59.機縁〜再考
唐突に路地裏に響いた足音に警戒したノールディンとハインセルだったが、二人の前に現れた男は、彼らの緊張感を打ち砕く、何とも間の抜けた声を上げた。
「あれー? ノールとオマケその一、じゃないや、先輩じゃないですか」
クゥセルだ。
オマケその一呼ばわりに、ハインセルの胸の内に苛立ちがこみ上げる。しかし彼は「…………っ」と、一息呼吸を置いて、それを表に出さぬ様に我慢した。
「クゥセル、お前なにを……」
ハインセルの背後で不審げな声をノールディンがあげたが、クゥセルはそれをぶっちぎった。
「ああーっ、そうだそうだ。スウリ見なかった? 俺、仕事の上がり時間を間違えてたんだよ。今、店行ったらとっくに帰ったとか言われてさー」
「仕事、上がり?」
「店?」
ノールディンとハインセルが同時に違う事を聞き返すが、それに答えを返す前にクゥセルは別の事に勘づいた。
路地裏を見渡した後、ははっ、と軽く笑う。
「もしかして、会っちゃった?」
「……………………」
誰に、とも言われていないのに黙り込むノールディンに、確信を得た彼は続けて尋ねる。「で、当人はどこいっちゃったのさ」
「…………………………………………逃げられた」
物凄く嫌そうにノールディンが言うと、クゥセルは「はあん?」と首を傾げた。
からかっているのか本気で聞こえなかったのか微妙なラインだが、ノールディンはやけくその様にもう一度言った。
「逃げられた!」
どうやら真相は後者だったらしい。
しばらく固まっていたクゥセルは、やがてよろり、とよろめくと、背後の壁に背中をつけた。
そのまま二人に背中を向けて、肩を震わせる。
「ぷっ、くくくくくく。マジで? マジで逃げられたの?」
少しは耐えていたのだが、やがて我慢の限界を超えた。
「あ――――――はっはっはっはっはっはっはっは! 流石スウリ。やるなあ!!」
やるなあ、やるなあ、と繰り返しながら、ばんばんと壁を叩く。
その度に壁の表面が剥がれて、地面に落ちていった。
クゥセルの足元に壁の欠片が少し降り積もった頃、ようやく彼は顔を上げた。
そのタイミングの絶妙な事と言ったら無い。ノールディンとハインセルが彼の後頭部に一撃でも食らわそうかと、それぞれ拳と鞘入りの剣を持ち上げようとした瞬間だったのだから。
「はー。笑った笑った。……で、スウリに馬面と鹿面が接触でもしてきたのか?」
顔はにやけているが、その瞳は真剣だ。
だからノールディンも真っ当に返答する。
「そうだ。出てこい、梟」
「はっ」
路地裏の影からそっと、一人の男が姿を現した。
そして静かに口を開く。
「予想通り、彼らはアジトとしている館に戻りました。……闇サロンの使用人のようです」
「はあ〜。ホントにロクデモナイ事ばっかり考えるなあ、あのおっさんたち」
呆れた声でクゥセルが言った。
本来、サロンとは貴族が自分の館で開く小規模な茶会や夜会を指す。貴族社会では重要な社交の場だ。
しかし『闇サロン』というものは、それとはかなり趣が違う。
主に貴族の男性が主催となって、思想や政治的な考え方の同じ者たちを集めて行う、非公式な会合の事なのだ。
特に貴族至上主義者が集うものは、積極的で過激な活動が多い。目に余る場合も多いのだが、『闇サロン』はあくまで非公式な会合であり、その行動は秘密裏であるが故に、取り締まる事が難しかった。
「代表は、ランダバ公爵か」
腕を組み、空を睨み付けながらノールディンが言えば、梟からは是と答えが返る。
ノールディンとハインセルは、港湾都市オンドバルに入ったその夜から彼らの動向を探っていた。
スウリに狙いをつけている組織は幾つかあるようだったが、それらは互いに牽制し合っている状態だった。
だからノールディンは、最も規模が大きく強い権力を持つ『闇サロン』の使用人たちに張り付く事にした。それがランダバ公爵が主催する『闇サロン』だった。
その結果として、二人は使用人たちがスウリに接触する場面に遭遇したのだ。
「ま、相手が誰だろうと俺には関係無いかな。どうせスウリには梟をつけているんだろう?」
スウリを見失ってもクゥセルがさして慌てていなかったのは、ノールディンが梟に彼女の護衛を命じている事を予想していたからだ。
「今も目を離すなと言ってある」
憮然として、ノールディンは答えた。
それに同意するように、彼の足元に跪いた梟が頭を垂れた。
「それじゃあ、俺はぼちぼち帰るかな」
「……迎えに行かないのか?」
ぼそりと呟かれたその言葉に、クゥセルは軽く手を振った。
「無理無理。今はあの子、自己反省中だろうからさ。ほっとくのが一番だって」
それに俺の姿見て逃げ出されたら今晩眠れなくなっちゃうしな〜、とノールディンの傷を抉る様な台詞を平然と放つ。
特に別れを告げるでも無くクゥセルが立ち去った後、ノールディンは梟に視線を落とす。
「……梟、例のサロンには制裁処置を下す」
「はい」
頷いた梟は、顔を上げた。
表情を浮かべないその顔には、「どこまでやりますか?」と主の意向を伺う色があった。
それに対して、ノールディンは久しく浮かべなかった種類の笑みを浮かべた。
傍らで見ているハインセルをぞっとさせる程、威圧感に満ちた笑みだ。
「皇家の人間に手を出したのだ。それ相応の報いを受けてもらおう。……手足の二、三本は捥いでやれ」
この『手足を捥ぐ』という表現は、資金源を断つという意味で使う隠語だ。
件のサロンが如何に非公式であろうと秘密裏の行動を行おうと、そこには必ず金銭が使用される。自然、その資金の調達先も後ろ暗い行為となる場合が多い。
ノールディンは梟を使って『闇サロン』の現状を調査し、その資金源まで把握していた。そこまではいいのだが、全てのサロンに高位貴族が関わっているのだ。先代皇帝の時代に力をつけていたこれらに手を出す事は容易ではない。
しかしここに至って、彼はそんな配慮は無用と思い切った。
この決断による痛手が皇帝ノールディンの治世に影を落とす事は無いと、即位から二年を経て、ようやく自信を持って言えるようになったのだ。
ところが、だ。彼らに相応の報いを受けさせたからと言って、ノールディン自身の腹に巣食う苛立ちが解消される訳では無い。
彼は路地の奥へと足を進めた。
「手始めにそのアジトとやらを潰すぞ。案内しろ」
梟に命じれば、彼は黙して首肯し、ノールディンの先に立った。
その背後でハインセルが慌てた声をあげる。
「陛下っ、いえ、ノルド様! ご自身が行かれる必要などありません。危険です!」
「いいや?」
ノールディンは軽く肩を回しながら、彼の忠告にこう返す。
「良いストレス発散になるさ」
どうしてだかその声には喜びの色があるような気がして、ハインセルは無意識に首を傾げていた。
先を行く梟を見るが、彼が主の行動を止める様子は無い。
梟と呼ばれる者たちが唯々諾々と皇帝の意向に従う者かと問われると、ハインセルは否と答える。彼らが主の命に異を唱える所を幾度か見た事があるからだ。もちろんそれも、代替案があったり彼らだけが知る情報があったりと、故あっての事ではあったが。
つまり、梟の行動はこう言っているも同然なのだ。『皇妃を襲おうとした者共のアジトを潰す為に、皇帝が自ら出向く事に、梟は何の懸念も抱いていない』と。
そうなるともう、ハインセルの選択肢は一つとなる。
一方、小走りで追い掛けてくる騎士団長の足音を背に聞きながら、ノールディンは疑問を一つ、胸に抱いた。
何故、スウリは逃げたのか。
エダ・セアの森でも、城でも、彼に向き合う彼女が逃げた事なんて一度も無かったのだ。
なのに、あの大きな瞳に一瞬の逡巡を見せた後、彼女は真っ直ぐに駆け出したのだ。
その時のスウリの表情が、まるで瞳に灼きついたように、ノールディンの脳裏に幾度も甦った。