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民の望んだ皇妃  作者: 界軌
本編
5/85

5.揺籃

 深夜、フェリシエは寝室のタペストリーの裏に潜り込んだ。


 既に侍女達は部屋を立ち去っていた。今日が皇妃フェリシエと過ごす最後の夜だとは知らずに。


 部屋に何枚か掛かっているタペストリーの中でも、男女と一対の指輪が描かれた一枚の裏には背丈の低い扉がある。


 床に埋められたスイッチを押すという特殊な方法で開かれるその扉をくぐり、下へと続く長い階段にフェリシエは足を踏み出した。片手に持ったランプが唯一の明かりだ。


 僅かに積もっている埃を気にして彼女は夜着の長い裾を持ち上げる。布地でできた室内履きは足音を殆どたてず、ただ衣擦れの音だけが辺りに響いた。


 階段を降りきれば、細い廊下が伸びている。


 裾を掴んでいた手を離し、壁に手を添えて歩き出す。この廊下の長さと細さは眩暈めまいを起こさせるのだ。


 時折手に触れるのは壁に埋め込まれたガラスの板だ。その昔、魔法が生きていた時代には皇帝や皇妃がこの通路に足を踏み入れた瞬間に明かりが灯ったと言う。皇帝ノールディンが話してくれた皇室に伝わる御伽噺だ。


 やがて長い廊下が終わり、階段を上る。皇妃の寝室にあったものと同じ扉が迎えてくれた。


 こちらは壁にあるスイッチを押すと手前に開かれる構造だ。


 閉ざされた扉を前にして、フェリシエは一つ深呼吸をした。


 この隠し通路は、皇帝と皇妃の他は僅かな者しか知らない為、当然掃除が滞る。それをフェリシエは月に一度程行っていた。侍女たちが知れば眉をしかめて「やめてくれ」と言うだろうが、平民出身である彼女は掃除を苦に思ったことなど無い。むしろ好きだった。


 けれど、ここ数ヶ月はこの扉の前に来ると苦しくて仕方が無かった。


 かつては『氷の皇太子』と呼ばれ、今は『氷帝』と揶揄やゆされる程冷徹な皇帝の、その心が何故か昔からフェリシエには手に取るようにわかった。


 皇帝とフェリシエにとって共通の友人は、いつだったかこう語った。


「あいつが不思議がってたんだよ」


「何を?」


「なんで自分の考えている事がすぐ分かってしまうのかって。ま、ご存知の通り、あいつは無表情だし? 幼馴染みの俺でも全部分かる訳じゃないしな。っていうか、分かりたいとも特に思わないけど」


 遠慮会釈の無い言葉に、ふふっ、と彼女は笑いを漏らした。


「それで、なんて答えたの?」


「彼女はお前を良く見ているって。本人も無意識だろうけどってね。それに、……見ているだけじゃないだろ? 兎が耳を高くあげて周囲の音を拾うみたいに、あいつの気配を読んでいるだろ?」


 あいつ限定っぽいけど。と続けて、彼は快活に笑った。


 その指摘通りなのだろう。彼の傍らに立つ度に、フェリシエは全身で彼の心を探っている自分を自覚していった。


 だからこそ、自分が疎まれていることも、良くわかってしまった。


 ある時から始まった、苛立ちが放つびりびりとした感覚。皇帝が彼女の隣を通り過ぎる瞬間、それを何度も肌で受け止めた。


 そのうちにそれは、彼女のことを見ない視線と感情のない義務だけの触れ合いに変わっていった。


 この扉を開くことは、それを知った時から自分に禁じてしまったのだ。


「最後の、役割を果たすときよ。そうでしょう? フェリシエ」


 首から下げたペンダントを握り締め、励ますようにそっと呟いた。


 壁のスイッチを押して、開く扉の隙間を通り抜ける。皇妃の部屋にあったものと同じ柄のタペストリーを潜り抜けて、無人の室内へと入った。


 何も変わってはいない。


 床に敷き詰められた毛足の長い絨毯。天蓋付きの大きな寝台。窓辺に置かれた猫足の長椅子。全体的に深い赤の色調で、締め切られたカーテンによって作り出された闇まで同じ色のようだ。


 長椅子の脇に置いてある背の高い小卓に歩み寄れば中身の残っているワインボトルが置いてあった。


「……何故開封されたままなのかしら?」


 フェリシエは首を傾げた。


 飲んでいる途中で放置したのか。それにしてはワイングラスが無い。


 皇帝の寝室は、私室中の私室で、皇帝自身が手出しされるのを最も嫌っている部屋であった。


 部屋の管理は相当信用のおける侍女や侍従しか行わないし、警備を行うのも腹心の騎士たちに限られている。彼らがこの部屋にあるものの配置を変えることは無い。だから、封が切られたワインボトルが放置されていること自体はそんなに不自然ではないのだ。


 だが、乱雑を好まない皇帝がこれをそのままにしているというのは少し不思議だった。


「何か、これを忘れてしまうようなことがあったのかしら? ……まあ、いいわ」


 気にしてもしょうがないと、フェリシエは自分の目的を果たすことにした。


 夜着の上に羽織ったカーディガンのポケットから小さな宝石箱を取り出す。


 蓋を開いて、懐かしい赤い輝きを持ち上げた。僅かに目を細めてそれをしばし眺めるが、やがて小さく首を振って小卓の上に置いた。


 宝石箱をいれていたのとは反対のポケットを探り、一枚のカードを取り出す。


 文面を確かめて、赤い石のペンダントの下に滑り込ませた。


 そしてフェリシエは隠し通路に戻り、部屋を立ち去った。









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