49.悠々〜初恋
泉から出た少女は、スカートの裾を軽く絞っただけで、真っ直ぐにノールディンに近づいて来た。
彼の前で止まると、その手を、少し冷えた自分の手で持ち上げる。下から小さな手で支える様にして、大きな手の平にペンダントを置いた。
……小さいな。
自分の胸の辺りまでしかないその頭のてっぺんを見ながら、ぼんやりノールディンは思う。
彼の周囲の女性は皆成人しているし、細身ではあるが長身の人間が多い。少女と呼ばれる年頃の女性は夜会で会う貴族の令嬢ばかりだ。彼女たちにダンスに誘われても冷淡に断るのがノールディンの常である。
こんな風に近い距離で見下ろすのは初めて、か……?
そんな事を考えていると、少女の顔がぱっと彼を見上げて来た。
幼い顔立ちの中で、大きめの瞳がひたとノールディンを見据える。
「もう、落とさないでね」
そう言って柔らかく微笑んだ。
受け取ったペンダントを握り込んで、ノールディンは頷いた。
「ああ。……有り難う」
あまり言い慣れない言葉に戸惑いながらもそう言えば、少女の微笑みは一層深くなる。
そこで、彼女の手が冷えている事に気がついた。いや、最初に触れられた時にも気付いていたが、その行動力に圧されていたのかもしれない。とにかく、今初めてそれを気遣う気持ちになったのだ。
自分が羽織っていた夏用の丈の短い外套を肩から外し、少女に羽織らせる。
「短いが、無いよりマシだろう」
言いながら、首の辺りで止めようとして違和感を覚えた。外套の裾の位置がおかしい。本来ならば腰の辺りにくる筈が、少女の腰の下まで伸びているのだ。
単純に、ノールディンには短めのその外套も小柄な少女には大きすぎたというだけの話だが、体格差というものにノールディンはあまりピンと来なかった。
一方、少女は自分に掛けられた外套をつまんで「大きい……」と言って瞬いた。
再びノールディンを見上げると目を細めた。
「大きいけど、ありがとう。とっても助かります」
これにも、ノールディンは小さく頷きを返した。
そこで今まで蚊帳の外だった男が声を発した。
「えーと、それがあるとまだマシとは言え、そのままだと風邪引いちゃうよ?」
ノールディンと少女が振り向けば、頭の後ろに右腕を回したクゥセルがそこにいた。
彼が示すのは、彼女の濡れた衣装のことだ。
それに少女も気がついた。
「そう、ね。うん。帰ります」
あっさりと言い放ち、踵を返す。
脱ぎっぱなしだったブーツに足を突っ込んで、スカートの裾で水気を拭き取った手に籠と本を抱える。
用は済んだとばかりに立ち去ろうとする少女の背中にノールディンは咄嗟に声を掛けていた。
「……っ。また、会えるか?」
くるりと振り向いた彼女は、ちょっと考え込む様に首を傾げた。
それから羽織った外套の裾をつまんで苦笑した。
「これ、返さなくっちゃダメよね? 明日、同じくらいの時間にここで会える?」
「ああ、大丈夫だ」
全く衝動的にノールディンは答えていた。
暇で良かった。珍しく素直にそう思う。
傍らの幼馴染みが口を開いた。
「じゃあ、名前聞いてもいいかな? 俺はクゥセル。こっちは……」
「ノールディンだ」
クゥセルの台詞を奪う様に言う。ノールディンは偽名を使う事等思いつきもしなかった。
「ク、クゥセル、と、ノール、ディン……ね」
少女は名前を確かめる様に復唱してから、俯いていた顔を上げた。
「私はスウリ。宜しくね」
家まで送ると言う申し出に「近いから」と断った少女の背中が森の奥に消えるまで、ノールディンはその場に佇んでいた。
そして、おもむろに口を開く。
「……それで、お前は一体何をしている?」
その声音が低いのは、少し怒っているせいだろう。
クゥセルは近くにいた愛馬の背にもたれ掛かって盛大に肩を震わせていたのだから、彼が苛立ちを感じるのも無理は無い。
敢えて言うが、クゥセルは泣いている訳では無い。必死で笑いを堪えているのだ。
「ふっ、く、く、く…………。やべぇ……」
目尻には涙さえ浮かび始めていた。
「言いたい事があるなら、今だけ言わせてやろう」
幼馴染みの冷ややかな声をものともせず、クゥセルは唇を震わせながら言った。
「だって、俺、お前の表情がそんなにころころ変わる所、初めて見たぞ?」
彼が言うには、ノールディンの表情は焦り、微笑み、はにかみらしきもの、焦り、微笑みの順に動いていたらしい。
大の男がはにかみってどうよ! そう言って、再び顔を馬の背に伏せる。
欠片も自覚していなかったノールディンは自分の顔を撫でてみるが、いつも通りの無表情としか思えない。
しかしあのスウリと名乗った少女といる時の自分は、いつもと違うと感じていた。
その違いがまだよくわからないが、それは今すぐに解決するべき問題では無いだろう。
笑いの収まらない幼馴染みなど置いて帰ろうと思い立つ。
「勝手に笑っていろ」
冷たく言い放って、クゥセルの横を通り過ぎて愛馬の方へと歩み寄った。
その背中に、声が掛けられる。
「まあ、ほら、精々頑張れよ」
唐突なその言葉に、ノールディンは精一杯怪訝そうな顔をして振り向いた。
「何の話だ?」
「え、なに。なんもしない気か? 折角の初恋なのに?」
「初恋だと……?」
何を言っている。そう続けようとした脳裏に、少女の微笑みが甦る。
「…………………………」
かなりの混乱をきたして黙り込んだ悪友の肩を、クゥセルはぽん、ぽん、と軽く叩く。
「昔から良く言うだろ、初恋は実らないって。まあ、安心しろよ。振られたら、その時はちゃんと慰めてやるから、な?」
その一言で、ノールディンのこめかみが波打った。
「お前に慰められるなど真っ平ご免だ!」
初恋云々は、結局否定しなかった。
あの時ノールディンがスウリに掛けた「また会えるか?」の一言は、まぎれもなくナンパの常套句だ。たとえ言った本人も言われた当人も気がついていなくても……。
そうと知っているクゥセルは、段々と内容が逸れていくウィシェルの教育的指導の言葉を背に浴びながら、賢明にも口を噤んだ。