62.童心
がらがらと音を立てて、割れた陶器の破片が落ちて行く。
スウリは細かい破片まできちんと落ちたことを確認して、貸家の一階に設けられたゴミ箱の蓋を閉じた。
ふうっ、と小さな溜め息が零れる。
いつもの調子が出ていないのも、その原因もわかっている。けれど、一体どうすればいいのかわからない。
自分への呆れも含んだ溜め息だった。
それでも小さく頭を振って、切り替えようと試みる。
部屋に戻ろう……。
そう考えて顔を上げた。
「スゥ…………」
その背中に、声が掛けられる。
スウリが振り返った先には、廊下の角から顔を覗かせた少年がいた。
「ビーク」
声を掛けると、彼はびくりと小さく震えて、それから気まずそうに口を開いた。
「……怒ってる?」
ビークは酷く不安げだ。
スウリはしばらく黙っていたが、やがて少し屈んで少年と視線を同じくした。
「怒られる様なことをしたと、そう思っているの?」
「……………………」
口をつぐんで俯く少年に歩み寄ると、スウリは彼を促して近くに置かれた木製の簡素な長椅子に腰掛けた。
隣に座ったビークは、時折唇を動かすも、結局何も話さない。
「ねえ、ビーク」
話しかけると、おずおずとスウリを見上げてくる。
その視線を静かに受け止めて、彼女は問い掛けた。
「ビークは、あの子と貴方と、それから私は、何が違うと思う?」
あの子、というのが昼間の騒動の中心人物である事はすぐに思い至ったようだ。
ぱちぱちと瞬いたビークは、少し考えた後で呟いた。
「……住んでるとことか、肌の色とか。あいつ、黒いし」
「そう……」
視線を逸らした少年の頭を見下ろしながら、スウリはそっと囁く様に言った。
「あのね、私は生まれた時からお父さんがいなかったの」
「えっ?」
唐突に変わった話に、それからその話の内容に驚いて、ビークはスウリを見上げた。
「ビークのお父さんとお母さんみたいに結婚しなかったの」
「なんで?」
子どもらしい素直な疑問に、スウリは寂しげに微笑んだ。
「わからないわ。結局、お母さんには聞けなかったの。お母さんも、きっと誰にも話さなかった。言い訳とかしなかったからかな? お父さんがいない事で、私たちに酷い事を言う人もいたわ」
「酷い事って?」
「私が何か失敗すると、『父親がいないから』って言われたり。忘れ物をしたりとか、友達と上手く付き合えなかったりとかね、『母親だけだから駄目な子なんだって』」
それを聞いたビークの心に沸き上がったのは怒りだった。
「なんだよ、それっ。スゥは悪く無いじゃん! オレだってそんなのいっぱいやってるよ!」
興奮して立ち上がったビークの肩に手を置いて、スウリは彼を宥めた。
「怒ってくれるのね。ありがとう」
「スゥは怒んなかったの?」
「怒りよりも、悲しみの方が大きかったの。小さい頃は、お母さんにたくさん泣きついて……」
泣きつくと必ず母親はスウリに謝った。その度に、彼女は自分が強くならなくてはいけないのだと思った。そして、同時に心に重く苦しいものが溜まっていった。
「スゥ……?」
遠いところを見つめる様に表情を無くした彼女に、ビークは不安げに声を掛けた。
はっと我に返ったスウリは、再び少年に視線を落として口を開いた。
「自分ではままならない事で責め立てられるのは、とても辛いわ。悲しみや悔しさや、向けられる悪意への恐怖と闘わなくてはいけないもの」
じっとこちらを見上げてくるビークの瞳は、ほんの少し理解できると言っているようにスウリは感じた。
実際、悪ガキであるビークも謂われの無いことで叱られた事が何度もあった。性質は違うかもしれないが、似た様な経験だ。
「同じだと、そう思わない?」
「……えっ」
何と同じか、ビークはすぐにはわからなかった。
「あの子の境遇と、私の境遇よ」
最初はいぶかしげにしていたビークだったが、やがてその瞳を大きく見開いていった。
「ビークがオンドバルで生まれ育ったように、あの子はジャシーファダ地方で生まれ育ったの」
そっと少年の手をとって、優しくさする。
「ビークや私の肌がこの色なように、あの子の肌は少し黒いの」
ねえ、本当は、一体何が違うの?
そんな風に聞かなくても、聡い子どもであるビークはスウリの言いたいことを理解した。
瞳や表情から伺える感情がみるみるうちに変化する。
初めは、知らなかったことを知った時のような驚きを示し、驚きは段々と罪悪感を帯びていった。
「知らないことを理解するのは、とても難しいわ。でもね、ビーク、貴方はもう知ったでしょう?」
そう語りかければ、少年の浮かべる罪悪感の奥底に、何か閃いたような輝きが灯った。
まだ小さな唇を、ビークはぎゅっと噛み締める。
それから、おもむろに立ち上がった。
「スゥ。オレ、決めた」
「うん?」
穏やかに聞けば、ビークはスウリと手をつないだまま振り返った。
「あいつのこと、探す!」
「……うん」
スウリが柔らかく微笑めば、ビークも、にかっと笑う。
「お父様と一緒に船に乗っていると言っていたわ。探すのなら港がいいと思う」
「船乗りなんだ」
再び驚きによってビークの瞳が開かれた。
「名前はね……」
「待って!」
彼の少年の名前を教えようとしたスウリの台詞を、ビークは勢い良く遮った。
「オレ、自分で聞くから!」
今度はスウリが驚く番だった。
けれどすぐに彼女は微笑みを浮かべる。
ビークはきっとルムジを見つけるだろう。そうすれば、彼らの関係はほんの少しでも変わる筈だ。
「そうね。頑張って」
励ませば、ビークは思い切り頷いて、ぎゅっとスウリに抱きついて来た。
「オレ、スゥが大好きだよ」
その真っ直ぐな言葉が可愛くて、スウリも彼をぎゅっと抱き締め返した。
「私も、ビークが好きよ」
嬉しそうに、照れくさそうに笑って、ビークはスウリから離れた。
まだまだ甘えていてもいい年頃だろうに、ビークは独立心が旺盛で、実はこういうことをするのは稀なのだと彼の母親は言っていた。
「あいつのこと探して、そんで、あとは、会ったら考える!」
行き当たりばったりだが、それもまたこの悪戯好きで少し捻くれた少年らしくて、スウリはくすくすと笑った。
不思議と、彼らが再び出会えた時にはもう悪い事は起こらないと確信が持てた。
ぱっと体を離したビークが元気良く言う。
「じゃあ、お休み、スゥ」
「お休み、ビーク」
手を振ってその場を後にする少年を見送って、スウリも自室へと戻った。