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民の望んだ皇妃  作者: 界軌
本編
51/85

51.再転

 その日の正午も通り過ぎた頃、港湾都市オンドバルでは夏が最後の力を振り絞っていた。


「………………………………溶ける。いや、融ける……」


 クゥセルは小さな食堂のテラスに置かれたテーブルに突っ伏してへばっていた。


 そう簡単に秋に主役を譲ってやるものかと言わんばかりに気温が上がっていたのだ。


 店の屋根から伸びた覆いが陽射しを遮っているが、冷えていたはずのお茶は器から流れ出た大量の汗とともに冷感を失っていた。


 その時、だれきったクゥセルの前の席の椅子が引かれて誰かがそこに腰掛けた。


 のそりと肘を立てて、その上に頬を乗せたクゥセルは口を開く。


「よぉ……。思ったより早かったな」


 皮肉げに唇を歪める彼に、相手は冷ややかな空気を放った。


「こんなところで何をやっている」


 うだる程暑いというのに、ノールディンは涼しげで表情を変えない。


 羨ましいという思いは顔に出さずに、クゥセルは親指を適当な店に向けた。


「あれあれ。あの店の荷運びの護衛中」


 親指の先では、店先で馬車から荷物を下ろしたり運んだりしている男たちの姿があった。


 護衛の仕事など全くの大嘘なのだが、ノールディンの傍らに立っていた人物から厳しい言葉が降ってくる。


「護衛中のはずなのに、何故君はここにいるのだ、クゥセル・タクティカス」


 クゥセルが見上げれば、懐かしの巨体がそこにいた。


 余っていた片手をひらひらと振って、彼はご挨拶する。


「やあ、どうも。お久しぶりです、先輩。皇帝へぇーかのわがままに付き合うのも大変ですね」


 その言葉に、ハインセル・イマジアの眉間に深い皺が出来た。


 原因は皇帝を貶す様な発言と、『先輩』呼ばわりだ。


 確かに騎士養成学校でハインセルは彼らの四年程先輩であった為、この呼称は正しい。しかし何度聞いても、クゥセルが口にする『先輩』は、彼を小馬鹿にしている様にしか聞こえないのだ。


「俺がなんでここに居るかと言うとですね、ぶっちゃけた話、サボリです」


 にこにこと笑うクゥセルに、ますますハインセルの眉間の皺は深くなる。


「まあ、俺がサボっているのはいいとして、先輩も座ったらどうです?」


 クゥセルは空いている席を指差す。


「しかし、私は護衛を……」


「悪目立ちするだけですよ」


 間髪入れずに正論を吐かれて、ハインセルは渋々と椅子に座った。


 注文をとりにわざわざ店員が寄って来るような店ではないから、クゥセルはすぐに話を切り出した。


「で、お前何しに来た訳?」


 尋ねておいて、ノールディンの答えを待たずに先を続ける。


「彼女を連れ戻しに? それとも今更謝罪でもすんの? しないよなぁ、お前にも矜持ってもんがあるよな。そうでなけりゃ、何、話し合い? 話す事なんか無いだろ。無いからスウリはお前に黙って城を出たんだからさ。お前だって大会議場で何も言わなかったし、その後は音沙汰無しだったんだから、そりゃ言いたい事は無いって思われてもしょうがないよな」


「待て。あの大会議場での一件の後、陛下は急な視察に赴かれたのだ。そのような時間をとっている暇は無かった」


 ハインセルが口を挟むが、クゥセルの瞳が彼を射抜いた。


 後輩である彼の口元は笑みの形を保っているというのに、向けられる視線の厳しさにハインセルは肩を強ばらせた。


「そのような時間、だって? あの子が覚悟を決めて真剣に向き合った、その返答をするのに必要な時間が、『そのような時間』だって言うのか、あんたは……」


 そこでようやくハインセルは自分が軽卒な事を言ってしまった事に気が付き、口を閉じた。


 気まずげな彼など放っておいて、クゥセルは聞いた。


「これはお前の考えでもあるのか、ノールディン」


 笑みを完全に消して、クゥセルはノールディンを睨み付ける。 


 斬り掛かってくる様に鋭い言葉を受けた側は、苦い、そう表現するべき感情をその顔に浮かべていた。


 皇妃フェリシエの言葉に、手元の揺れ以外の動揺を見せなかった氷帝の姿はそこには無い。


「本当に、お前の心を動かすのはスウリだけなんだな……」


 クゥセルは俄かに目を見張った。それから、誰にも聞こえない程小さな哀切の滲む声でそう呟いた。


 ややしばらく黙っていたノールディンは、やがて決然と言った。


「私は皇帝として為すべき事をした。それについて謝罪の言葉等持たない」


 国にとって優良たる事を実行し、子を生して次代へ継ぐ事は、大陸最大の国を背負う皇帝としての彼の義務であり責務だ。そして、皇帝としての行いに迷いや悔恨の情を持っている等と他に悟らせるような無様を晒す事は、彼には許されない。


 幼い頃から彼と育ってきたクゥセルとて、ノールディンの生き方は知っている。帝国の国民、幾千万の命を負う覚悟を、この幼馴染みは僅か十二歳の時に既に決めていたのだ。


 それを知っていても、クゥセルはスウリと共にいる方を選んだ。彼女の意思を尊重すると決めたのだ。


「ご立派な事で」


 だから、鼻で笑うように言い捨てる。


 当然ハインセルが気色ばみ、剣の柄に手を置いて腰を浮かせる。


 それを制してノールディンは続けた。


「……俺は、即位して以降、前皇帝の代で失ったものを取り戻す事に必死だった」


 ノールディンの父親である前皇帝オルディーンは病弱で、議会に出る事は少なかった。故に、彼の治世で実際に政治の采配を振るっていたのは宰相を筆頭とした重臣たちだった。


 幼いノールディンは父に連れられて初めて出席した議会で愕然とした。皇帝を前にして次々と議案が纏められて行く。まるで、皇帝の眼前を上滑りしていくようで、オルディーンが口を挟む隙など何処にも無かった。


 少し寂しげに微笑む父を見て、少年だった彼は優しさと隣り合わせの『弱さ』を知った。


 けれどノールディンが父に失望する事は無かった。


 何故なら、皇帝オルディーンは何一つ諦めてはいなかったからだ。


 次代の宰相となったドルド・バセフォルテットや騎士団総長であるゴールゼンを初めとして、息子を支えるに相応しい人間たちを着実に自分の味方としていった。


 なにより、早い段階で息子に為政者としての才を見出して手を打った。まだ幼いと言う批判を受け流して皇太子が自分の代行である事を議会に浸透させることに尽力したのだ。


 父帝がままならない体を押して尽くしても、それでも失われた皇帝の権威や影響力は大きかった。しかもオルディーンは道半ばにして儚くなってしまったのだ。


 だからこそノールディンには『氷帝』の仮面が必要だった。


 冷淡であれ冷酷であれ、そして迷うな間違うな。


 自らに課したそんな時間は、愛しい人の姿を見失わせるに充分だった。


 一種の言い訳ともとれる過去をノールディンが口にする意図は、ただそこにあった事実を上げ連ねる為だけなのだろう。それでもクゥセルには彼の内心がなんとなくわかった。


「スウリも、そうだったんだろうな」


 呟いて、彼は思う。育った環境はまるで違うというのに、どこか二人には似ているところがある、と。


「何故あんなにも、彼女が頑なだったのかがわからない」


「はあ?」


 唐突になんだ、と不信と不満を込めて幼馴染みを見るが、彼の表情は大して変わらない。


「……頑なだったろう」


「はい〜?」


 抽象的で簡素な言葉ばかり使い、肝心な事を口にしないノールディンに、クゥセルは呆れを含んだ溜め息を吐く。


「お前って、ほんと。……口下手っていうか、なんて言うか」


 基本的にノールディンは自身の考えを口に出すのが苦手な言葉の少ない男だ。皇帝としてはそれが重々しい雰囲気を放ち、発する短い言葉に強い決断力や人を惹き付ける魅力を感じさせるだろうが、一人の男としては愚かな程の不器用さでしか無い。


「黙ってて全部わかると思うなよ!」


 クゥセルの遠慮ない台詞に、ノールディンは眉間に深い皺を寄せた。


 それから無造作に髪を掻きむしった後、ぽつりと言った。


「お前は、彼女が何故ああだったのか、理由を知っているのか?」


「ああ、って何だよ」


「皇妃であろうとしていた事だ」


「お前の、皇帝の正妻なんだから、皇妃だろうよ」


「そこじゃない」


 彼が言いたいのは、皇妃然として、ただのスウリであった頃を消し去る様に振る舞っていた事についてだろうとクゥセルは当たりをつけた。


 皇妃となってからスウリが身に付けた美しい微笑みも振る舞いも、別人のようだった。『皇妃フェリシエ』という理想の皇妃像が動いていて、本物のスウリがどこかに隠されているのではないかと感じてしまったのは一度や二度では無い。


 それがあの王城で必要なものだと知っていたけれど、クゥセルやウィシェルとお茶の時間を設ける事も止め、大好きな『約束の指輪』の本を片隅に追いやって、そこまでする必要があるのかと問い掛けたくなる程彼女は徹底していた。


 ノールディンの言う、頑な、という表現もそこに由来すると気がついた。


 彼と同様に、スウリの行動に激しい違和感を抱いていたクゥセルは、けれどきっぱりと言った。


「知るか」


 クゥセルはとうにスウリに決めたのだ。幼馴染みに協力してやる謂われは無い。


「知りたければ自分で聞け。まあ、時間がそんなに無いのはよく覚えておけよ」


「分かっている」


 ぽつりと言って、ノールディンは胸元から赤い煌めきを放つネックレスを取り出した。


 手の平の上で石を転がして、僅かに瞳を伏せる。


 その凝り固まった表情の奥に脈打つ感情を見つけて、クゥセルは頭を抱えて深く深く息をついた。そこにほんの少しの安堵が含まれている事に気付く者はいない。


「なんだか色々、遅っ…………」


「確かにな。だが、時間は戻せない。だからこそ動かねば何も変わらない」


 ぱしり、と音を立てて赤い石を拳に握り込んだノールディンは、再びそれを胸元にしまった。


 時々前向き馬鹿、と内心の感情をそのまま顔に出してクゥセルは彼に聞いた。


「で、この後どうするんだ?」


「とりあえず、叔母上に挨拶してくる。ここで動くには彼女に許可を貰う必要がある」


 普通の領主ならば目立たない様に行動すれば気付かれないだろうが、港湾都市オンドバルにはスザイの目が光っている。


 さしもの梟も、彼の執事の目と耳と鼻、つまり情報源の全てを特定するには至っていない。


 間を置かずにスザイからエルディーザ・オルナド・バーリクへと、ノールディンに関する詳細な報告が届けられることだろう。


 ノールディンに会う度に、「次こそは皇妃様をオンドバルにお連れ下さい!」と強請り続けたエルディーザの事だ。フェリシエに肩入れしてノールディンへの妨害行為も辞さない可能性がある。


 あと、挨拶が遅れると彼女は拗ねる。拗ねたエルディーザはいいとして、拗ねた主人の為に働く執事の扱いが大変難しい。


 クゥセルはちらりと『先輩』に視線を投げる。勤勉実直を絵に描いた様なこの男が、狡猾で周到なスザイを出し抜けるとも思えない。初めからこの街での行動を容認して貰いにいくというノールディンの考えは得策と言えた。


「じゃあさっさと行け! お前がいると目立ってサボリがばれる」


 しっしっとクゥセルは両手を振って追い返す仕草をした。


 またしてもハインセルが咎める様な視線を送ってきた。しかし結局彼は黙したまま立ち上がったノールディンに続いて席を立った。


「ああ、そうだ」


 通りへと歩み出した幼馴染みに、クゥセルは要求する。


「スウリを狙ってる馬面と鹿面が並んでるみたいだから、お前、そのぐらいは責任持って始末しとけよな? でなきゃ、俺、スウリを囮に使うくらいしか防衛方法なくなっちゃうからな!」


 にっこり笑ってみせれば、ぎょっと驚いた顔を見せたのはやはりハインセルだけだった。


 ノールディンはと言うと、こちらに嫌に冷たい視線を注いでくるだけだ。


 踵を返して立ち去るその背中を見送って、クゥセルは肩を竦めた。


 流石に本気で狙われたら一人での護衛にも限界が出てくる。スザイがスザイなだけに、エルディーザ側から補助が入るとも思えない。正直な話、ノールディンがここに来た事はクゥセルにとって渡りに船だった。使えるものは、幼馴染みだろうが皇帝だろうが先輩だろうがきりきり働いてもらうに限るのだ。


 そう、それだけだ。決して、幼馴染みが心底終わっている馬鹿じゃない事に安心した訳では無いのだ。


「う〜ん。それにしても変わんねぇな、あの視線の冷たさ!」


 そう言って、自分の二の腕を擦る。


 あんなに暑い暑いと唸っていたというのに、見事な鳥肌が出来上がっていた。


 ノールディンの無表情や視線の冷たさが『氷帝』という異名の由来だが、実際彼が怒りや蔑みの視線を送ってくると、冷気を感じる。だから夏になるとクゥセルは時々わざと彼を怒らせて涼を得たりしていた。


 この特殊能力といえない事も無い眼力を鑑みるに、ノールディンの母親である前皇妃の実家が氷帝の末裔というのもあながちデタラメでは無いのかもしれない。


 そんなどうでもいい事を考えていると、視界の端に映る店の扉が開いた。その扉の奥からぴょこりと馴染みの顔が覗く。


 扉から顔を出したスウリは周囲をきょろきょろと見回し、クゥセルを見つけると小走りで駆け寄って来た。


「クゥセル、外に出ていたの? 暑かったでしょう」


 傍に寄るや、彼を心配して言葉を掛ける。


「うん、暑いー。段々一人我慢大会でもしている様な気がしてきたよ」


「そんな事言うくらいなら中に入っていれば良かったのに」


 スウリはそう言って、小さく笑い声をたてた。


 そんな彼女ににやりと笑い返して、クゥセルは質問を投げ掛けた。


「お仕事初日はどうだい?」


 スウリは瞳を輝かせて答える。


「お店の奥の方にね、魔具関連の本が山と積まれているのよ!」


 その辺りの本は店主の趣味で集めている本らしく、スウリの仕事はその趣味本の目録作りだという事だ。


「それ、本当に金もらえんの?」


 怪しさを覚えながらクゥセルが聞くと、スウリ自身も疑問に思ったらしく、うう〜んと首を捻ってみせる。


「それが、何でもね、古書店は道楽なのですって。本業で稼いだお金があるから、余生は遊んで暮らすのだって言われて……」


「本業ってなんだよー……。まあいいや。で、今って、何? 休憩時間?」


「友人が近くにいるって言ったら、休憩しておいでって」


 色々な意味合いの籠った沈黙がしばし二人の間に流れるが、クゥセルは気を取り直して言った。


「……まあ、折角貰った休憩だし。お嬢さん、俺とお茶しない?」


 ふふっ、と笑ってスウリは快諾する。


「喜んで。お店の中に入りましょう。冷やした果物を売ってくれるそうよ」


「あ。今、すっごいそれに飢えてる……」


 そうでしょうね、と頷きながら、スウリは直ぐ傍の椅子に手を置いた。


 その時、ふとその椅子がひんやりしているように感じた。


 陽射しが遮られていると言えど、この気温だ。その温度差に若干の違和感を得て、瞳を瞬き、手元を見下ろした。


「……誰か、いた?」


 クゥセルに聞くと、彼は笑って首を振った。


「ずっと俺だけだよ」


 そう言われてしまえば疑う理由も無く、小さく頷いた彼女は店内に向かって歩き出す。


 後ろに続きながら、クゥセルは意地悪く口元を歪めて誰にも聞こえないように囁いた。


「そう簡単に、会わせてはやれないよなぁ……」









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