52.想思
スウリとクゥセルが仲良くお茶を楽しんでいた頃、ラズリード・オルナド・バーリクは居館の廊下を歩いていた。
両手には、領主への報告事項を纏めた書類が抱えられている。一年間の遊学は、彼に様々な経験を積ませてくれたと同時に、次期領主に相応しい行為を求められもした。その成果がその手にあるのだ。
すれ違う侍女や侍従たちは、彼の姿を認めると廊下の端に寄って丁寧な礼をする。誰の口元にも笑みが浮かび、その視線は彼の帰還を歓迎するものばかりだ。
ラズリードも柔和な笑みを絶やさずに、軽く言葉を掛けたりしながら進んで行った。
やがて居間まで辿り着き、その扉をノックする。
義母の答える声が聞こえてから片手で扉を開くと、内側からも支えがあった。
見れば、スザイが扉の脇に控えて入室を促している。
「やあ、スザイ。久しぶりだね」
「無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
慇懃な礼は相も変わらず、片眼鏡がきらりと光を反射した。
心から言っているのか、かなり疑問の残る声音だったが、そんな対応に慣れているラズリードは気にする事無く「ありがとう」と返す。
そして義母の座るソファに歩み寄り、彼は首を傾げた。
「義母上……?」
扇を太ももの上で握りしめたエルディーザは、その美しい額に深い皺を刻み、悩ましげな表情をしていたのだ。
ラズリードを見上げると、視線を俄かに揺らす。
「ラズ……。思っていたよりもずっと早かったわ。私は、どうすれば良いのか……」
どこか哀しげに、彼女は言う。
細い肩を支える様に、ラズリードは彼女の横に腰掛けた。
「一体何があったのですか?」
彼の問いに、エルディーザは執事へと視線を走らせた。
無言の命を受けたスザイは口を開く。
「皇帝陛下がオンドバルに到着されました。お忍びでの訪問ですが、二、三時間の後にこちらへ伺いたいと伝言を受け取りました」
ラズリードは目を見開いた。
「皇帝陛下が?」
「私は、……あの子の為に、何をしてあげられるかしら」
握っていた扇ごと拳を胸元に引き寄せて、エルディーザは不安げに言った。
あの子、がスウリを指す事は確かだ。
義母が彼女を慈しむ想いは本物だ。ラズリード自身、幼い時分に養子に来てからずっと実母のそれと変わらぬ愛情を彼女から注がれていたのだ。わからない訳が無い。
彼は、自分の手の内にあるものを思案する。
そして、決断した。
「……義母上。では、こういうやり方はいかがでしょうか?」
そう長い内容でもないラズリードの提案を聞いて、エルディーザは青醒めた。
「ラズリード、それは危険だわ。ともすると、陛下のご不興を買ってしまうでしょう……!」
彼女が恐れるのは皇帝の怒りでは無い。
「その結果が、この地を、オルナド・バーリク領を傷つける事になりかね無いわ」
けれど、ラズリードは怯まない。
きっぱりと言い切った。
「いいえ、私には切り札があります」
「切り札……?」
不思議そうにこちらを見上げるエルディーザにしっかりと頷いてみせ、テーブルに置いた資料の一番上の冊子を手に取った。
それは、ある契約書を挟み込んだ革張りの冊子だった。
膝の上でそれを開き、エルディーザに差し出す。
彼女は、息を呑んだ。
すぐにラズリードを見上げる。
「ラズ、これは!」
彼はにっこりと微笑んでみせた。
エルディーザの肩から、ゆるゆると力が抜けていく。
オルナド・バーリク伯爵として、これからラズリードが為そうとする行いに如何に皇帝が不快感を示そうとも、それを不問にせざるを得ない程の効力をその契約書は持っていると確信したからだ。
ふと、ラズリードは黙したままのスザイに意見を求める事を思いついた。
「スザイ、君は私の案をどう思う?」
傍らに控えていた執事は、ゆるりと微笑んで言った。
「宜しいのでは無いでしょうか」
思わず、ラズリードは目を見開いて、それから口を開いていた。
「スザイ……? これは義母上に関係した話では無いよ?」
いささか呆然としていたかもしれない。
それも仕方が無い。
目の前に立つ執事服の男の一番の感心事というのは、エルディーザの事なのだ。
過去、ラズリードが彼に義母とは何の関わりも無い話を振った折り、スザイの反応は「そうですか」か「ご随意にどうぞ」のいずれかであった。養子に来たばかりの頃は、その薄笑いと共に告げられる台詞に、「自分は嫌われているのでは」と悩んだものだが。何の事は無い。彼はエルディーザの事以外では一片の労力も払う気は無いというだけの話なのだ。
そんな彼の思いもかけなかった返答に、ラズリードのみならず、エルディーザも固まった。
二人の反応に、スザイは「心外だ」と言いたげに片眉を上げた。
「これでも私は彼の方を気に入っております。そして、皇帝陛下の為さりように若干の不満も覚えております」
片眼鏡をついっと持ち上げて続ける。
「ラズリード様のご提案はオンドバルの権威を振りかざしつつも、こちらの優位性を顕示する結果となりましょう。中々良いご趣味かと」
暗に悪趣味だと言われている気もしないでは無いが、彼にしてみればかなり褒めていることがわかる。
「更には、彼の方に対する仕打ちへの意趣返しにもなるでしょう。総合的に言えば、大変良い案かと存じます」
最後の一言は、噛み締める様にゆっくりと告げられた。
この執事にそこまで言われては、今更止めになど出来はしない。元よりラズリードにその気はさらさら無かった。
だから彼は満面の笑みを持ってスザイに答える。
「どうもありがとう。君にそう言ってもらえて、とても心強いよ」
その表情は、邪気を持たない子どもの笑い方にも見えるが、しかしその奥に強かさを秘めていた。
エルディーザはそれが、目の前に立ちはだかる困難に挑む際に愛する夫が浮かべた笑みとよく似ている事に気がついた。義息子の成長ぶりに、彼女は胸が熱くなった。