54.対峙
三人が立ち去った居間に残ったのは二人。ノールディンとラズリードだけだ。
緩く腕を組んで、ノールディンはオルナド・バーリク伯爵家の後継者を見据えた。
「それで、そちらからは何の用がある」
叔母であるエルディーザの目的が自分と彼を二人きりにする事だと、ノールディンは気がついていた。
だからあの「皇帝陛下に渡すものの荷物持ち」という強引な理由でも、ハインセルを行かせたのだ。
ラズリードは、彼の台詞に静かに微笑んでみせた。
ノールディンが威圧的な態度をとれば、大抵の貴族の子弟は萎縮する。視線を合わせて微笑むという反応を見せる者は少ない。
なるほど、中々骨はあるらしい。
「義母の意を汲んで下さった事にお礼を申し上げます」
「礼を言われるような事ではない」
皇帝の短い台詞に、ラズリードは少し瞳を開く。しかしすぐに元の笑みに戻って、彼は左手の指を揃えて旧き一礼をした。
「改めましてご挨拶を。……久方ぶりにお会い致します。オルナド・バーリク伯爵家が後継、ラズリード・オルナド・バーリクです」
「一年の外遊に実りはあったようだな」
この二人は、ラズリードが遊学に出向く前に数度会った事があった。
勿論皇帝が後継者と親しく話すような機会がある訳も無く。会うと言っても挨拶を交わす程度で、こうして会話をするのは初めての事だった。
「ええ。大変勉強になりました。お許しくださった先帝陛下と義母には心より感謝しております」
本来ならば、ラズリードが成人した年に爵位は彼に譲られるはずだった。それはエルディーザがオルナド・バーリク伯爵位を受け継ぐ時に定められた約束の一つである。
しかしラズリードは自身の経験不足をあげて数年の外遊を行いたいと申し出たのだ。
先代皇帝オルディーンはそれを許可し、オルナド・バーリク伯爵位の譲位は十年の猶予を得たのだ。
勿論、ノールディンは父帝がオルナド・バーリク家にその許しを与えた事の意味を理解していた。
「オルナド・バーリク領の発展は帝国の利益となる。時を与えた分の働きを期待する」
「御意に」
深々と下げられた頭に向かって、ノールディンは言い放つ。
「それで、私に話とはなんだ」
ラズリードはゆっくりと顔を上げた。
その表情は柔らかでも、視線には真摯なものがあった。
「お聞きしたい事があります」
「許す」
「……陛下は何故側妃様を迎えられたのでしょうか?」
今更それを聞くのかと、ノールディンは目を眇めた。
「理由を問うている訳では無いな」
「根拠を、お聞かせ願いたく思います」
愉快では無い。こう聞かれる事は、決してノールディンにとって愉快な事ではなかった。
「根拠だと? 前例があったから、とでも答えれば満足か?」
「前例、ですか……」
ラズリードの瞳に浮かんだ不可思議な光に、ノールディンは舌打ちを堪えた。
下手を打ったと感じたのだ。ラズリードに対して、付け入る隙を作ってしまったと勘のようなものが告げる。
「では、私からも一つ前例を挙げさせて頂きたい」
「前例だと?」
「ええ。……かつてこのフォール大陸全土に戦火が広まっていた頃、『下賜』という前例をありました」
下賜とは、元来は身分の高い者が低い者に何らかの物品を与える事を指す。
しかしラズリードが口にしたこの前例とは、物品では無く人間を指していた。
それは、戦火の帝国を率いていた時の皇帝が自らの皇妃を将軍に下げ渡したという話だ。
この将軍は劣勢の状況を幾度も打ち破り、救国の英雄と讃えられた。その功績に見合うものをと皇帝が厳選した報償こそが、……自身の皇妃だったのだ。
貴族や皇族の結婚というものは利害関係の一致を持って成立する為、皇帝のこの行為は決して非難されるものでは無く、むしろ将軍の軍功の素晴らしさを示しているとして語られるのが一般的だ。
けれど、この場合は果たしてそうだろうか。
ノールディンは不快感も露わに僅かに顔を歪めた。
「自分が何を言っているのか、わかっているのだろうな……?」
低く抑えた問いに答えるのは、穏やかで優しげな声音だ。
「勿論です」
その返答に、ノールディンの纏う雰囲気が一変した。
凍てつきそうな程冷たい圧力がラズリードを襲う。
びりびりと肌が粟立つのを感じながら、けれどラズリードが引く事は無かった。
一瞬飲まれかけながらも、笑みを崩さずに立ち続ける。
オルナド・バーリク伯爵の後継として、一筋縄ではいかない各国の船主たちと渡り合って来た経験は決して伊達では無い。
しかし一方で、感嘆の意を抱く事を止められなかった。
目の前に立つ、この方が我らが帝国の皇帝か、と。
こちらを押しつぶすような威圧感、他者をかしずかせる眼光。即位してからの国の変わり様を見れば、彼の政治的手腕を疑う者などいないだろう。
この御方こそが、自分より年若くして、大陸最大の国を統治する者なのだ。
一言も発せられない中、氷にヒビが入るように軋む空気は段々と重苦しさを増していった。
沈黙を破ったのはノールディンだ。
「それだけの功が己にあると?」
眇められた瞳の厳しさに密かに息を呑みながら、ラズリードは傍らの冊子を手に取った。
開いて、ノールディンへと差し出す。
視線を外す事無くそれを受け取った彼は、そこでようやくラズリードを解放した。
手渡された冊子の中に納められた契約書を見て、ほんの一瞬目を見開いたが、すぐに冷静な表情を取り戻した。
「新たな港湾都市との交易協定か……」
「はい。現在、オンドバルでは『騎士と船の国ナヌヤ』の港湾都市としか交易が行われておりません。しかし今回協定を結ぶ事となったミズバは、チルダ=セルマンド大陸第二の港と言っても過言ではないでしょう。この交易協定が新たな利益を帝国にもたらす事を、ここにお約束致します」
自信に満ちた微笑みを浮かべて、ラズリードは皇帝を見据えた。
それが事実であると、ノールディンも頷かざるを得ない。
「確かに、ミズバ、引いてはミダージョとの交易は我が国に莫大な富をもたらすだろうな」
港湾都市ミズバは、『太陽と竜の国ミダージョ』の第二の都市だ。北方に位置するナヌヤとは大陸を挟んで反対側に位置するその国は、竜の背の如き山脈を有する。その山々の多くは鉱山であり、鉱脈の少ないフォール大陸の国々にとってこの国との交易権は喉から手が出る程求めて止まないものだった。
ラズリード・オルナド・バーリクが遊学を希望していると知った時、ノールディンは彼の交渉術の向上や交易品の種類の増加を期待していた。交易協定の締結まではまだ時間が掛かると踏んでいたのだ。
けれどこの男は遊学を許された十年の内にそれをやってのけた。
ミズバまでの新たな航路の発見という幸運が重なった事も大きいだろうが、それだけでは済まされない。ラズリードには、オンドバルの次期領主として相応しい能力が備わっている事は歴然としていた。
けれど、それと『下賜』とは別の問題だ。
「この功績は認めよう。だが、私は人間を、まして己の皇妃をものの様に扱う気は無い」
「無礼を承知で発言させて頂きますが、貴方はこれまで、あの方の心を思いやる事無くご自身を貫かれていらした。そのお言葉こそ、今更では……?」
穏やかな口調に嘲笑うような響きが聞こえた気がして、ノールディンの胸の奥が熱くなる。ぎしり、と奥歯に力が入った。
しかし逆に脳内は冴え冴えとして、このラズリード提案の裏に潜む思惑を嗅ぎ取ろうとしていた。
そして、ふと思い至る。
「其方は、……フェリシエを想うのか?」
自領の為を思うならば、新たに得た利権をこんな形でひけらかす必要など無い筈だ。
……そう、皇帝の怒りを買いかねないこんな状況に持ち込む必要など何処にも無い。
ノールディンがそうとは聞こえずとも戸惑いがちにそう問えば、ラズリードは苦く笑った。
「彼の方の為に何かしたいと願うのは私一人ではありませんよ。ただ私は、……出来る事ならばこの手で」
そう言って、自身の両手を見る。
「この手で、あの優しく、強い御方を憩わせて差し上げたい」
それは、かつてノールディンが抱いた想いに酷く近かった。まるで同じでは無いけれど、あの小柄な体を抱き締めて、自分が願い、誓った言葉が甦る。
それを忘れていたという現実が、ノールディンの胸に深く重い闇を凝らせた。