55.懇希
スウリと知り合って、そう間もない頃の事だ。
ノールディンがエダ・セアの森を訪れた時、スウリは真剣な表情で聖域の泉を覗き込んでいた。
あまりに真剣にそうやっているものだから、クゥセルを置いて先に来たというのに、ノールディンは声を掛けることを躊躇った。
彼女を知るうちに解った事だが、スウリは一つ事に集中すると、割と他を忘れてしまう。今だって、彼の存在に気がつかないばかりか、スカートの裾が泉に浸かっている事に気づいてもいなかった。
ノールディンは静かに背後に歩みよる。流石に足音で気がついていると思っていたのだ。
「そんなに熱心に、何をしている?」
その声に、スウリは心底驚いて飛び上がった。
「えっ! あ、……きゃあっ」
勿論足場の良い場所では無いから、彼女は手を滑らせた。
ずるりと泉側に傾いていく小さな体に、ノールディンは慌てて手を伸ばす。
間一髪、細い腰に自分の両腕をがっしりと巻き付ける事に成功した。
その状態のまま、すとんとその場に腰を下ろして、嘆息を吐く。
「落ちる所だったぞ、あまり驚かせるな」
嗜める台詞に、スウリはぴょんっと肩を跳ね上げた。
ノールディンの腕の中でくるりと体勢を変えると、彼を見上げて唇を尖らせる。
「ノールが急に声を掛けるからじゃない! 本気でびっくりしたんだからねっ」
この瞳に、彼は弱い。
大きくて、こちらを見透かす瞳で詰られると、こっちが悪く無くとも謝ってしまいそうになる。
だが今回は自分が悪かったという自覚があったから、あっさりと謝罪した。
「……悪かった」
そうすると、少女は「わかればよろしい」と満足げに笑うのだ。
腰に回していた手を解いて、「それで?」と尋ねると、不思議そうに瞬く。
「それで、何をしていたんだ? 随分真剣に泉を見ていたな」
「ああ。……昨日、夜更かししちゃって」
そう言ってノールディンから顔を背ける。
「目の下の隈が、ね……」
気になるのか、指先で目の直ぐ下を軽く擦る。
首を傾げて覗き見たノールディンに気がつくと、ぺしりと彼の顔に手の平を当てる。
「女の子が気にしているものをわざわざ見ないの!」
年頃の女性と接する事の少なかったノールディンが、こうして彼女に注意を受ける事は少なく無い。
「そういうものか……」
「そういうものなのっ」
そういうものなのだと納得して、それから反省も込めてノールディンは暫く泉の向こうの森をぼんやりと眺めて黙っていた。
スウリと共にいると、沈黙の続く時間さえ心地良かった。
勿論その心地良さも彼女の機嫌が良い時に限るのだが、スウリは基本的に怒りのような負の感情を長引かせる事は無い。だからノールディンの不手際に注意をしても、すぐにその穏やかな空気を取り戻してしまい、彼を憩わせる。
片膝を立てたノールディンの直ぐ目の前で、彼の胸に寄り掛かるでも無く、僅かな距離を空けたままスウリは静かにそこに座っていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「本当は、ね。少しは見えないかなって思って……」
ノールディンが彼女を見下ろすと、その視線は鏡のような水面を見つめていた。
「……元いた場所か?」
ノールディンとクゥセルは未だに彼女に自分たちの素性を明かしてはいなかったが、スウリが界渡りである事はあっさりとクゥセルによって暴かれていた。
まあ、「スウリって界渡りー?」と彼女手製のサンドイッチを頬張りながらクゥセルが聞いたのに対して、スウリがお茶を差し出しながら「そうだよー」と答えて終わったのだが……。
「うん……」
ゆっくりと瞬くその瞳の奥の感情を読み取る事は、ノールディンには難しかった。
だが彼女と出会ってから、彼は他者の心に自身の心を添わせる事を覚え始めていた。少なくとも、そうしようと努力していた。
これまではそんな事をする必要は無かった。
皇帝である父に次いでこの国で最も地位の高い人間としてノールディンに求められてきたのは、その権威を誇示し、権力を維持する事。端的に行ってしまえば、他者と一線を画して偉ぶることだったからだ。
ゴールゼンやドルド・バセフォルテットらによる『教育』は彼に強者と弱者の違いや富者と貧者の違い、それを含めた政治の重要性を叩き込んだが、一人の人間を思いやる事を教えてはくれなかった。
だから、どうしてもスウリと接する時は試行錯誤を繰り返す他無いのだ。
そして彼女はいつも、ノールディンのつまらない失敗を笑顔で許して、ささやかな成功を穏やかに喜んでくれる。
愛おしいと、どうして思わずにいれようか。
「残して来た母親の事か……?」
彼女の心がわからない以上、問い掛ける事しか、ノールディンに出来る事は無かった。
その問いに、スウリは少し首を傾げた。
「お母さんは、きっと大丈夫」
何故、と聞き返す前に、スウリはにっこり微笑んでノールディンを見上げた。
「ウィシェルがね、祈りは捧げるものだって教えてくれたの。私、お母さんの為に祈りを捧げるって決めたから、お母さんはきっと大丈夫。元気に過ごしているわ」
そう言って細められた目の端に、自然と指が引き寄せられる。
近づく指先を不思議そうに見ているスウリに、ノールディンは尋ねた。
「泣いたか?」
短いその台詞にびっくりして、スウリは固まった。
いつでも笑っているスウリが、母を想って泣いたかどうかがノールディンは酷く気になったのだ。
「ううん。なんで?」
目一杯開かれたその瞳に自分が映っているのが見える。
ノールディンはいつも、この瞳に隠す事など何一つ無いと感じるのだ。
「……母が亡くなった時、俺は泣いたそうだ」
なにせ彼が三歳の時の話だし、伝え聞いた事だから、真実かどうかはわからない。
それでも、『氷の皇太子』と呼ばれる自分のそんな姿を伝える事に躊躇いはしなかった。
スウリは、輪を掛けて驚いたようだ。
「ノールが? ……泣いたの?」
「聞いた話だがな」
付け加えてはみたものの、自分でもかなり半信半疑な台詞になってしまった。
暫くノールディンを見上げていたスウリだったが、おもむろに顔を伏せて立ち上がった。
ぐいぐいと彼の袖を引っ張って同じように立ち上がらせる。
訳もわからず成すがままの彼に回れ右をさせると、スウリはその背中にぐっと顔を押し付けた。
「ノールが悪いんだからね。外套を、汚されても文句なんか、言っちゃ駄目だからっ……」
鼻を啜る音と共に告げられたその言葉に、ノールディンは思わず空を見上げて溜め息を吐いた。
その溜め息を呆れととったスウリは、文句を言おうと顔を上げた。
顔が離れたその隙をついて、ノールディンは体を反転させた。
目の縁に涙を溜めたその顔を、ぐっと胸に抱き込む。
「頼むから、見えないところで泣くな」
どうしていいかわからない。
そう呟くと、スウリはぎゅっと抱きついて来た。
ノールディンは、しゃくり上げる小さな肩を、抱き締めている事しか出来ない自分がもどかしかった。
彼女は声をあげて泣いたりしない。ただ溢れてくる熱い涙をその瞳から零すばかりだった。
風が何度か静かに吹いて、ノールディンがスウリの髪を撫でる事を思いついた頃、彼女は小さく唇を動かした。
「ありがとう……、ノール」
「いや。すまん、慰め方がわからなくて……」
率直にそう言えば、くすくすと彼女は笑った。
その笑い声にノールディンの胸の奥がいやに暖かくなった。
そして、こう思う。
この、強いふりの得意な少女を守りたい、と……。
スウリは辛い時も笑っている強さを持っているが、それは強がりではないだろうかと、彼は感じるのだ。弱さを隠して強い人間であるふりをする事がとても上手い、と。
……ならば自分はその押し隠した弱さこそを守りたい。
そんな風に考えていると、森の奥でがさがさと音がした。
誰が来たかはよくわかっていたから、視線だけをそちらに向ける。
「え〜と、……邪魔しちゃった?」
頭を掻きながら、クゥセルが愛馬と共に現れた。
わかっているなら遠慮をしろっ、と鋭い視線を投げたところでこの幼馴染みに効く筈も無く。彼はにやり、と人を喰った様な笑みを見せた。
「クゥセル」
ノールディンの体に回していた手を離して、彼の背後に首を伸ばしたスウリは現れた男の名を呼んだ。
その声にクゥセルは片手を上げて答える。
「やっ、スウリ。遅れてごめん!」
「待ってなかったから、大丈夫よ」
軽口のやり取りも、すっかり慣れたものだ。
「今日のお菓子は何かな〜」
と、馬の手綱を木の枝に引っ掛けながら、クゥセルは弾んだ声をあげる。
よもや菓子の為に邪魔したんじゃないだろうなと、胡乱な視線を幼馴染みに送っていると、袖をつんつんと引かれた。
見下ろせば、スウリがこちらを見上げている。
「どうした?」
自分でも驚く程、柔らかい表情と声を彼女に向けている事が知れた。
少し迷った素振りを見せてから、スウリは微笑んだ。
「泣かせてくれてありがとう。……慰めてなんてくれなくていいの。あれで充分、だよ」
ノールディンは、驚きと、喜びと、そして幸いを感じた。
一時の物思いから立ち返れば、丁度エルディーザたちが戻って来たところで、そこでラズリードとの話は一端断ち切れた。
けれど、オルナド・バーリク伯爵の後継が最後に放った一言は、ノールディンの胸に再び深い痛みを与えた。
『貴方は、彼の方が子どもを慈しむところをご覧になった事はありますか?』
ノールディンの脳裏に、要塞都市アンジェロの城館で領主の三人の子どもたちと戯れる少女の姿が咄嗟に思い浮かんだ。
自分を慕う子どもたちに惜しみない愛情を込めて接する姿だ。
スウリの愛称である「スゥ」と呼びながら転がる様に飛び込んで来た子どもたちを順番にぎゅっと抱き締める。
ああ、彼女は、その機会を永遠に失ったのだ……。