57.少年
「う〜ん。クゥセルがいないわ……」
スウリは買い物籠を片手に、市場の端で首を傾げていた。
ラズリードに月下香を見せて貰った翌日、彼女は午前中から古書店の仕事に取りかかっていた。それが終わった時、いつもは店の周囲の何処かしらにあるクゥセルの姿が見当たらなかったのだ。
買い物をしているうちに合流できると思っていたのに、何時まで経っても彼は現れないまま、今に至っている。
ところが、古書店に戻って待っていようかと思案しながら歩いているうちに、彼女は見過ごせない光景に遭遇した。
大通りを一本中に入った路地で、十人程の子どもの集団が一人の少年を寄ってたかって小突いているのだ。
わあわあと騒がしいが、「外国人」や「さっさと帰れ」だの不穏当な言葉が飛び交っている。
きゅっと一瞬唇を引き結んだスウリは、その場に踏み込んだ。
「貴方たち、何をしているの?」
抑えた声音で、けれど澄んだその声は子どもたちの喧噪の中に響いた。
はっと振り向いた子どもたちの中に見知った顔を見つけて、スウリの眉をひそめる。
「……ビーク?」
スウリの姿を認めて、幼い少年は大きく瞳を見開いて硬直した。
「スゥ…………」
周囲の子どもたちは第三者の介入に、一様に「まずい」という表情を浮かべた。
そして我先にとその場を後にしようとする。
動かないビークの肩を、他の子どもがぐいっと引っ張った。
「ビーク! 逃げるぞ!」
はっと友人の方を振り返ったビークもまた、そのまま走り去った。時折、スウリの方を伺いながら。
その様子が気にはなったが、結局彼女は小突かれていた少年の元へと駆け寄った。
「大丈夫? 怪我はしていない?」
年頃は十二、三歳くらいだろうか。フードのついた上着を着た少年の傍らに膝をついて、彼女は声を掛ける。
そして、上着の端から覗く彼の肌が黒いことに気がついた。
その肌の色は、帝国領内では南のジャシーファダ地方に住む民族特有のものだ。
目を見張った彼女の手を、少年は振り払った。
「離せよっ」
振り払ってきたその手の平が擦り剥けて赤い血が滲んでいる事に気がついたスウリは迷わなかった。
その手首をさっと握って彼を見つめる。
「駄目。怪我してるじゃない」
怯まないスウリに、少年は驚いたらしい。
「怪我?」
きょとんとして、それから自分の手の平を見た。
「ああ。……いや、こんなの大した事無いっ」
そう言って、再び手を振り払おうとしたが、スウリはその手を離さなかった。
「消毒は出来ないけど、洗うくらいはしなくちゃ。来て」
そのまま彼を引っ張っていた先は、周囲の家が共有している水場だ。海の近くだから井戸は無いが、上水道を引いている場所が幾つかあるのだ。
コックを捻って水を流すと、その下に少年の手の平を差し入れる。
手についていた砂が流れて傷口が明らかになるが、本当に擦り傷だけで、スウリはほっと息を吐いた。
「はい。そちらの手も貸して」
差し出した手と彼女の顔を順番に見てから、少年は素直に反対の手も出した。
こちらは傷らしい傷も無く、綺麗なものだった。
両手を洗い終わって、彼を傍にあったベンチに座らせる。
少年の隣に腰を下ろしたスウリがハンカチで傷のある方の手を覆っていると、ぽつりと彼が言った。
「姉ちゃん、変な人だな」
どうしてそんな事を言われるのかと、不思議に思ってスウリは少年を見る。
すると彼は、「だって」と子どもらしく口を尖らせた。
「だって、この国のヤツらって、みんなオレたちを見下すぜ?」
本来は人懐っこい子どもなのだろう。それを表わすように少年の口調は軽やかだった。
しかし、軽く言われた台詞には、深く重い理由がある。
ジャシーファダ地方は帝国の領土である前は、隣国イルサ公国の植民領であった。
年間を通して暑く乾燥した土地は、暮らすには厳しい場所だ。一方で、その環境はこの地方特有の果物や鉱物を生み出していた。
そういった大陸中で珍しがられるものを商品として、海を渡り交易を行うのがジャシーファダ地方の男たちの生業であった。
イルサ公国はその産物を増産して売買を独占する事で得られる利益を狙ってこの土地を植民領とした。
手始めに、交易船を国有財産と称して取り上げた。それによって仕事を失った男たちや女子どもまで引き立てて、オアシス周辺に作らせた農園での農作業や砂漠での鉱物の採掘に従事させたのだ。
そんな事が五十年近く続いたが、鉱物の埋蔵量などたかが知れていたし、そもそも耕作に向かない土地なのだから農産物の収穫高は年々落ち込んでいく。
はっきり言ってしまえば、イルサ公国による植民領化は失敗していたのだ。
ジャシーファダ地方には複数の部族があり、古来より部族会議によって意思決定を行う習いがあった。
イルサ公国のやり方に、もはや誰もが黙っている訳には行かなくなった時、部族会議は一つの結論を出した。
その結論とは、帝国への帰属であった。
時の皇帝オルディーンは彼らの願いを受け入れ、イルサ公国へは多額の補償金が支払われる事で決着がついた。ジャシーファダ地方をお荷物と見ていたイルサ公国に文句がある筈も無く、全く穏便にこの地方は帝国の一部となったのだ。
それから十年程が経ったが、それでも帝国国民にとって彼の地方は『元植民領』であり、そこに住まう人々は辺境の蛮族のように見られることが多く、偏見も未だ根深い。
だから、初めて会うというのになんの躊躇いも無く接してくるスウリの行動に、少年が戸惑いを抱くのは無理の無いことだった。
しかしスウリは帝都でジャシーファダの部族長たちに会った事があった。
彼らはいたって温厚で穏やかな物腰を崩さず、濃い肌の色に乗せる笑みは野趣を帯びながらも優しいものだった。
それを知る彼女としては、少年の言葉には、ことりと首を傾げるしか無い。
「……そうなの?」
「普通はね。まあ、姉ちゃんはやっぱり変なんだな。それとも世間知らず? 深窓の令嬢ってヤツ?」
世間知らずは否定しきれないが、深窓の令嬢では無いから否定する。
「そんなものではないわ」
「へえ……」
あまり信じていなさそうな少年に、スウリは困った様に眉を下げたが、すぐに気を取り直した。
「そうだ。私はスウリというの。貴方は?」
「……スゥリ?」
少年の言い間違いに、スウリの心臓が大きく脈打った。
似ても似つかない低い声が自分をそう呼んだ様な気がして、胸の奥が痛むような痺れるような感覚が沸き上がる。それを誤魔化すように、彼女は首を振った。
「違うわ。ス、ウ、リ」
「ああ、『ウ』を単体で使うんだ。……珍しいね」
顔を上げた拍子に落ちたフードを気にも留めることも忘れて瞬く彼に、スウリは少し微笑んだ。
「よく言われるわ」
「だって、たいていは『イドゥ』とか『ウィラ』とかって使うもんね」
「そうね。私の友人も『ウィシェル』とか、『クゥセル』だもの」
特に帝都の辺りではそういった使い方が顕著で、要塞都市アンジェロの住人たちはすぐにスウリの名を言えるようになったが、クゥセルは「結構練習した」と胸を張っていた事があった。
それでも子どもたちには言い難いらしく、自然、彼女の愛称は『スゥ』となっていった。
ちゃんと呼べる癖に、『スゥリ』と呼び続けたのはたった一人だ。
「言い難いでしょう。よかったら『スゥ』って呼んで」
「……あいつ、あの、ビークってガキもそう呼んでた」
スウリの台詞へ言葉を返しながら、少年の表情が固くなった。
そっと彼の肩に手を乗せて、スウリは思わず「ごめんなさい」と呟いていた。
少年はくすっと笑う。少し大人びた笑い方だ。
「なんで姉ちゃんが謝るのさ」
スウリはその問いには答えずに、別の言葉を口にした。
「この国は良い方向に向かっているもの。きっと、ううん。必ず、貴方たちへの偏見も減っていくわ」
真剣に言うスウリに、少年は首を傾げた。
「姉ちゃんは、この国が好きなの?」
その質問に、スウリは自信を持って答えられる。
「ええ。好きよ」
揺るぎないその返答に、ルムジはやはり首を傾げたまま、更に問いを重ねた。
「あのさ、姉ちゃんって、違う国から来たの? 名前の事もそうだけど、オレたちと同じような、なんて言うのか、他のヤツらとは『違う』感じがちょっとだけ、する」
言い難そうにしながら、ルムジは頭を掻いた。
鋭い指摘を受けたスウリは目を見開き、それから少し瞳を伏せた。
彼女に、少年の問いをはぐらかす気は無かった。
「ええ、そう。……ずっと、ずっと遠い所から来たの」
「やっぱり」
自分の推測が当たっていたと言うのに、ルムジは得意げな顔などしなかった。
どこか不思議なものを見るような目は変わらない。
「それなのに、オレたちと同じなのに、姉ちゃんは、どうしてこの国が好きって言えるんだ?」
スウリはゆっくりと瞬いた。
何時だって、この想いにだけは自信が持てた。
「私はとても恵まれていたの。……不安でいっぱいだった頃にね、この国で出会った人たちは優しい人ばかりだったわ。見ず知らずの私の為に心を砕いてくれる、素晴らしい人たちばかりだったの」
ルムジの顔を覗き込めば、彼は酷く驚いた顔をしていた。
「……凄いね」
花が咲くように、スウリは笑った。
「凄いでしょ?」
嬉しくて、誇らしい。エダ・セアの森や要塞都市アンジェロで触れ合った人々を思い出す時、いつも彼女の胸には暖かかなものが湧いてくるのだ。
そんな優しい人たちばかりでは無いと知った今でも、それは何も変わらない。
スウリの笑みに少年はほんの少し頬を赤らめて、ぱっと顔をうつむけた。
少し間を置いて、ぽつりと言う。
「オレは、こんな国……」
吐き捨てる様なその台詞に、スウリの心に悲しみが広がる。
彼らジャシーファダ地方の民に『こんな国』と言わせてしまうのは、皇妃としての自分の働きに不足があったのだろうと思うと苦しい。
「……嫌い、だったよ。結局、イルサ公国となんにも変わらないって、ずっと思ってた」
けれど、次にルムジが発したのは、過去形の台詞だった。
顔を上げて、彼はにっと笑う。
「この国は、良い方向に向かってる。そんな気が、オレもする。あ、おれはルムジ。これでも船乗りだよ」
ようやくの自己紹介と彼の子どもっぽい笑い方に、スウリも笑みを浮かべる。
すると、ルムジは秘密の話をするように、彼女に少し近づいた。
「……今の皇帝陛下って凄いんだってさ。仕事が速いって言うの? 色んな事を変えていってるんだってさ」
法律も大分変わって来ている。例えば、海洋貿易に掛けられていた関税はすっかり撤廃されているし、港湾使用料も船舶規模による変動を除けば一律になっている。
要するに、他の領地を通る度に取られていた通行料金は掛からなくなり、港に船を停泊させる為に支払う金に身分による差をつける事が許され無くなったのだ。
「そうみたいね」
スウリが頷けば、ルムジも軽快に話す。
「船がさ、イルサ公国だった時はあの国のものって言われて盗られてたんだよ。でも、今の皇帝陛下が皇太子だった時に、議会で俺たちに返すべきだって言ったんだってさ。皇太子って、まだ皇帝じゃないのにさ」
皇太子はまだ皇帝ではない、そんな当たり前の事を不思議そうに話す様子が面白くて、ふふっ、とスウリは笑いを零してしまった。
そんな彼女に構わず、ルムジは話し続ける。
「そんでさ、皇妃様も凄いんだよ」
その一言に、スウリはかちん、と固まった。
「病院とか、貧乏人の家を作ろうって言うんだってさ。あと、……学校! 今度帰ったら、オレ、学校に行けるんだ! 父さんが金が掛からないなら良いって言ったんだ」
まあ、次の出航までの短い期間だけどさっ。
少し唇を尖らせて言う彼の横で、スウリはどんな顔をしていいのかわからなかった。
また、ぱっと表情を変えたルムジは足をぶらぶらと揺らして言う。
「そうだ。父さんが言ってたんだよ。こうやって色んな所で商売できるようになったのは皇妃様のお陰だって」
スウリは驚いて瞬いた。
「……皇妃様の?」
「そうさ。……姉ちゃん知ってる? 皇妃様って違う世界から来たんだってさ」
「えっ!」
スウリが界渡りであることは重臣には知らされているが、皇室として公言している事では無い。
だから彼女は、まさか一般の船乗りの少年が知っているとは全く思っていなかった。いや、港を渡る暮らしだからこそ、そういった噂話に触れ易かったのかもしれない。それでもスウリが意表を突かれたという事実に変わりは無かった。
「なんだ、知らないの? 結構有名なのに」
呆れた様にルムジは言って、すぐに先を続けた。
「でさ、肌の色の違うヤツの商品なんか信用できないって言ってくるヤツがいるんだよ。そう言うヤツにさ、『違う世界の人が皇妃様やってるのに、同じ国に住んでるオレらが兎や角言われる筋合いは無い!』って言ってやるんだって、父さん笑ってたよ」
にやりと、彼も不敵に笑って見せた。
きっとその笑みは父親のものとそっくりなのだろう。
「よしっ。じゃあ、オレもう行くよ」
そう言って勢い良く立ち上がったルムジの動きに、スウリははっとして立ち上がった。
「怪我は?」
「こんなのただのかすり傷だよ!」
手の平を振って笑う少年に、彼女は苦笑した。
「じゃあ、もしも酷く痛んだり熱が出たりしたら、この先にある診療所に行ってね。私の友人のウィシェルっていう子がそこで働いているの」
スウリの指差した先を見ながら、ルムジの表情が少し陰る。
もしかしたら、どこかの診療所でも今日の様な思いをした事があるのかも知れない。そう思ったスウリはしゃがみ込んで、彼を見上げた。
安心させたくて、小さく微笑む。
「ウィシェルってね、怪我したり病気をしたりした人はみーんな自分の患者さんだって言うのよ」
「……ジャシーファダのやつでも?」
「もちろん。だから、その診療所に行ったらウィシェルを呼んで。ね」
ひた、とスウリを見つめたルムジは、やがてこくんと首を縦に振った。