69.魔具
スウリが初めて見た魔具はとても小さなものだった。
そして、とても美しいものだった……。
「魔具を見た事が無かったのか?」
その問いをノールディンが発したのは、秋の始まりの頃だ。
エダ・セアの森の聖域で、彼とスウリが向かい合うようにして座り、その近くでウィシェルが昼食の片付けをしている。クゥセルは少し離れた所に寝転がっていた。
やや早い秋休みをもぎ取って要塞都市アンジェロを訪れた親友に、スウリが夏の盛りに出会った二人を紹介したのはつい三日前の事。
当初は恐縮していたウィシェルだったが、スウリがこの二人にすっかり馴染んでいるせいか、今では少しよそよそしい友人付き合いくらいに落ち着いている。
そして、そんな四人の中でもっぱらの話題は『約束の指輪』だ。
というのも、要塞都市アンジェロの領主から貰った絵本の原作が読みたくて、森番の館にある書庫で見つけた古い本にすっかりのめり込んでしまったスウリは、何度も彼らにその話をしていた。
クゥセルはさほど興味が無いようでもっぱら聞き役だが、ノールディンは反応は薄いが彼女の話に根気良く付き合ってくれる。
「ウィシェルがくれたこの完全版ね、とっても読み易くって。もう三回も読んだわ!」
はしゃぐ様に話すスウリに、ノールディンは目を細める。
一方、ウィシェルはその台詞にぴくりと眉を上げた。
「……まさか、徹夜してないでしょうね? スウリ」
ぎくり、と顔色を変えたスウリは、急いで首を振る。
「し、してないわっ」
嘘くさいわね〜、と呟くウィシェルに、クゥセルがけたけたと笑った。
「ノールなんか、山積みの書類を前にすると、寝るどころか飲み食いも忘れちまうんだよ。こいつも一緒に怒ってやって、ウィシェルー」
などと、ノールディンを指差して言う。
指された当人は眉間に皺を寄せて、「うるさい、黙れ」とだけ返した。
その冷たい物良いに、ウィシェルは怯えた様に肩を揺らす。
それに気が付いたスウリは、にっこりと笑って傍らの本を捲った。
「そんなノールには、『チユア・ベイ』が必要ね」
この『チユア・ベイ』とは、『約束の指輪』に出て来る魔具で、操作者を速やかに眠りにつかせて必要な時間に起こす事ができるのだ。本の中では、英雄王バルスが魔物の王との決戦を控えた前夜にしようして気力と体力を回復させたというエピソードで登場する。
自分の先の台詞は何かの宣伝文句みたいだと思いながらも、スウリはぽつりと呟いていた。
「見てみたいなあ……」
「……『チユア・ベイ』を、か?」
ノールディンの問いに、スウリは小さく首を傾げた。
「と言うか、魔具を見てみたい。何でもいいの」
それを聞いたノールディンが「魔具を見た事が無かったのか?」と口にしたのだ。
スウリはその問いには、はっきりと頷いた。
「うん。今住んでいるお屋敷には無いし。でも城館にはあるらしいから、今度見せてもらえる事になっているの」
うきうきと弾んだ調子で話す少女に、ノールディンはゆったりと笑いかけた。
「なんだ。スゥリは一度見ているぞ」
「えっ?」
大きな瞳を瞬くスウリの目の前で、ノールディンは懐からチェーンを引き出した。その先には、以前スウリが泉から拾い上げた赤い石がついている。
「これも魔具だ」
「ええっ」
思わずスウリは大きく身を乗り出した。
ずずい、とノールディンに詰め寄る姿勢になる。
彼は一瞬面食らった顔をしたが、直ぐに苦笑へと表情を改めた。
それから空を見上げて、「明るすぎるな……」と呟く。
何の事やらさっぱりとスウリが首を傾げると、ノールディンは傍らに丸めてあった外套を手に取った。
ひらりと広げて、二人の頭上に掲げる。
「わっ」
スウリは驚いた声を上げて、咄嗟に両手で落ちて来る外套を受け止めた。
「そのままで」
ノールディンが言うままに、彼女は外套を持ち上げた状態を保った。
彼は手の平に赤い石を置いて、そっと囁く。
「サルディア」
すると彼の手の中で赤い石がぼんやりと光を放った。
「これは持ち主の名に反応して光を放つ魔具だ。効果はそれだけなんだが……」
そう言ってスウリの様子を窺うと、彼女は目をきらきらさせてノールディンの手の上に見入っている。赤い光に照らされているからという訳では無く、その頬は紅潮しているようだ。
満足してもらえたようだな、とノールディンはほっとした。
「ノールの名前じゃないのね」
「ああ。女性でないと持ち主になれないらしい。だから、俺の母の名だ」
「お母様、綺麗な名前ね」
そう言ってスウリが微笑むと、ノールディンはくすぐったそうに笑い返して呟いた。
「ありがとう……」
二人の様子を見守っていたウィシェルも自然と微笑んで、クゥセルは空を見上げたままで「くくっ」と小さな笑いを漏らした。
膝の上に広げた書物の頁を捲りながら、スウリは昔のやりとりを思い出していた。
赤い石の魔具を見た後、アンジェロの城館や帝都の城で幾つかの魔具を見せてもらったが、あの時程鮮烈な印象を残した魔具は他に無い。
赤く淡い光は、どこまでも優しかった。
クゥセルに頼んだ用件は、その日のうちに返答が来ていた。
『明日、行く』と。
夜が明けると、スウリは古書店に行って昨日の失敗を取り返す働きをしてきた。
昼前に帰って来て、借家で簡単な食事を済ませ、今はノールディンが来るまでの時間を三人が思い思いに過ごしているところだ。
何故ウィシェルも居るかと言うと、昨晩、彼女にノールディンと会うと告げると、彼女は勤め先の病院を休んで同席すると言ったのだ。
ノールディンと会う話をする際、スウリは段階を踏んでウィシェルに話そうと思ったのだが、何処から話せばいいのか迷った。まして、ノールディンと再会した切っ掛けが悪漢に襲われそうになったからだなんて、口が裂けても言えない。
だから彼女はずばっと、「明日ノールがここに来るわ」と言ったのだ。逃げ出そうと後ずさりするクゥセルの袖をがっつり握りしめながら。
それを聞いたウィシェルは、まず固まった。
しばらくしてから、右の手の平を前に突き出した。
「ちょっと、待ってね。……陛下がオンドバルに来ている、ということよね、それは」
「ええ、そうよ」
じたばたとクゥセルは悪あがきをしてこの場を逃れようともがくが、スウリは怒られるなら一蓮托生、とばかりに決して彼を解放しようとはしない。
「それで、スウリが昨日、様子が変だったのは、陛下とお会いしたから?」
「そうなの。思っていたより動揺しちゃって……」
クゥセルとしては大きな雷の一撃を食らうのは自分だと分かりきっている。だから、さっさと逃げ出したいのだ。
けれど壊れそうに小さいスウリの手を無理矢理引き剥がすと、それはそれで怒られるから難しい。
そんな彼に、ウィシェルの視線がぐさりと突き刺さった。
「……昨日、貴方、私に何にも知らないって態度をとっていたわよね?」
おどろおどろしい声が轟く。
仕方無い、と色々諦めたクゥセルは大きく息を吐いた。
「だって、ウィシェル、今にも攻撃しかけそうな勢いだったじゃん? 俺がホントのこと言ったとして、冷静に対処できた?」
多少真面目さを含んだ声で聞くと、ウィシェルの視線は彼から外れ、何処とも知れない方向に向いた。
「ふっ。そんな訳無いじゃない。……じゃあ、仕方の無い事だったのよね」
なんとも珍しい事に、ウィシェルは『仕方の無い事』で済ませてくれるようだ。
思っても見なかった展開に、スウリとクゥセルは顔を見合わせた。
ところがそう易々とウィシェルの怒りが収まる訳も無く。
「それで済ます訳が無いでしょうっ。二人とも、そこに正座!」
と、一喝が入った。
なんの反射なのか、慌ててスウリとクゥセルは居間のカーペットの上に正座する。
「スウリが昨日何も言えなかったのは、わからないでも無いわ。でもね、クゥセル! どうせ貴方のことだから、陛下が来てやがる事は大分前から知っていたのでしょう!」
ちょっと言葉が乱れているよ、とか、夜だからご近所迷惑だよ、とか。そんな口を挟める隙は何処にも無かった。
一方で、「あれ、私まで正座する必要あったのかな?」とスウリは密かに首を傾げる。
「貴方のその秘匿癖は一体なんなの? 私を信用出来ないとでも!?」
「いやいや、そうじゃなくて。あいつ来た事話したら、かなり怒るだろうなーと思って……」
ウィシェルの怒りを怖れる割に、実際怒られている間は飄々とした態度を崩さないのがクゥセルの凄いところだ。
その態度が益々ウィシェルの怒りを増幅させている点については、実は何も考えていないのではないかと思わせるのだが。
「当たり前でしょう! どの面下げて来やがったのかお聞きしない事には夜も眠れないわっ」
「とりあえず、明日本人に聞けるから、夜は寝よう。ね。美容と健康の為にさ」
「……貴方に私の美容と健康を心配される謂われは無いわ!」
かりかりして叫ぶウィシェルはかなり苛立っている。
スウリは急いで立ち上がり、彼女の肩に手を添えた。
「落ち着いて、ウィシェル。その、クゥセルにだって悪気があった……、えーと、あったわけじゃないとは思えない事も無いから。ね」
「スウリ、フォローになってないからねー」
ぜえ、はあ、と荒い息を吐き出す親友を宥めようとするスウリに、クゥセルが余計な口を挟む。
傍のソファにウィシェルを座らせて、スウリはその隣に腰掛けた。
「ちゃんと言わなくって、ごめんなさい。でも、クゥセルだって巫山戯て言わなかった訳では無いわ。それはわかるでしょう?」
そう話しかければ、ウィシェルは小さく頷き返した。
「分かっているわ。でも、つい、黙っていられると、こう……」
彼女の手がこめかみの辺りでにぎにぎと動く。
苛々する、と言いたいのだろう。
スウリは同感の意を込めて、反対側のウィシェルの手をぽんぽんと軽く叩いた。
それから少し黙っていたが、やがて口を開いて親友に告げた。
「ノールと会うと決めたのは私なの。ちゃんと会って、……はっきりさせなくちゃ」
その台詞に、正座したままだったクゥセルの眉がぴくりと動いたが、それ以上の反応は見せずに彼は黙っていた。
一方で、ウィシェルはスウリを見る。
「スウリ……?」
何をはっきりさせると言うのか。
戸惑いをあらわにして、ウィシェルはスウリの瞳を見つめた。
「ウィシェルが私の為に怒ってくれることはとても嬉しい。でも、始めたのは私だわ。幕引きが終わっていないのなら、それをするのは私の役目なの」
きっぱりと言うその姿に、ウィシェルは何も言えなくなってしまった。
そして一夜が明けて今に至る。
明確には示されなかった昼過ぎという時間を待ちながら、スウリは再び書物の頁を捲った。
その時、こんこん、と扉がノックされる音が室内に響いた。