、彼は旅費は自分が出すと言い張った。
渡航費を稼ぐ為に古書店で働いていたスウリは絶対に自分で払うと言い返した。
まだ満額には至っていないが、あと二、三日働ければ貯まるのだ。彼から貰う謂われは無い、というのがスウリの言い分だ。
一方、天候や渡航時期、また皇妃フェリシエと同じ顔だと見破られる可能性を考えると、出航は早いに越した事が無いという現状もあった。
ノールディンは断固として支払うと言い、スウリの方は絶対貰えないと言う。そんな攻防をオンドバルの城館の一室で繰り広げていると、ラズリードが妥協案を提供した。
「では私がお貸ししましょう。私にはチルダ=セルマンド大陸に行く機会は幾らでもあります。その時にお返し下さい」
そう言って微笑んだ彼に、スウリも「それならば」と承諾を示し、笑みを浮かべてお礼を言った。
そして彼女がクゥセルに「クゥセルたちの分は大丈夫?」などと話しかけている隙に、ラズリードはノールディンに苦笑して見せた。
「そんな恐ろしい顔をなさらないで下さい」
けれどノールディンはその表情を誤魔化す意味で、全く別の話を彼に振った。
「『下賜』云々の話は、私を挑発して反応を見たかったのだろう」
オルナド・バーリク伯爵家の後継は、きょとん、と瞬いた。
それからうっすらとした微笑みを浮かべる。
二度目の対決と言えないながらも、何処か緊迫した空気が漂う中、やはりラズリードは怯まなかった。
「皇帝としての器を測ったつもりか?」
不遜な表情でノールディンが問えば、彼は苦笑した。
「器を測るなどと、おこがましいことです……。わたしはただ、貴方が為したスウリへの仕打ちがどういうものだったかを、考えて頂きたかったのですよ。……まあ、それすら、伯爵家の後継程度が行うには恐れ多い行為でした。謝罪致します」
神妙に頭を下げるラズリードをちらりと見やり、ノールディンは言う。
「私自身が今回オンドバルに来たという事実は無い。それ故、其方が負うべき罪もまた、始めから存在してはいない」
ラズリードは驚き、顔を上げた。
前に立つ皇帝の顔は冷静で、先の言葉を真実にするつもりだと言う事が窺えた。
瞳を伏せて、ラズリードはゆっくりと頭を垂れる。
「寛大なるご処置に感謝致します」
彼の謝辞に対して、ノールディンは徹底的に無視を決め込んだ。無かった事に対する礼など不要だからだ。
「オンドバルは今後も帝国の海洋貿易の要衝であり続けるだろう。……覚悟しておけ」
海は広く、そしてその先に広がる地もまた広い。
現状維持で済ませられる程、国政は甘くは無い。安寧の先には更なる欲望が生まれるものだ。
故に世界は広がり続け、果てに辿り着くのは遥か先の事。
ノールディンの言葉の奥に含まれる意味を汲み取って、ラズリードは再び頭を垂れる。
「御意に、皇帝陛下」
そして頭を上げたラズリードは、ほんの少し肩を竦めた。
「先程の話に戻りますが。……私はこれ以上無い程見事にあの方に振られてしまいましたよ。ですので、その辺りは安心して頂けると有り難いです」
その顔がなんとも言えず苦い笑みを浮かべているのを、ノールディンははっきりと見た。
ラズリードの性格から言って、ノールディンに言った様な『下賜』といった言葉をスウリに対して使ったとは思えない。あれは飽くまでも皇帝の反応を見る為に使っていたのだから。
そうなると、彼の言う『振られた』とは一体何を意味するのか。
結局真相はわからなかった。単純に求婚をして、スウリがそれを断ったのかもしれない。
そんな一連のやりとりを思い出していると、スウリがぽつりと呟いた。
「良い風が吹いているから、しばらくは順調に航行できるだろうって」
借家を出る時に、べそをかきながら別れを告げてくれたビークの隣に立ったルムジがそう教えてくれた。
スウリの言葉に、ノールディンは我に返った。
「……そうか。良かったな」
頷く彼女の周囲にはクゥセルもウィシェルもいない。
どんな気を利かせたのか、先に乗船してしまっていた。
少しを間を置いて、ノールディンは再び口を開いた。
「スゥリ……」
空を見ていたスウリは、彼に視線を移した。
そんな彼女に、ノールディンは静かに手を差し出した。
「手を、握っても構わないか?」
表情自体は無いと言っても良いだろうが、彼の顔にうっすらと緊張感が滲んでいることにスウリは気が付いた。
それでも彼女は気が付かなかった振りをして、大きな手の中に自分の手を滑り込ませた。
ほっとした様に少しだけ目を細めて、ノールディンはその手をそっと握った。
「額に触れるのは構わないか?」
一挙手一投足に許可を得ようとするような彼に、スウリは苦笑した。
「一々聞いて来るつもり?」
対する彼はほんの僅かに強張った顔を崩さない。
「……もう、お前を傷つけたくは無い。だが、どうすれば傷つけなくて済むのか、何処までなら許されるのか、量りかねている」
「……………………」
彼のその言葉に、スウリは思わず瞳を伏せた。
少しだけ沈黙して、彼女は再び口を開く。
「……構わないわ」
喉の奥に熱が燻っている。それを逃がす為に、スウリは吐息と共にそう言った。
そうして上げた顔に浮かぶ笑みには、深い憂いの色がある。
それに気が付いたノールディンは、一瞬肩を強ばらせた。
この憂いは、彼女と、そして自分が生涯背負っていかなくてはならないものだという事実が、胸の奥に重く伸し掛かる。
我知らず、小さな手を握った彼の手に力が入った。
その力に戸惑ったスウリは、小さく首を傾げる。
ノールディンはそんな彼女を見下ろして、囁く様に言った。
「空に数多の星が輝く様に、君の行く先に数多の幸いがある事を祈ろう……」
それは、二人の良く知る物語の中で旅立つ人に送られた言葉の引用だった。
皇帝としてでは無く、一人の人間として酷く不器用なノールディンの、心からの言葉だとスウリにはわかった。
そして額に唇が寄せられる。
瞳を閉じてそれを受け入れたスウリは、離れていく熱を追う様に瞼を開いた。
握った大きな手に、もう片方の自分の手をのせて囁いた。
「空に陽光が輝く様に、貴方の進む道が暖かく優しいものでありますように……」
贈られた言葉を、彼女は自分なりの言葉へと変えた。
スウリは握られた手を離して、首に下げたネックレスを外す。
鎖の先には銀細工が一つ。『会員名簿』とその鍵は、エルディーザへと託して来た。旅立つ自分に持っている資格は無い。
彼女は鈍い輝きを放つ銀細工を両手でしっかりと抱き締めるように胸に抱いた。
「これは、喪ったあの子の欠片」
その一言に、ノールディンは目を見開いた。
そんな彼の手の上に、スウリは冷たい固まりを乗せた。一瞬震えた手を、しっかり握りしめる。
「私は、ずっとこの子にしがみついてしまっていたわ。……もう、静かに眠らせてあげたいの」
自分の意志で手の中の銀細工を握ったノールディンは、言う。
「皇家の墓室に……」
スウリは首を振る。
「いいえ、……エダ・セアの森に。始まりのあの場所で、静かに眠らせてあげたいの。私はもう行けないから、ノール、貴方にお願いしたい」
真っ直ぐに自分を見つめるスウリに、ノールディンは僅かな逡巡の後に頷いた。
「約束する。必ず、あの森に」
ほっ、と表情を緩めると、彼女はごく自然に手を離し、一歩後ろへと下がった。
ところがノールディンはその一歩を一瞬で詰めてしまう。
そして、告げる。
「これで終わりにする気はない」
驚いて見上げるスウリに、ノールディンは彼らしい笑みを浮かべた。
「いずれまた……」
距離を詰めて来た時と同じくらいの素早さで、ノールディンは元の位置に戻っていった。
白昼夢でも見たのかと思う程あっという間の出来事だった。
それでもスウリは彼の言葉に嘘を見なかった。
応える言葉は無く、彼女は小さく微笑んで踵を返した。
ステップを上がり、船の甲板で待っていたクゥセルとウィシェルに船室の番号を聞く。
そのまま振り返る事無く部屋へと向かったのだが、すたすたと廊下を進んでいるくせに、自分で足を動かしている気がまるでしない。
もうノールディンの視線など無いというのに、背中をぐいぐいと後ろに引かれている様な感覚がずっとついてくる。
教えてもらった船室の扉を機械的な動きで開いて、そこでふつん、と糸が切れた。
崩れる様に、ぺたん、と床に座り込む。
「ぁ、ああ…………」
呻くような声しか零れない。
目の奥が熱くて熱くて、どうしようも無い。
今閉めたばかりの扉に後頭部をもたれさせると、瞳から溢れた涙が頬を滑り落ちた。
後はもう、唇を噛み締めて、この熱がどうにかなるのを待つしか無かった。
スウリはノールディンに、たった一つだけ言わなかった事がある。嘘を吐いたと言うのが正しいだろう。
本当は彼に求婚された時、スウリは嬉しくて嬉しくて仕方が無かったのだ。
彼女に「泣いてもいい」と言ってくれた只一人の人が、あの頃のスウリは大好きだった。
笑ってくれれば嬉しくて、困った顔を見るのも嬉しくて、一緒にいることが幸せだった。
けれど彼女の心はまだ幼くて、『大好き』と『愛している』の違いは分からなかった。
だから単純にこう思ったのだ。
『結婚をすれば、この大好きな人とずっと一緒にいられる。こんなに幸せなことは無い』と。
帝国の為に何か出来るのではないかと考えたのは、幸せを感じながら床についた夜だった。
大好きな人と一緒に生きて、帝国に住む大好きな人達の為に働けるなんて、こんなに素晴らしいことは無い。
今思えば、なんて浅はかで単純な考えだったことだろう。
それが、たくさんのものを傷つけた。
スウリ自身は元より、ノールディンのことも。それ以外も。
彼女はこれ以上、彼を傷つけたく無かった。
こんな真実を知れば、ノールディンはもっと苦しむだろう。
皇太子として皇帝として、他者を傷つけてはその重みを背負いながら生きて来た彼を、今以上に苦しませる事はスウリにとって我慢出来ないくらい辛い事だった。
全ては彼女の勝手な考えだ。傲慢だ。
それでも、スウリはこの嘘だけは譲れなかった。
恐らく、聡いノールディンは、その内容は分からずとも彼女の残した嘘に気が付いていただろう。
そして、あの言葉を贈ってくれた。
『空に数多の星が輝く様に、君の行く先に数多の幸いがある事を祈ろう……』
スウリにとって、彼は優しい人だ。
人としては自分と同じくらい不器用で愚かかも知れない。
けれど、彼女にとっては優しくて強い人だったのだ。
彼は最後にこうも言った。
『いずれまた……』
スウリはそれに応えなかったが、それでもあの一言は彼女に上を向く力をくれた。
手の甲で涙を拭い、震える唇を微笑みの形にして、スウリはそっと口を開いた。
「ええ、ノール。また、いつか……」
たくさんの手がスウリには差し伸べられていた。直ぐ傍で、転ばないか、傷つきやしないかと心配してくれる人もいる。背中を、ぐいっと押してくれる人もいた。
だからスウリは前を向いて、再び一歩を踏み出せる。
その力をもらった。
深く呼吸をしたスウリの体には穏やかな揺れが感じられ、スウリの耳には船体を打つ波の音が静かに谺した。