63.手紙〜開端
翌日、スウリは城館の居間で書物を開いていた。
ぱらり、ぱらり、と頁を捲る。
しかしその内容は頭を擦り抜けて行くようで、全く把握出来ない。昨日受けた衝撃から、彼女はまだまだ立ち直ってはいなかった。
完全に上の空状態で紅茶に手を伸ばした時、居間の扉がノックされた。
何度か繰り返されてから、スウリはようやくノックの音に気がついた。
はっと我に返り、「……どうぞっ」と少し上擦った返事をしてしまった。
入って来たのは、エルディーザではなくラズリードだった。
手に持っていた本をテーブルに置いてスウリは立ち上がり、小さく会釈する。
「おはようございます、ラズ様」
くすくすと笑いながら、ラズリードは彼女に話しかけた。
「また書物に夢中になっていましたか? 何度もノックしましたよ」
「それは……、申し訳ありませんでした」
最後の2回しか記憶に無かったスウリは僅かに頬を赤らめて謝罪する。
ただし、書物に夢中になっていた訳では無い事は言い出せなかった。
「いいえ、段々慣れてきましたよ。貴女の集中力には感嘆の意を表します」
「……お恥ずかしい限りです」
瞳を伏せて視線を外すスウリに、ラズリードは一層笑みを深めた。
それから胸に手を当てて、少し神妙な調子で口を開いた。
「本日は義母も私もお相手することができなさそうなのです。こちらから呼んでおきながら、本当に申し訳ありません。代わりと言っては難ですが、お時間の許す限りゆっくりなさって下さい」
迎えに来たスザイから事情を聞いていたスウリは、彼の言葉に緩く首を振った。
「とんでもありません。図書室の本目当てでお邪魔しているのは私ですもの。……ですが、お言葉に甘えて、仕事の時間までお茶を頂きたいと思います。どうぞ、私のことはお構い無きよう」
スウリの穏やかな物言いに、ラズリードの方もほっとした様に表情を崩した。
「有り難いお言葉です。何か不足がありましたら、いつでも申し付けて下さい」
そう言って、テーブルの上のベルを指差した。鳴らせば侍女や侍従がやってくるのだろう。
つまり、ベルを鳴らさない限り、スウリの元には誰も現れないということだ。
「ところで、今日は図書室に行かれなくても宜しいのですか? スザイは空いていませんが、他の者を案内につかせますよ」
「いいえ、先日お借りした本を、……まだ読み終わっていないのです。今日はここでそれらを読ませて頂きますわ」
十数冊の本で出来上がった小山がテーブルの上にあるのを確認したラズリードは首を縦に振った。
「そうですか。では、そろそろ失礼させて頂きます。どうぞごゆっくり……」
それだけ口にして、ラズリードは居間から出て行った。
薔薇の香りが漂うその空間に立って彼を見送ったスウリは、扉が閉じた途端に、力が抜けたようにぽすんっとソファに腰掛けた。
一つ大きく息を吐き出して、本の小山から革張りの手帳を引き抜いた。
混ぜ込んでおいた『会員名簿』だ。
それから、首に掛けている鎖を手繰り寄せる。
銀細工のペンダントトップをきゅっと強く握った後、その脇にぶら下がっていた小さな鍵を取り外した。
今は本を読んだところで、何も頭に入ってこないのだ。だったらいっそ全く違うものを見ていた方が気が紛れるだろう。そういう考えもあった。
だが、エルディーザから手渡されて以来『会員名簿』を開く機会は訪れず、この思いがけず空いた時間がその好機であることも事実だった。
これは、誰が見るとも知れない借家や城館の図書室で、おいそれと開く訳にはいかないものだ。
また、内容を見た自分が動揺しないで平静を保てる自信なんてスウリには無かったので、エルディーザを含む他者のいる場所でも駄目だった。
名簿に巻かれたベルトに鍵を差し込んで回すと、チリッという小さな音ともに金属の金具が二つに分かたれた。
ベルトを脇に寄せて、スウリはその少し分厚い皮の表紙をゆっくりと開く。
薄紙が一枚、一瞬だけ表紙にくっついて、それからひらりと元の位置に戻っていった。
その薄紙を捲ると、そこにはずらりと女性の名前が並んでいた。
一番上には『皇妃様を陰ながら見守る会』と堂々と書いてある。
その下にはエルディーザの名前が、左側に『永遠の0番』という付属と共に書かれてあった。
彼女の、茶目っ気混じりの本気の番号なのだろう。
思わずスウリは笑いを零してしまった。
しかし、視線をずらしてその下に書かれた名前を見た瞬間、彼女は目を見張った。
そこには、『コーレイナ・ランダバ』とあったのだ。
貴族至上主義者で有名なランダバ老公爵の夫人の名だ。
エルディーザと親しいなど、聞いたことも無い。
驚いたスウリは、次の頁を捲る。
そこにも女性の名前が並んでいる。
だから次、次、と捲って、何頁目かで紙の色が変わったことに気がついた。
いや、紙の色は同じだが、その上に便箋が貼り付けられている為に、紙の色が変わったと勘違いしたのだ。
貼り付けられた真っ白い便箋には丁寧な文字が並んでいる。
我知らず、スウリの瞳はその文字を必死で追っていた。