53.歴々
そして日も傾き始めた頃、皇帝ノールディンは近衛騎士団長ハインセルを連れてオンドバルの城館に現れた。
薔薇の飾られた居間で、彼らの前に跪いたエルディーザ・オルナド・バーリクは慎ましやかに口を開く。
「皇帝陛下。この度は我が領地へお出で頂き有り難うございます。ご尊顔を拝せました事、心よりお喜び申し上げます」
優雅な仕草で頭を垂れるエルディーザの背後で、ラズリードも床に膝を着く最上級の礼をとった。
その挨拶を受けて、ノールディンは敢えて彼女をこう呼んだ。
「挨拶には及びません、叔母上」
その一言に、エルディーザははっと顔を上げた。
皇帝の許しが無くば頭を上げるべきでは無いが、ノールディンが彼女を「叔母」と呼んだ事は、そこまで畏まる必要が無いと告げたのと同義であった。
普段は弁え、親類として振る舞う事の無いオルナド・バーリク伯爵のその動きに、ハインセルは主の背後で密かに驚いていた。
そんな事は露と気にしないノールディンは再び口を開く。
「お久しぶりです」
皇帝が敬語を使う、それはもう、公的な訪問では無いと言う事をはっきりさせる台詞だった。
だからエルディーザも以前の様に、叔母として振る舞う事にした。
すっくと立ち上がり、眦をきつく上げる。
二人のやり取りの意味を捉えきれなかったラズリードが遅れて顔を上げた時には、彼女はノールディンの目の前まで進んでいた。
そしてぶるぶると両手を振るわす激情のままに口を開いた。
「一体これはどういう事なの、ノールディン!」
その怒りに、ハインセルが反応したが、ノールディンは片手の動き一つで彼を黙らせた。
「何をお怒りか」
全く冷静そのものの甥に、エルディーザは更に詰め寄る。
「スウリの事よ!」
ぴくりと、ノールディンの眉が小さな動きを見せた。
ほんの数年とは言え母親代わりとして彼を見て来たエルディーザは、その小さな反応に気がついた。
「あの子が城で孤立していた事は知っていたでしょう! 私はいずれ貴方が手を打つと思っていたわ。いつまでもそのままでいるなんて思いもしなかったわっ」
いかに周囲を信頼できる者で固めようとも、皇妃たる公人が城の私室に籠っている事等許されない。何よりフェリシエ、スウリ自身がそれを自分に許す人間では無かった。
夕食を共にするなどの短い交流に加え、皇妃としての彼女の精力的な活動から、エルディーザはその事をはっきりと理解していた。だから、今でこそ何の役にも立てていなくとも、『皇妃様を陰ながら見守る会』を作り、いつか力になれたらと考えていたのだ。
「あの子はあんなにも努力していたわ。それなのに、貴方は一体何をしていたの! それに、側妃様の事だって。聞けばあの子に黙って迎えたそうじゃ無い。……貴方は、貴方はあの子を一体なんだと思っているの?! 他ならぬ貴方の皇妃でしょう!」
怒ると感情のままに話し続けるのは、彼女の昔からの特徴だ。
間に口を挟むのはかなり難しい。
だからノールディンは黙ってその言葉たちを受け止め続けた。
「私が何よりも許せないのは、あの子の心を、貴方が慮りもしない事だわ! 我が子を失って、あの子がどれほど傷ついたか。その時、貴方は何をしていたの?!」
胸ぐらを掴まんばかりの勢いに、それでもノールディンは表情を変えずに答えた。
「仕事をしていました」
その短い返答に、エルディーザは虚を突かれた。
「……は?」
「いつも通りに、皇帝としての仕事をしていました」
ゆっくりと甥から一歩離れて、エルディーザは額に手を置いた。
「昼間はそうでしょうね。では夜は?」
側妃の元に通っていたとでも言えば、殴ってやろうと本気で思った。
「仕事をして、後は自室で寝ていました」
「なんですって?」
「睡眠は必要でしょう」
そんな当たり前の事を何故聞かれるのか、ノールディンは心底不思議だった。
「ユーシャナ様、は……?」
「側妃がどうかしましたか」
「お通いだった、でしょう。それも、まさか仕事だと?」
「皇帝としての仕事に他ならないでしょう」
事実、ノールディンは側妃の部屋に朝までいた事は無い。
多種多様にある片付けなければいけない案件が山と積まれているのだ。一つの事に深く関わる時間は無いに等しかった。
「……………………」
ああ、そうか、そう言う事か。エルディーザは腑に落ちた。それも、全く一部の点においてだけ。
彼は生真面目なのだ、どこまでも。
そして皇帝としての責務に何より重きを置いているのだ。側妃を迎えた事は、彼にとって義務を果たす為に他ならない。
エルディーザは心の中で、甥の教育係の一人でもあった宰相ドルド・バセフォルテットを散々に扱け下ろした。人間としての情緒を育む機会を何処に忘れて来たのだろう、あの教育係は。
「わ、解り難いですが、解ったことにします。側妃の件はそれで結構! では、傷ついたスウリを何故放っておいたの!」
そこでノールディンは初めて小さく首を傾げた。
「そこが解りません」
「どこが?」
「子を産めなくなって妃の位を退くという例は、自国でこそありませんが、東方ではままある事のようです」
彼女が離縁を申し出た理由は最もでしょう。と続ける。
そして問題発言をした。
「しかし、何故子を失うと傷つくのです」
「……………………」
くらり、とエルディーザはよろめいた。
その背を支えたのは、直ぐ後ろに控えていた義息子のラズリードだ。
「な、なんですって?」
「私が知る母親とは、子を失えば食い扶持が一つ減ったと喜ぶような生き物です」
「……そ、それは、どこで見たの?」
「ゴールゼンに連れられて行った貧民街で」
ノールディンとクゥセルが五つか六つの頃から、ゴールゼンは「何事も経験」と称しては帝都でも治安が最低の地域に二人を連れて行った事が度々あった。
帝都の最下層の暮らしは凄まじかった。帝国の闇をそこに固めた如しと言えるものだ。
そんな貧しい暮らしを知る事も必要と、前皇帝はゴールゼンの行為を容認した。それもこれも、オルディーンにとってのゴールゼンは信頼厚き親友だったからだ。
しかし貧民の生活を知る以前に、ノールディンは一般家庭を知らなかった。
そこが、共に過ごす事の多かったクゥセルとの決定的な違いでもある。
タクティカス侯爵とその妻である両親、後に生まれて来た弟が、クゥセルの育った環境の構成員である。
対して、月の半分を寝台で過ごす父、離宮に与えられた室から出る事の殆ど無い側妃たち、六歳まで傍にいた通いの乳母、その乳母と共に登城してくる息子のクゥセル、そして叔母のエルディーザと教育係や近衛騎士たちが、皇太子ノールディンの育った環境の構成員である。
働く父がいて、家を支える母がいて、兄弟たちと遊び回る。そんな当たり前の風景を皇太子が知らないことに、世間知らずの前皇帝はいざ知らず、ゴールゼンら教育者側の頭からもすっかり抜け落ちていたのだ。
その場にいた全員が、自国の皇帝陛下がいかに偏った教育を受けて来たのか、今、初めて知った。
エルディーザは沸騰しそうな怒りそのままに、持っていた扇を床に叩き付けた。
「ゴールゼン! あの大馬鹿者! 私の甥になんて事を教えてくれたのっ」
スザイの方に振り返って、彼女は叫んだ。
「今直ぐあの太い首をへし折っていらっしゃい!」
ラズリードは慌てて彼女の両肩に手を添える。
「落ち着いて下さい、義母上。スザイ、君もそんな事はしないように!」
一礼して退室しようとしていた執事にも命じた。
彼の命を聞く様な男ではないが、この場を納める為にもそうする事が必要だと感じたのだ。
そして、未だ荒い息をつく義母に声を掛ける。
「義母上、どうか落ち着いて」
「そうですよ、エルディ様。今更あの男をどうにかしたところで、陛下に施されたとんだ教育の取り返しがつく訳ではありません」
先程主の命に従おうとしていたのは一体何だったのかと思う程、当たり前の顔をしてスザイはそう言った。
皆が唖然とした表情で黒い服の執事を見る中で、何とか落ち着きを取り戻したエルディーザは首肯した。
「そうね。あの男が首をへし折ったくらいでどうにかなるのなら、もう何年も前にどうにかなっているわよね……」
納得する箇所が微妙に違う気もするが、ともかくエルディーザは冷静になったらしい。そう判断したラズリードは彼女の肩から両手を下ろした。
スザイが差し出した扇を手に取り、エルディーザはノールディンに向き直った。
「私、かなり動揺しておりますわ」
「そのようにお見受けします」
頷く甥に、彼女は小さな一礼を見せる。
「冷静になるまで、少しお時間を頂きたいと存じます。つきましては荷物持ちとしてハインセル・イマジア殿をお借りしても宜しいかしら? 陛下にお渡ししたいものがありますの」
ノールディンはそれを許可した。
「構いません」
「有り難うございます」
微笑んで退室した彼女に続いたスザイが、ハインセルを促す。
「イマジア卿、どうぞこちらへ」
「……陛下」
傍を離れる事に難色を示すハインセルに、ノールディンは一瞥を送る。
「問題は無い。行って来い」
渋々とハインセルは一礼して退室した。