50.光影
あなたの歩むその道に
いつしか光があふれて人々を照らす
その歌声は今もはっきりとこの耳に残っている。
その人を初めて見た時、彼女は木々と花々が丁寧に植えられた広い庭に座っていた。
見に纏っているのは豪奢なドレスだというのに、腰を下ろしているのは花壇を囲む煉瓦の上だ。
汚れる事を嫌がる様子も見せずに、木漏れ日の下で歌を口ずさんでいた。
誰もが知るありふれた子守唄を、膝に乗せた幼子の瞳を見つめながら。
彼女の膝の上にいる男の子は真新しい服を着ていたが、何処かで転んだのか土で薄汚れていた。ずっと貧しい生活をしてきたのだろう、服から覗く腕や足は枯れ枝の様に細い。
彼は、自分に向かって歌う女性を身じろぎもせずにじっと見つめ返していた。
そのうち、無意識にだろう、小さな右手が目元をこすり始める。もしかしたら転んだ時に泣いていて、痒くなってきたのかもしれない。
子どもの動作に気付いた彼女は目元からその手をそっと外してやり、白いハンカチで優しく拭った。
瞬く子どもに慈しむような微笑みを向けて、子守唄の続きを歌う。
優しき王よ
この約束の元にわたしはあなたと出会う
王よ、というフレーズで男の子の額にその指先で触れる。
それは、母親にとって我が子の大切さは王に比する、或いは王以上に愛おしく大切な存在であるという事を伝える仕草だ。幼い頃、母に「可愛い可愛い、私の王様」と呼ばれた事を思い出した。
かすめるように触れる指先にくすぐったがって、子どもは声を上げて笑った。
その笑い声を切っ掛けに、彼女の周囲にいる人間たちの相好が崩れた。
遠慮がちに見ていた子どもたちは、自分たちもそうして欲しいという様に彼女の足元に座り込む。
大人たちは遠巻きながらも微笑ましそうに目を細める。
新設されたばかりの施設である為に忙しく働いていた職員たちも、いつしか仕事の手を止めて穏やかな顔で佇んでいた。
高貴な身分のその人は十八歳だと聞いていたが、実際目にしてみれば年齢より幼く見える。その体は同じ年頃の女性たちに比べると小さく華奢だ。
けれど、そんな彼女の笑顔は緊張に凝り固まった人々の心を瞬く間に解してしまった。外からは見えずとも、強い力を身の内に秘めていると知った。
皆が微笑むその光景の中で、歌うその人こそが『光』であるかのように見えた……。
住む場所を確保した翌日の午前中、スウリは約束通り城館を訪れていた。
先日同様、優秀な侍女たちに華麗なドレスを着つけられてエルディーザのいる居間へと通される。
仄かに薔薇の芳香が漂う部屋で、エルディーザは出会い頭にスウリを抱き締めた。
「一日がとっっても長かったわ、スウリ!」
暖かくて優しい彼女の腕は、別れた母を思い出す。
どうしても、ほっと安心してしまう気持ちを止められない。
その背に手を添えて、スウリは微笑んだ。
「昨日は申し訳ありませんでした、エルディーザ様」
すると、エルディーザは体を離した。がばっ、と音がする程の勢いで。
スウリが見上げたその先には、不満げな顔がある。
昨日の約束を守れなかった為に怒っているのかと思い、再度謝罪の言葉を口にしようとしたスウリに、エルディーザは言う。
「エ、ル、ディ。そう呼んで頂戴!」
こんなに拗ねた表情の似合う淑女も中々いないと、ついそう思ってしまった。
だから素直に頷いて、愛称を口にする。
「失礼しました、エルディ様」
そうすると、にっこりと薔薇の微笑みが返ってきて、再び抱き締められてしまった。
もちろんエルディーザとて忙しいので、スウリとずっと一緒にいる訳にはいかない。
挨拶が済むと、彼女はスザイにスウリの案内を任せて渋々と執務館へと仕事に出掛けていった。
だがそれも二時間程の事だ。
お茶の時間には必ず居館に戻るというエルディーザは、当然の如くスウリにもお誘いと言う名の強制送還を実行した。
スザイの案内で図書室の本を物色中だったスウリは、両手で抱えていた本たちと共に居館の居間に戻ってきた。
ところが、どうもエルディーザの様子がおかしい。
もちろん話しかければ答えてくれるし、無視をされる訳では無い。
だが話が途切れると、途端にそわそわし始めるのだ。扉の向こうを気にしたり、窓の方へ歩み寄ったり。
失礼に当たる事を承知で、これ幸いとスウリが本を開いても気がつかないくらいだ。
目の前に積んだ本を順に捲っていたスウリだったが、どうしても気になってエルディーザに声を掛けた。
「今日はこれから何かあるのですか?」
ぱっと振り返ったエルディーザは、「よくぞ聞いてくれました」と言いたげな表情で瞳を輝かせた。
「そうなの! とても素晴らしい事よ!」
祈るように指を組んで満面の笑みを浮かべる彼女は、同性の目から見ても大変可愛らしい。
「あのね……」
話し出そうとしたエルディーザの言葉を遮って、居間の扉がノックされた。
扉の向こうから、侍女長のベスの声がする。
「奥方様。若様がお帰りになられました」
「入って頂戴!」
すっかり浮き立った声でエルディーザは入室を許可した。
ベスの言った『若様』の一言に、スウリもソファから立ち上がって背筋を伸ばす。
居館の侍女長がそう呼び、エルディーザが帰りを喜ぶのなら、この扉の向こうにいるのは次期オルナド・バーリク伯爵以外にいないからだ。
開かれた扉の向こうに立っていたのは、優しげな風貌の青年だった。年齢的にはノールディンやクゥセルより僅かに上だろうか。
彼はエルディーザの姿を認めると、柔らかく微笑んだ。
「ただいま戻りました、義母上」
嬉しそうに目を細めて近づいたエルディーザと抱擁を交わす。
「ええ、ええ。待たされたわ、ラズ、ラズリード。……お帰りなさい」
彼は子どものいなかった前領主とエルディーザ夫妻の養子であるのだが、頬を擦り合わせている二人の様子に血縁が無い事等全く感じられなかった。真実、彼らは信頼し合う母子なのだと、傍に立つスウリには思えた。
義息子から体を離したエルディーザは、彼の頬を両手で挟んで自分の方に近づける。
「まあ。日に焼けた? それに少し男らしさが増したかしら」
その言葉に、ラズリードは可笑しそうに笑いを零す。
「船の上に半月もいればこうなりますよ。水夫の真似事も少しやってみたので、男らしさはそれで養われましたね」
ちょっと嬉しいです、とおどけた調子で言う。
そこでようやく彼はエルディーザの背後に人がいる事に気がついた。
屈んでいた身をすっと起こして、首を傾ける。
「お客様がいらしていたのですね。申し訳ありません」
それでエルディーザもスウリの方に顔を向ける。
「ええ、そうなの。紹介するわ」
彼女はスウリの傍らに近寄って、その肩に両手を添えた。
「スウリ。この子が私の義息子で、ラズリード・オルナド・バーリクよ」
自分の言葉にスウリが頷くのを確認して、エルディーザは義息子の方に視線を向ける。
そこで彼女は、目を大きく見開いたラズリードを見た。それに驚いて、スウリを紹介しようとした言葉を飲み込んでしまう。
彼はその表情のまま、呟いた。
「……皇妃、フェリシエ様?」
彼の声にあるのは純粋な驚嘆の響きだ。
「まあ。貴方たち、面識があったの?」
全く覚えの無いスウリは小さく首を振って言う。
「いいえ。覚え違いで無ければ、初めてお目に掛かります」
一方、ラズリードは苦笑を漏らして言った。
「私が一方的にお見掛けしただけですよ、義母上」
その台詞に、スウリは彼を見上げた。
彼女の視線に静かな笑みを返して、ラズリードは経緯を話してくれた。
「一年と、少し前でしょうか……。皇妃様は帝都の救貧院に慰問に訪れられた事があるかと思います」
一年前ならば、多分、新設された救貧院や施療院を順に巡っていた頃だろう。何カ所も訪れているから何処かまでは分からないが、確かに訪れている。
小さく頷き返すスウリに、ラズリードは続きを口にする。
「その折、私も同じ施設の視察に伺っていたのです。皇妃様のご提案で建てられた無償の救貧院と聞いたもので、オンドバルにも似た様な施設を作れないかと思ったのです」
その時、彼は中庭を挟んだ回廊にいた。皇妃のいる庭に出るには少しばかり距離があり、また彼女の周囲には人があまりに多く近寄る事がままならなかったと言う。
彼は苦く笑ってから表情を改めて、スウリの前に跪いた。
彼女の手を押し頂く様にして自分の手にとった。
「あの時にきちんとご挨拶をするべきでした。申し訳ありません」
真摯なその眼差しは、スウリを、否、皇妃フェリシエを見る貴族男性のものとしては希有な感情を宿していた。嘲りでも、侮りでも無い、真っ直ぐで誠実な感情だ。
彼の態度と謝罪の言葉に内心で驚きながらも、スウリは小さく首を振った。
「いいえ。あの頃は私も慌ただしくしていましたから、どうぞ気に病まないで下さい」
「そのお言葉に感謝致します」
そう言って、彼は目礼した。
次に頭を上げた時、その秀麗な顔は穏やかな笑みで彩られていた。
「では、改めてご挨拶する事をお許し頂けますか?」
「もちろんです」
そう言って、スウリは彼の手から自分の手をそっと外した。逆に彼の手を引いて、立ち上がるように促した。
抵抗する事無く立ち上がったラズリードだったが、困惑の色は隠せていない。
そんな彼に、スウリは小さく笑う。
「ですが、あまり畏まらないで下さい」
真っ直ぐに彼を見上げて言うスウリに、ラズリードは一つ瞬いてから、再び笑みを浮かべた。
「では、お言葉に甘えて」
彼の手を引いてから一度は離れたスウリの右手を、しっかりと握り直す。
「私はオルナド・バーリク伯爵家の長子で、ラズリード・オルナド・バーリクと申します。どうぞ、ラズとお呼び下さい」
「宜しくお願い致します。……私の事は、スウリとお呼び下さい」
彼女の言葉に、ラズリードは惑う様に視線を揺らした。
「義母上も、先程貴女の事をその名で呼んでいらっしゃいましたね?」
事情を知らぬラズリードの戸惑いは当然のものだろう。スウリは簡単にでも説明しておくべきだろうかとエルディーザに視線を投げ掛けた。
エルディーザはにこにこと機嫌良さそうに微笑んでいたが、スウリの視線を受けて、棚の上の時計を見た。
「そうね、その辺りの事情は私からラズに話しましょう。スウリは、もう時間でしょう?」
そう言われて、スウリも時計に目を走らせる。
正午まで一時間も残されていない。
はっとしたスウリに、エルディーザは優しく語りかける。
「ね。初仕事に遅刻はいけないわ。ベスに準備をさせるから、もうお行きなさい」
「有り難うございます、エルディ様」
そう。昨日面接に受かった古書店の仕事は今日の午後から始まるのだ。
スウリはラズリードの方に向き直ると、ドレスの裾をつまんで小さくお辞儀した。
「慌ただしくして申し訳ありません、ラズリード様。今日は失礼させて頂きます」
顔を上げた彼女に、ラズリードは言う。
「どうか、ラズとお呼び下さい」
愛称で呼ばせる事にこだわるその姿はエルディーザにそっくりで、スウリは肩を震わせて笑ってしまった。
「わかりました、ラズ様。そう呼ばせて頂きます」
にっこりと笑ったラズリードは、義母と並んでスウリを見送った。
スウリが去った居間で、ラズリードとエルディーザは向かい合って座っていた。
「………………そうですか、そんな事が」
義母に教えられた皇妃フェリシエ、つまりは現在のスウリの抱える事情に、ラズリードは苦しげに顔を歪めた。
そして、想う。
彼女はもうあの時の様に歌えはしないのだろうか、と。
あなたの歩むその道に
いつしか光があふれて人々を照らす
優しき王よ
この約束の元にわたしはあなたと出会う
荒き風吹こうとも
人を想い進む強きこころが未来をみつける
揺るがぬ王よ
共にあってわたしはその喜びを知る
……耳の奥で、優しい歌声が今も響いていた。