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民の望んだ皇妃  作者: 界軌
本編
46/85

46.憧憬

 夜半、スウリは机に向かっていた。手にはペンを握り、真剣な眼差しを手元に注いでいる。


 広げた紙の最後に迷いなく自分の名をサインすると、少し分厚いその紙を半分に折り畳んだ。


 椅子から立ち上がって、ベッドに座っているクゥセルに歩み寄る。


「それじゃあ、これをお願いします」


 そう言って、彼に手の中の紙を差し出した。


「了解」


 スウリから紙を受け取ったクゥセルは軽い口調で答えた。


 その紙はエルディーザへの手紙だ。『明日はお伺い出来ません』といった謝罪の言葉を記している。

 

 何故そんな手紙を書く事になったかと言えば、全てはウィシェルのお説教の締めくくりに告げられた一言に起因する。


 彼女はこう言った。


「そーんなに本が読みたいなら好きにすればいいわっ。家探しも職探しも私とクゥセルでやっておきますから!」


 腰に手を当てて仁王立ちしたウィシェルに対して、スウリは椅子に座って悄然としていたのだが、それを聞いて表情が一変した。


 唖然とした表情で目を見開いた。


 職探しの事が完全に頭から消えていたからだ。


 と言うか、職はともかく、住む場所について彼女は全く考えていなかった。


 だが指摘されると必要だと思えてくる。まさかずっと宿屋と言う訳にはいかないだろう。……主に金銭面の問題で。


 スウリはおののいた。口元を両手で押さえて、そっと呟く。


「ほ、本の持つ魅力って恐ろしい……」


 盛大に身に覚えがあったから、その言葉にウィシェルはそっと目を逸らした。


 ともかくそういった訳で明日はエルディーザの元に行っている暇は無いと結論づけたスウリは、訪問出来ない旨を手紙に記す事にしたのだ。


 書いた手紙は明日迎えにくると言っていたスザイに託そうと思ったのだが、ずっと黙っていたクゥセルがここで口を挟んで来た。当てがある、と言うのだ。だからさっさと手紙を書いてしまえ、と。


 そうして書きあげた手紙、と言っても便せんなんてものは無いから手持ちの手帳から切り取っただけの紙だが、それをクゥセルへと渡したのだ。


「でも、エルディ様にこんな紙で差し上げていいのかしら」 


 失礼に当たらないかと心配するスウリに、クゥセルは肩を竦めてみせる。


「大丈夫だろ。どうせ、スザイ殿が見てからエルディ様には口伝えするだろうし」


 あの執事のエルディーザへの献身ぶりは、過保護と言い換えても可笑しくは無い。


「そう。じゃあ、大丈夫かな……」


 少し安堵した後、スザイの名を聞いてスウリは思い出した事があった。


 それじゃあ行ってくるよ、と部屋を出て行くクゥセルの背中に慌てて続く。


「スウリ? 何処行くの?」


 不思議そうに聞いてくるウィシェルに、にこりと笑いかける。


「クゥセルを下まで送ってくるわ」


「そう? もう遅い時間だから、外までは行かないでね」


「もちろん」


 頷いて、部屋を後にした。


 廊下を幾らか進んで、少し奥まった辺りでクゥセルは足を止める。


 腕を組んで壁に寄りかかり、唇の端を上げた。


「で、ウィシェルには聞かせたくない話か?」


 いつも聡い彼に、スウリは思わず苦笑する。


「聞かせたくないと言うより、聞かせてもいいかどうか迷ってる話、かな」


 歯切れの悪い彼女の返答に、クゥセルは小さく顎を引いて先を促す。


「スザイさんにね、忠告を頂いたの」


「へえ、スザイ殿にねえ……」


 両方の眉を引き上げて意外そうな顔をした


「………………………………はあ?!」


 けれど一拍置いた彼は、次の瞬間目を見開いた。


 組んでいた腕を解いて、右腕が意味なく上下に動かされる。


「待て待て待て。今、なんだって? スザイ殿がスウリに忠告しただって? あの、エルディ様至上主義者がっ?」


 こんなに動揺を露わにするクゥセルを見るのは初めてかもしれない。 


 そのあまりの勢いに、スウリは思わず一歩下がってしまった。


 彼女の様子に気がついたクゥセルは、右手で両目を押さえて天を仰いだ。


「やべえ。驚き過ぎて目玉が飛び出るかと思った……」


 本気なのか、それとも場の空気を和ませようとして発した冗談なのかスウリには判断がつかなかった。


 それでもその言い方があんまり情けない風で、つい笑いが零れる。


「目玉の飛び出たクゥセルを想像しちゃうところだったわっ」


 咎める様に言って彼の二の腕をぺちりと叩くと、悪戯めいた瞳が見下ろしてくる。


 やはり冗談だったようだ。


 右手を下ろしたクゥセルが脱線した話を元に戻そうと試みる。


「で、忠告の内容は?」


「オンドバルで不穏な動きをしている人たちがいるから、身辺に気をつけるようにって」


 それを聞いて、彼は顎に手を当てた。


「ふうん。……なるほどねえ」


「ウィシェルに言うかどうか迷っていて……。彼女に危害を加えてきたりはしないかしら」


 自分の事はともかく、彼女に関わってくるのならばきちんと伝えておいた方が身の安全を図り易いだろう。けれど、伝えてしまえばウィシェルは自分の事を放っておいてスウリの心配ばかりしてしまう事は簡単に予想がつく。


 少し黙っていたクゥセルはやがて口を開いた。


「今日、近所の病院を見て来たんだよ」


 スウリが城館に行っている間の事だ。


「ウィシェルはそこで働くつもりみたいだったんだけど、かなり患者の多い所でね。あんな大勢の前で医者に手を出す様な真似は流石にしないだろう」


 ほっと肩の力を抜くスウリに、クゥセルはにやっと笑う。


「ま。ともかく俺はしばらくスウリにひっついて護衛だな」


「仕事はしなくても大丈夫なの?」


 お金は大部分を実家に置いて来たとクゥセルは言っていた。それに、スウリの『働きます』宣言に真っ先に賛同してくれたのも彼だ。彼自身も必要としていたからでは無いのかとスウリは心配になる。


「ああ。スウリ程金に困ってる訳じゃないし。それに、短期で稼ぐ方法は幾らかあるから心配ご無用だ」


「賭け事? ウィシェルに怒られるわよ」


 くすくすと笑いながらスウリが言えば、彼は苦虫を噛み潰したような顔をする。


 後頭部に手を置いて、少し首を回すと言った。


「う〜ん。じゃあさ、働いてる事にするから、スウリも誤魔化すの手伝ってくれよな」


 こんな事を言い出す程ウィシェルのお小言が嫌なのかと思うと、やたらに面白く思えた。


 笑いの治まらないスウリに、クゥセルは言った。


「で、スウリの仕事の件だけど」


 自分の話に、彼女は何とか笑いを押さえながら頷いた。


「幾ら皇妃様がオンドバルに来た事が無くても、スッピンの魔法が働いていたとしても、さ」


 そこまで言って、クゥセルはスウリの鼻をつまんだ。


 スッピンの魔法というのは、つまりスウリの皇妃仕様の化粧と素顔のギャップの話だろう。


「むぐぅ……」


 鼻がつままれた所で別に苦しくは無いが、違和感は甚だしい。


 小さく呻く事で苦情を発する彼女に、クゥセルは人の悪い笑みを浮かべて話を続ける。


「気付くヤツは気付くんだよ。だからあんまり人の多い職場は止めといた方がいい」


「つまり、酒場とか食堂とか?」


 鼻をつまむ手を引き剥がして、スウリは唇を尖らせる。


「花屋もだな」


 したり顔でクゥセルは頷いてみせた。


「つまり、俺のおすすめは古書店の資料整理ってこと」


 よっぽどスウリは不満げな顔をしていたのだろう。


 物珍しそうにそれを見ていたクゥセルは肩を竦めて聞いた。


「なに、そんなに酒場で働きたかったのか?」


 ふるふると首を振ったスウリは、ぽつりと零す。


「……笑わないでね」


「もちろん」


 クゥセルの即答に信用ならないものを感じながらも、彼女は真相を話した。


「一回でいいから、『いらっしゃいませ』って言ってみたかったの!」


 母と暮らしている時はアルバイトは禁止されていたし、要塞都市アンジェロでしていた仕事も経理局の手伝いだったから、スウリは接客というものをした事が無かった。


 エプロンをつけて客に接する給仕に小さな憧れがあったのだ。


「……………………くっ」


 そのあまりに単純な理由に打ちのめされたクゥセルが笑いを我慢する理由など何処にも無かった。


 




 階段からクゥセルを突き飛ばさなかった私は偉い、とスウリは口の中で唱えながら部屋へと戻って来た。


 ソファに腰掛けたウィシェルが振り返って笑う。


「お帰り。お茶が入っているわよ」


「うん」 


 彼女の隣に腰を下ろしたスウリは、こてん、と頭をウィシェルの肩にもたれかけた。


 自分のものよりいくらか柔らかいその感触に瞳を閉じた彼女の耳に、ウィシェルの笑いを含んだ声が届く。


「どうしたの?」


「うん……。ごめんね、ウィシェル」


 ウィシェルは、謝罪の原因を少しの間考えてみた。


「図書室に釣られちゃったこと?」


「……うん」


 それだけでは無かったけれど、スウリは頷いた。


 動きの治まったその頭に、ウィシェルは自分の頬を乗せた。


「本当は、私もクゥセルもスウリの事とやかく言えないのよね。でも、つい怒っちゃうわ」


 反省の色を滲ませて、彼女は言う。


 親友の頭の重みを感じながら、スウリは答える。


「いいの。心配して言ってくれているの、ちゃんと知っているから」


 それから、ウィシェルの言った台詞に笑ってしまった。スウリの事をとやかく言えない理由をよく知っているからだ。


「私が魔具に関する本に釣られちゃうのなら、ウィシェルの場合は医学書よね。読んだ事の無い医学書を積まれたら、きっと夜も寝ないで読んでしまうでしょう?」


「う〜ん、否定出来ないぃ……」


 もう一人の大事な友人の事も分かっている。


「クゥセルの場合は……」


 その続きは、スウリとウィシェルの声が重なる。


「魔剣・ウルバンテイン!」


 魔剣と言っても悪い意味では無い。魔具だから、魔剣だと言うだけだ。


 この剣は『約束の指輪』の登場人物の一人、『真なる騎士』と謳われるハザイド・ウナスの愛剣である。主人公である英雄王バルスの忠実な騎士であるハザイド・ウナスは、子どもたちのごっこ遊びで人気の一人だ。彼に憧れて騎士を目指す者は今でも少なく無い。


「それにしても、彼が物語の登場人物に憧れているなんて、意外だと思ったわ」


 クゥセルが魔剣・ウルバンテインに対して熱弁を振るう姿を見た時もそう思ったが、彼が何かに憧れたり執着する事には何か違和感を覚える。


「別に、クゥセルはハザイド・ウナスに憧れている訳でも無いと思うけど……」


 確信がある訳では無かったため、スウリの物言いは曖昧になってしまった。


 それでもウィシェルの興味を引くのには充分だった。


 彼女は横倒しにしていた頭を起こして、スウリの顔を覗き込んだ。


「どうして?」


 同じ様に頭を起こしたスウリは内緒話をするように、ウィシェルの耳に唇を寄せる。


「前にね、言っていたの」


 誰が言ったかなんて言わずもがなだ。


「……『あれは俺のだ』って」


 それを聞いて、ウィシェルは眉間に皺を寄せた。


「魔剣・ウルバンテインを? 自分のものだって言ったの、あの人?」


 肯定を示すスウリに、思わずウィシェルは噴き出した。


 周りの部屋に迷惑を掛けてはいけないと、必死でこらえながらも、二人はくすくすと小さな笑いを零し続けた。









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