48.悠々〜慣例
その年の夏、クゥセルとノールディンは要塞都市アンジェロにいた。
帝国には、皇太子は十八歳になるとこの都市の政治を半年間任されるという通過儀礼の様な慣例がある。
しかし長く続いた今ではこの慣例も形骸化されつつあった。実際ノールディンの父である現皇帝オルディーンは行っていない。
それなのに何故十八歳を過ぎているノールディンがアンジェロに居るかと言えば、ひとえにゴールゼンの勧めがあったからだ。
そう言えばこんな慣例もあったなぁ、やるかい? と父帝が話を切り出した時に、ゴールゼンはこう言った。
「おー、行っとけ行っとけ。出来る事は出来るうちにやっとけよ」
かなりいい加減に手を振りながら。
オルディーンもそれに同意した。
「そうだね。私の調子も、最近はとても良いし。良い機会だから行っておいで」
息子に向けて柔らかに微笑んだ彼は、月の半分を寝台で過ごす程病弱であった。それ故に、ノールディンが十代半ばの頃から執務の大部分は皇太子に委任されていたのだ。
オルディーンの言う通り、近頃は好調の父のお陰で、多忙を極めるノールディンの生活に少しばかり余裕が生まれていたのも事実だった。
そこから準備を進めて、夏の盛りに彼らは要塞都市アンジェロに足を踏み入れた。
城館に部屋を貰い、各部署の長官と顔合わせが終わった時分に、予想外の出来事が起きた。
界渡りが訪れたのだ。
界渡りに関する一切は領主に一任されている為、皇太子の用件の方が後回しになってしまうのは必然であった。
結局、この一件に片がつくまで皇太子とその護衛であるクゥセルは暇を持て余すはめに陥った。
初めの頃は要塞都市アンジェロの中や周辺の街や村の視察を行っていたのだが、ある日、ノールディンがエダ・セアの森に行きたいと言い出した。
領主にそれを告げると、彼は書類の山の間から濃いクマの出来上がった顔で笑った。
「どうぞどうぞ。狩りさえしないでくだされば、お好きにどうぞ。森番には知らせを送っておきますから、ごゆっくり〜」
執務室を出たところでクゥセルが口を開く。
「いっつも思うんだけどさー。あの人の態度ってコウタイシデンカに対するにはちょっと不敬じゃない?」
その顔をちらりと見たノールディンは冷たく言った。
「お前よりマシだ」
「ごもっとも〜」
手の平を頭の後ろで組んで、クゥセルは軽く笑った。
二人が愛馬に乗ってエダ・セアの森を進み、聖域と呼ばれる泉に辿り着いた時、太陽は正午を示していた。
森の中にぽっかりと開けたその場所を強い陽射しが照らしている。
「なーんて言うか……。すごい透明感だなあ」
降り注ぐ陽光は、アンジェロの街中ではじりじりとこちらを灼いてきたというのに、ここではまるで泉の輝きを際立たせる為の照明のようだった。
クゥセルは先を歩くノールディンの斜め後ろで思わず呟いていた。
「で、お前ここに来て何したかった訳?」
今更の様に幼馴染みに尋ねると、普段通りの素っ気ない言葉が返って来た。
「別に。一度は自分の目で見ておきたかっただけだ」
言い終わると、ノールディンは更に泉へと近づいた。
「頼むから入るなよ〜」
「聖域に易く入れるか、馬鹿め」
注意しているとも思えない暢気な声には打ち返すように答える。
存外好奇心の強いノールディンは、泉まで数歩という位置で足を止めて上から覗き込む。
「本当に、鏡面のようなのだな……」
この泉は『水鏡』や『銀鏡』といった異名を持つ。その水面は、周囲の景色はもちろんの事、彼の姿まではっきりと映し出していた。
護衛という役目柄、周囲を探れる様に、クゥセルは泉から離れた場所に立っていた。
無表情の中にも面白がる様な色を浮かべる皇太子の姿に、彼はやれやれと苦笑を漏らす。
二人が城を抜け出したり、外出先で寄り道をしたりする時はクゥセルが誑かした様に言われるが、実はノールディンの提案が多かったりする。付き合っているのは二ヶ月年上のクゥセルの方なのだ。
満足するまで放っておくかと座り込もうとしたクゥセルは、ふっと森の奥から微かな音を拾った。草をかき分ける音と、確かな足取りの靴音。つまり、人間だ。
「…………ノール!」
大きくはないが鋭い声で警告を発する。
機敏に反応したノールディンはクゥセルの方に振り返り、それから彼の視線の先を追った。
その瞬間、強く首の下辺りが擦れたが、それに構う事無く彼は首を巡らせる。
視線の先には、森の中から出て来たばかりの一人の少女がいた。
小柄な少女だ。小振りな籠と分厚い本を抱え、見知らぬ男たちの姿に大きな瞳を瞬いていた。
武器も持たず、害意の欠片も持たないその様子に、クゥセルは剣の柄に添えていた手を離す。
それから、にこやかに笑いかけた。
「やあ、こんにちは。ここが聖域だってわかってて来たの?」
迷い人で無い事は目的意識を感じさせる足音で予想は付いていたが、一応聞いてみた。
彼女は躊躇いがちに、「ええ……」と頷いた。
そして、クゥセルに注いでいた視線をノールディンへと移して、何かに気がついたように少し目を開いた。
ゆっくりと自分の首の方に指を持って行って、襟の辺りを指し示して言った。
「ねえ。それ、落ちそうよ?」
何のてらいも無く自分に話しかけてくる少女に内心驚きを抱きながらも、ノールディンは自分の襟元に手を伸ばした。
指先に触れた冷たい感触に目をやると、首から下げていたペンダントの先にある赤い石が引っかかっていた。
先ほど首を擦ったのはこれか、と鎖に指を掛けて引っ張る。
ところが、胸元に戻るはずだった赤い石は引かれた反動でぽろりと落ちてしまった。
既に鎖が切れていたのだ。
落ちた赤い石は一度地面で跳ね返ると、泉の水の中に吸い込まれる様に消えた。
ぽちゃん…………、と小さな音がした。
「あーあ。やっちまったな」
クゥセルが呆れた様に言う。
聖域に触れる訳にはいかない以上、最早諦めるしか無かった。
そっとノールディンが溜め息を吐くと、少女が声を掛けてきた。
「それ、大事なもの?」
手の中の荷物を傍らに置きながら、彼女はノールディンを見ている。
答える義理等無いと言うのに、彼の口からはすんなりと言葉が出ていた。
「母の形見だ」
その一言で、少女は顔色を変えた。
「大変!」
履いていたブーツを無造作に脱ぎ捨て、泉に足を踏み入れる。
ノールディンもクゥセルも、その行動に目を見開いた。
「おいっ……」
腕を掴もうとするが、少女の動きは素早く、ぱしゃぱしゃと水音を立てながら赤い石が落ちた辺りまで進んでしまった。
膝丈のスカートの裾が水を吸っているというのに、彼女は頓着せずに屈み込んで水中に手を差し入れる。
呆然と男二人が眺める中、真剣な表情で手を動かしていた少女はやがて身を起こした。
振り向いて、ふわっと微笑む。
「あったわ!」
つまみ上げた形の指の間で、赤い石がきらきらと光を放っていた。