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民の望んだ皇妃  作者: 界軌
本編
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6.始動

 翌朝、侍女たちが部屋を訪れる二時間前にフェリシエは起きだした。


 ウィシェルに頼んで手に入れてもらった庶民の平服を着る。膝下のスカートに、シャツと、その上に丈の長いベスト。足元には黒い編み上げのブーツを履いた。


 どれも新品だ。全体的に少し硬い感触がする。贅を尽くした皇妃としての衣装とは比べるのも馬鹿馬鹿しい。


 全てが新品なのは、皇妃となる際に貴族の養女となってその家で教育を受けたのだが、それ以前に着ていた服がどれも着られなくなってしまったからだ。太ったという訳ではないから、身長を含めてあちこち成長していたようだ。だから数着買ってきてもらい、今着ている分以外は傍らに置いた大きめのバッグに詰めた。


 ブーツの紐をぎゅっと締めて、フェリシエは居間の長椅子から立ち上がる。


 部屋を一頻ひとしきり見回す。侍女たちと作り上げたこの部屋が、どれ程居心地が良かったか思い返す。侍女長のお小言も、ルミアの淹れる柔らかな紅茶の味も、公務の前に迎えに来た近衛騎士たちの恥ずかしげな笑顔もすぐに思い出せる。


 大丈夫。私は、忘れたりはしない……。


 荷物を持って、部屋を後にした。






 人通りの少ない裏道を通って城壁の裏門に行けば、宰相が供を一人と近衛を一人連れて立っていた。


 いつもは城門の内側にも立っているはずの衛兵の姿が見えないのは宰相の取り計らいだろう。


「お早うございます。宰相殿」


 近づいて声を掛ければ、三人共が目を見張った。


 その様子にフェリシエは思わず聞いていた。


「……何か?」


 彼らが驚いたのも無理は無い。


 フェリシエはいつも結い上げていた髪を背中に流し、化粧も淡い色のリップクリームを塗るぐらいにしている。皇妃の豪奢ごうしゃな衣装を脱ぎ捨てて、庶民の若い娘の格好をすれば、まだ年若い少女にしか見えなかったのだ。


「あ、皇妃様でしたか」


 声で判別のついた宰相がとりあえず落ち着きを取り戻す。


「おはようございます」


 宰相が丁寧な礼をすれば、残る二人も続くものだから、フェリシエは苦笑を返す。


「では、城門を開けていただけますか?」


「供の一人もつけない気ですか?!」


 あっさりと言うフェリシエに、宰相が驚きの声をあげた。


「ええ。ご存知の通り、私は平民出身ですし。それにこんな様子では、誰も元皇妃だなんて気付いたりしないでしょう?」


 バッグを持ったまま両手を広げて見せれば、宰相は複雑そうな顔のまま「はあ……」と同意めいたものを返してきた。


 しかし、やがて近衛に命じて裏門の扉を開けさせた。


「では、失礼させて頂きます」


 首を傾ける程度の礼をすれば、宰相は目を瞬いて言葉に詰まった。


「っこ…………」


「そうだ」


 それでもと何か声を掛けようとした宰相の声を遮って、フェリシエは口を開く。


「なんでしょうか?」


 譲ってくれた宰相に彼女は少し迷ってから、にっこりと地の笑顔を見せた。作り上げたものではなく、気遣いと懇願を載せた微笑を。


「陛下を、よろしくお願いしますね」


 言われるまでもないでしょうが。


 付け加えて、彼に背を向けた。


 宰相は絶句して、それから手で顔を覆ってしまった。肩を震わせる彼の姿を、後ろに控えた二人の男は初めて見た。






 裏門を出て、少し歩けば大通りに出る。すぐにフェリシエは乗合馬車の乗り場への道を進んだ。


 途中の商店や露店を冷やかしながら行く。香ばしく揚げたパンを二つ買い、リパルという紫色の果物のジュースを蓋のできるカップに入れてもらった。


 フェリシエを指差して「皇妃様」と呼ぶ者などいなかった。

 

 毎日のように顔を合わせていた宰相でさえ、声を発しなければ今の姿の彼女をフェリシエだと断定することはできなかったのだ。完璧に化粧を施してバルコニーで手を振るか、慰問に訪れた先で近衛騎士に囲まれた皇妃の姿しか見たことの無い帝都の住人には本人が自分の店で買い物しているなんて思いも寄らないだろう。


 馬車乗り場に着くと、ちょうど一時間後に出る港湾都市オンドバル行きの馬車があるという。券を買って、待合い所で先ほど買った朝食をとる。


「おや」


 彼女の隣に座ろうとした初老の男性が声を上げた。


 フェリシエが振り向くと、にこやかに笑いながら話しかけてくる。


「こんにちは、お嬢さん。先ほど城門から出てこなかったかい?侍女さんなのかな?」


 あんな早朝に出てきた自分のことを見ている人間がいるなんて思わなかったフェリシエは瞳を幾度か瞬いた。その隙に考えをまとめて男性へと答える。


「ええ。そうなんです。でも、昨日限りですけど」


 そう言って照れくさそうに微笑む。


「おや。辞めてしまったのかい?」


「親戚を頼って働き始めたのは良かったんですけど、故郷が懐かしくなってしまって……」


「じゃあ、これから帰郷かな?」


「はい」


 大きく頷くと、男性も首を縦に振った。


「やっぱり生活するのは故郷がいいよ」


 皺を深めて笑う彼に、複雑な思いで彼女は笑い返した。その笑顔が引きつらなかったのは皇妃修行の賜物たまものだろう。


 いよいよ馬車に乗り込む時間がきた。


 待合い所を出ると、空はきれいに晴れていた。その空に向かってフェリシエは腕を大きく上げて伸びをした。


「よし。行きますか!」


 自分に気合いを入れる意味で、一人、小声で呟く。


「一体、どちらへ?」


 独り言に問いが掛けられる。しかも、聞き覚えのある低い声だ。









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