67.醒覚
「……ちゃん、嬢ちゃん!」
自分を呼ぶ声に、スウリは無心に走らせていたペンを止めて、ぱっと顔を上げた。
声の方向には、呆れた顔をした老人が立っている。
スウリが働く古書店の店主だ。
「嬢ちゃん、儂が頼んだのはこの蔵書の目録作りだったはずなんだがなあ……」
そう言って、彼はスウリが今しがたまで書いていた紙を一枚取り上げた。
彼女も自身が書いていたものを慌てて確認した。
その内容は、魔具の種類や使用方法の写しだ。
どうも、手元にあった本を開いて、その内容をまとめたり分類したりしていたらしい。要塞都市アンジェロの城館で働いていた時に各地方から来た報告書をまとめる作業をしていたから、無意識にそれを行っていたようだ。
「あ……」
ペンを置いて呆然とするスウリに、店主は「うーん」と唸る。
「これじゃあ目録じゃなくて報告書か論文のようだね」
任された仕事をきちんと出来ていなかったことに、スウリは羞恥で頬を染めた。
「ご、ごめんなさい! 直ぐにやり直します」
既に書いてしまった紙を集めて脇に寄せようとすると、それを店主が止めた。
「いいよ、いいよ。その調子でやられても進まんだろうし」
ずばっと言い切られ、スウリは居たたまれなくなってしまう。
それを横目で見て、店主は唇の端を引き上げた。
「何か悩み事だね? わかりやすい子だ」
「…………」
ますます居たたまれなくて、スウリはどういう顔をしていいのか分からなくなってしまった。
それを見下ろす店主は、自分は口数も多く無く、更には偏屈である事を承知していた。
彼の元々の商売はオンドバルでも有数の海運業なのだが、若い頃からの本好きが高じて、四十半ばから古書店を営み始めた。今では息子に本業の方を譲り、商売の助言を求めて来る者たちを追い払ってこの店に引き籠っている。
そういう人間であるというのに、彼は働き始めてほんの数日のスウリに好感を抱いていた。
彼女の正直な人柄や誠実な仕事ぶり、何よりも物静かに過ごす様子が、店主の懐にするりと入り込んで来た様な感じがするのだ。
そんなスウリの常ならない様子に、老人のつまらない気休めだと思いつつも彼は重い口を開いた。
「年寄りの愚考だがね」
その言葉に、スウリは彼を見上げる。
あどけなさを残すその表情に、店主は思わず苦笑を浮かべた。
「嬢ちゃんは本来、悩み続けるような子じゃないんだろう?」
瞬きを幾回かして、スウリははっと目を見開いた。
「儂が見る限り、考えが過ぎちまう前に行動に移してしまうんじゃないかと思うけどね」
滅多に動かさない頬を歪ませて、店主はそう付け足した。
笑っている様な、皮肉っている様な、そんな表情だ。
目の覚めた様な思いで、スウリは椅子から立ち上がり、言った。
「今日はこれで失礼します。残りは明日取り返します!」
ぺこりと頭を下げると、店主は彼女に背を向ける。
「まあ、給料分働いてくれればそれでいいよ」
素っ気ないその言い方は、この店主のいつも通りの態度だ。
彼が小さな足音をさせて奥にある自分の机に座ったのを見送って、スウリは自分の机周りを片付けてから鞄を持ち上げた。
無言で一礼して店から出ようとした時、店主がもう一度口を開いた。
「ああ、そうだ」
小さな眼鏡を掛けて、スウリが先程まで書いていた紙を捲りながら、こう言った。
「こういう魔具関連のことをちゃんと学びたいんなら、バルス=セルマンドの大学院に行くと良いよ。あそこには魔具研究の権威がいるからね」
バルス=セルマンドとは、チルダ=セルマンド大陸にある最大の国だ。王立の大学院が有ると聞いた事はあったが、魔具の研究者がいるとは、スウリも知らなかった。
店主がどういった意図でこの事を教えてくれたのかよくわからなかったが、それでもスウリは彼に礼を言った。
「ありがとうございます」
いつもは店主の読書を邪魔しない為に黙って出て行くのだが、今日ばかりは許されるような気がして、スウリは小さく言った。
「さようなら」
ひらり、と老いた手が彼女に向かって振られた。
追い払う様な、けれど「さよなら」と言い返す様な、そんな動きだった。