71.真実〜旧情
誰もが口を開けずにいたその沈黙の中で、最初に言葉を発したのはウィシェルだった。
「スウリ…………」
静かな声が名前を呼ぶから、スウリは恐る恐る隣に座る親友に顔を向けた。
ぺちん、と少し間の抜けた音がした。
傍観者と化していた男二人が目を見開く中、スウリはきょとん、と瞬いた。
少し右にずれた視界を戻すと、ウィシェルが右手を上げている。
どうやら、確かに、ウィシェルがスウリの左頬を叩いたようだ。
ほんのり痛む頬に、ようやくそれが現実だと彼女が悟っている間に、ウィシェルの顔は歪んでいった。
「馬鹿ね。スウリは、本当に馬鹿ね!」
泣きそうな顔で彼女は言う。
「そんなものをずっと心に抱えて、たった一人で抱えてっ。本物の馬鹿だわ!」
こんなにウィシェルに罵倒されたのは、スウリにとって初めての経験だった。
だから、驚きつつも戸惑い、瞬きを繰り返す。
するとウィシェルはスウリの腕を両手でしっかりと握って来た。
「貴女のことだから、お世話になった恩返しがしたいとか、そんな理由でしょう!? そんなことの為に求婚を受け入れたですって? 本当に、本当の、本物の馬鹿!!」
ぎゅうぎゅうと握られる腕が痛い。
胸の奥から閉じ込めて来た心が溢れ出て来て、スウリはそれを抑える事が出来なくなった。
瞳に浮かんだ涙が大粒の雫になって零れ落ちる。
「だって、私、幸せだったのだもの……」
どうしよう、どうしよう、止まらない。
そんな風に思いながらも、スウリの口は勝手に言葉を吐き出して行く。
「お、お母さんは、私が要らなかったわ。いつも、いつも、私が泣きつくと、必ず『ごめんね』って謝るの。私、その度に、『生んでしまってごめんね』って、『貴女なんて生まない方が良かったね』って言われているみたいで、悲しかった」
ぐしゃぐしゃにされた紙きれみたいに潰れていた心が涙と一緒に零れていく。
「私は要らない存在なんだって、早く大人になってお母さんを解放してあげなくっちゃって思ったけど、でも、早く消えてなくなりたいって思ってもいた。要らない、って言われるくらいなら、いなくなってしまいたかった!」
スウリの母親は優しくて、弱くて、残酷だった。
彼女の謝罪はスウリの心の中で孤独を大きくして、彼女の涙はスウリに罪悪感を植え続けた。
『ごめんね、お母さん。泣かせてしまってごめんね』
小さい頃、唇を噛み締めて涙を堪えていた思い出が胸に蘇る。
それだけでは心が壊れてしまいそうで、スウリは一人で泣く事を覚えた。そして、母を泣かせない為に翌日には涙を消し去って笑った。
「でも、ここは違った。エダ・セアの森で、アンジェロの街で、私を否定する人なんて誰もいなかった。例え理由が『界渡り』だからだとしても、皆優しくて、暖かかった」
悲しさが小さく小さくなって、心から笑えた。それが嬉しくて、笑えた。
しかしウィシェルはその言葉に怖い顔をした。
「そんな訳っ」
その先が分かっていたスウリは彼女の台詞に先んじて首を振った。
「分かってる。私が『界渡り』であることなんて関わり無しに、ウィシェルもアンジェロのおじい様も、皆、私を愛してくれていた。それは、ちゃんと分かっているわ」
泣き笑いをすれば、ウィシェルの怒りも直ぐに治まった。
「だから、私を受け入れて幸せをくれた人たちに、……帝国に、法を作って下さった皇帝陛下に、恩返しがしたかったの」
ウィシェルが言う通りだわ。
そう言うと、痛ましげな表情を浮かべたウィシェルの両手がスウリの腕を滑って落ちていった。
解放された手の甲で涙を拭い、ノールディンの方を見ると、彼は困惑と驚愕とそれから僅かな絶望を混ぜこぜにした表情を浮かべていた。
スウリは意を決して、彼に向かって言った。
「だから、私にとって、貴方が私に向けてくれた想いは幸運だった。そして同時に、私は貴方のくれる愛情が怖かった。……自分が同じものを返せているとはとても思えなかったから」
必死に視線を逸らさずに、スウリは続ける。
「そして、皇妃フェリシエへの態度が冷たく変わっていくことに、ほっとしたの」
「……何だって?」
ノールディンがようやく口に出来たのは、そんな疑問の言葉だった。
「浅ましい思惑で皇妃の座に納まって、自分勝手に国政に口出しをしたのだもの。いつか下される罰がようやく来たのだって、そう思ったわ」
スウリの膝に置かれたウィシェルの手が、ぴくりと震えた。
「前にクゥセルは、皇妃の座に執着しているか聞いたわよね?」
「ああ……」
慎重にそう答える彼に、スウリはほんの少し微笑んだ。
「その答えは『はい』だわ。私には皇妃の座はどうしても必要だった。ただのスウリは無力で、何も出来なかったのだもの」
再びノールディンに向き合えば、平静を僅かに取り戻した彼も、しっかりスウリを見つめて来る。いや、見据えてくる。
「貴方が側妃を迎えた時、私はやっぱり安堵したの。……少しの動揺も無かったとは言わないわ。言えない、わ……」
そっと、服の下の銀細工に触れる。ひんやりとした冷たさが肌に直接触れた。
生温い、あの感触が甦る。
「けれど、私の罪は私だけのものにならなかった……」
あの時に感じた喪失感をどう言い表せばいいのか、スウリには全くわからなかった。
タイルの目地を流れる赤が脳裏に甦り、そこに、確かにあったはずの命を思い起こさせる。
「……小さな命を失った時、いいえ、私が壊してしまった時、あの時。私は、自分が滑稽なことをしているのだと、ようやく理解したわ」
悲しみが通り過ぎて、笑いになってしまった。
笑いながら、それでも、どうしても悲しかった。
「私にしか守れなかった命があったの。私が守らなくてはいけなかったのにっ……」
ぎゅっ、と胸の中心を鷲掴む。手の中には固い感触があった。
「それを守れもしないで、一体何をやっているのだろうって、そう思ったら、もう『皇妃フェリシエ』でなんていられなかった!」
瞳に、再び熱いものが込み上げて、やはり零れ落ちてしまった。
ノールディンの右手が動き、宙を揺らいで、拳に変わった。その拳はテーブルの縁に静かに落とされる。
彼女に触れる権利は自分に無い。
ノールディンはそう思った。
スウリの想いは独り善がりで、自分勝手だ。
だが、ノールディンの想いとて、そうだった。
スウリは皇妃フェリシエとして、彼に何の相談も無く、議会で様々な案件を提出した。更には、皇妃の権威に逆らい難い空気の中で決定まで持ち込んでしまった。
それらの案件の多くは、長年ノールディンと父オルディーンが貴族達との権力の均衡を見極めながら少しずつ進めて来たものだった。
早く決議してしまえば貴族の反発を呼ぶし、進めなければ帝国の腐敗と衰退に繋がりかねない。そんな重要なものばかりだ。
結局、当然の様に貴族達の不平不満は皇妃フェリシエに集まった。
そしてその反動のように、彼女の活動を抑えようと議会への出席を控えさせた皇帝ノールディンへの支持は強くなってしまったのだ。
彼女の勝手な行動への苛立ち、結果的には皇帝の権威を守り強化する事に利用してしまった事への罪悪感。それらがノールディンの中で重たく滞っていった。
そんな暗い感情が皇妃フェリシエへの態度となって現れた。それが自分勝手以外の何だと言うのか。
止まらない涙を両手で拭うスウリを、ウィシェルがそっと抱き締めた。
親友の首筋に顔を埋めて、彼女は肩を震わせた。
小さな体だ。
懸命に、懸命に笑う少女だった。
初めは母親の為に、帝国に来てからは自分を愛してくれる人達の為に。
やがて、絶えず微笑みを浮かべる女性となった。
離縁を告げて出て行った彼女を追うと決めた時から、ノールディンは何となく、連れ戻すのは無理だろうと感じていた。
彼の知るスウリは、強い意思を持ち、一度こうと決めたらその為に力を尽くす人間だ。そんな彼女が全てを投じて務めて来た皇妃の座を自ら下りたのだ。揺らがぬ思いを抱えての事に決まっている。
そして、その奥に潜む真実を知りたいと願ったのはノールディン自身なのだ。
彼はそっと息を吐いた。
帝国の皇帝として、スウリに告げる。
「ならば、後一度だけ、『皇妃フェリシエ』となれ。それでお前を解放しよう」
ぱっと顔を上げた彼女を見ながら、こんな言い方しか出来ない自分に、ノールディンはほとほと呆れてしまった。
それでも、もう一つだけ伝えなくてはいけない。
椅子から立ち上がったノールディンは言う。
「……訂正しておく。俺がスゥリに求婚したのは、お前の幸運などでは無く、俺の意思だ」
はっきりとしたその台詞に、スウリはみるみるうちに表情を固くした。
「あ…………」
言葉を失った彼女の瞳に映ったのは、ほんの少し寂しさを滲ませた笑みだった。